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【side B】道連れを道行きにするのがわたし達の手筈
悪夢を見て、目が覚めた。
幼い頃、わたしは眠りながら笑っている子どもだったそうだ。
母曰く、そんなわたしのことを可哀想に、と思っていたという。
眠っている時に笑う子は、現実が辛いから。
母が読んだ育児の参考書にそう書いてあって、幼い頃のわたしの繊細さと生きづらさを母は感じ取っていただろうから。
今日。休日。三回目のワクチンを昨日急きょ摂取して、そのため、予定が全部なしになり、早朝ゴミ出しと玄関とベランダの掃除をしたあとに昼寝をした。
最近、懸賞で当たった昼寝用ソファと大好きなサーフブランドの海上がりにぴったりな肌触りのいいボアブランケットと、近所のリサイクルショップで買ったユニコーンのぬいぐるみと猫とともに。
そこで、悪夢を見た。
悪夢は、仕事で関わっている男性たちから総出でLINEで吊し上げられる、という内容だった。
生意気な一言、ちょっとした連絡ミス。始まりはそれで確かにそれはわたしが悪い。だから、わたしは謝り続けて、けれど、謝れば謝るほど場の状況は常軌を逸していった。
「お前が悪いと思うならやらせろよ」
「だったら、お前、全員の足の裏舐めろよ。そうしたら許してやってもいい」
場がそんな言葉が当然、いや、むしろ、それを言うことで彼らがヒーローになれる、「よく言った」と称賛されるという状況になった時。
彼らのリーダー格がこう言った。
「とりあえず、焼き肉でも食べに行く?」
目は、そこで覚めた。
わたしが見る夢には二種類がある。ひとつは夢だとわかっていながら見る夢だ。そういった夢は大抵、空を飛ぶ夢が多い。その夢を見ている時は、いつも、もっと、と思っている。もうすぐ目が覚める、それはわかっている。けれど、わたし、もっと空を飛びたいの。あの地平線の向こうまで、行ってみたいの、夢よ覚めないで、と。
もうひとつは夢だとわかっていないで、見る夢だ。そして、そういった夢は悪夢が多い。忘れたいと願い封印していた過去そのままの夢もあり、そういった夢はもちろん見るのは辛いが、ある種、必要なものだったと今にしては思う。
わたし自身も記憶をなくしていた人間だが、ほかにも記憶をなくしている友人が何人かいる。それは、事故や病気で脳を欠損したという物理的な理由ではなく、あまりにも酷い経験をしたからだ。
よしもとばななさんの『マリカの永い夜;バリ夢日記』という小説がある。
とても好きな小説で、よく読み返す。
物語の語り部は元精神科医で、主人公は題名にもなっているマリカ。親に虐待を受けて育ち、多重人格者になった子どもだ。
手元に現在本がないので詳細はうろ覚えだが、この本の中に、「辛い記憶を乗り越えるために、心の中に別の人格まで作る人間の生きる力はすごい」というような言葉があった。
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わたしもそう思う。
抱えていては生きていけない記憶を、あえて封印し、それでも生きよう、生きさせようとする人間の脳の働きはすごい、と。
わたしの過去の記憶そのままの悪夢は、わたしがそれを思い出してももう生きられるようになったから、見ることができたのだと思う。
むしろ、思い出さないと、その欠落が、これからの人生の邪魔をしてしまう。
過去は過去。今ではない。
端的な事実だ。
けれど、記憶がない場合、思い出さなければ、過去を過去として葬ることもできず、ただ、頭のどこかに自分でもわからない灰色の部分があり、それを持ち続けることなど望んではいないのに、記憶がない分、どこにあるかわからなくて、ただ、頭の中に何か、
グレーな部分。もう死んでいる部分があるのだけはわかる。
もう死んでいる、ということを認めたら、本当に自分たちの人生が終わってしまうから、だから記憶をなくす。だが、その部分が、その時に、死んでしまったのは変わりがないのだ。どうしようもなく。致し方なく。
けれど。
生き直すことはできる。
記憶を取り戻さなければ、葬ることもできず、葬ることができないと生き直すこともできない。
「思い出せなんて言わないで。思い出さなくたっていいと思っているの」
これは、記憶をなくしている友人の言葉だ。彼女の歩んできた人生は、どんな人が聞いたって絶句するレベルの残酷な道のりで、そう、彼女に「思い出せ」なんて、わたしはとても言えない。
けれど、本当に生きたいのならば、思い出すしかない。
時が癒すのはダメージを受けた体と心だけで、「生きる」という決意は、炎を起こすようなものだ。自分で、薪を集め、火を熾し、燃やすしかない。
炎を起こす時には、さまざまな目的がある。
放火をすること、人を火炙りに処すこと、妬ましい相手の持ち物や財産を奪うこと、単なる火遊び、ただ火を眺めたいから、はしゃぎたいから、後始末もせずに。
そういった理由の炎は、ずっと昔から、そして、今も、よくニュースでも見るし現実でも見る。
今なら認められる。
今までわたしが見てきた炎は、自らの欲望に呑まれて人を火炙りにする、そしてその欲望を正当化する、処刑のための、炎だった。
魔女狩り、弾圧、隠れキリシタンの処刑。
そりゃあ、記憶もなくすよね。
けれど、
わたしが、自らに、炎を熾そうと思ったのは、
炎の灯に照らされる愛するひとの横顔をもっと見たいと思ったから。
寒かったね、って言って、熱燗でも飲む? って言って、じゃあ焼き肉でもしようか、って言って、そうしたら今度は暑くなってきたからやっぱりビールが飲みたいなんて言い出して、「うわ、わがまま」って笑って、そうしたら誰かがちょうどよくビールを持って現れて「最高」なんて言って、そうしたらまた誰かが楽器を持って現れる。
そんな、ありふれたキャンプファイヤーをしたいだけ、ずっと。
そのことに、気付いたからだよ。
ある日、燃えるしばを見つけて、約束の地に行くように言われたモーセのように。
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
それを、わたしは身をもって知っている。
前述の記憶をなくした彼女と昔、話した時のことだ。
「一緒に歩こう、行こうっていうのと、あなたを引き摺り落としたいっていうのって、力学的には一緒なの。だって、二人してぼろぼろになって地に堕ちるのも、一緒に陽の当たる道をお散歩するのも、一緒にはいるわけじゃない? わたし、すごい、今、それ、わかるよ。わたしを引き摺り落としたい、めちゃくちゃにしたいと願っている人間がいるの、すごくわかる。『行かないで、逝かないで、いつまでもわたしと一緒にいて』と願っているひとがいるのわかるよ」
「それ、わたしだ」
彼女は頭を抱えながら、言った。
「わたしだよ」
「うん」
わたしは、静かに答えた。
「知ってたよ」
道連れは、突然に降ってくる。坂道を転がり落ちている時に、同じように坂道を転がる彼女や彼はいる。時折、その道連れの誰かの体が奈落に堕ちる前の足止めになってくれたりもする。そして、手を放さないでと言われたのに、手を放した自分を思い知る夜もある。
手を伸ばしたのは、自分自身。
救われたかったのも、自分自身だけれども。
けれど、坂道を転がり落ちる人びとは、実はあらかじめ、知っているのだ。そう、知らないふりをして知っている。この先に奈落しかないことは。
そして、道行きは、決意とともにやってくる。わたしはこれからこの道を行く、と。伝えていく道を選ぶと。
その時、福音は訪れる。
神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。
出エジプト記で書かれるモーセはエジプトを出るまで40年かかり、結局、約束の地にはたどり着けなかった。その理由は、水を求める民に、怒りと権威の杖を持って岩を二回叩いて水を出したからだ、と言われている。そして、神から与えられた奇跡を、二回、岩を打つことで起こそうとしたからだ、とも。
そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。
すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。
なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。
どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。
そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、
主はモーセに言われた、
「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
ねえ、本当は。
救世主になどなりたくないし、そもそもなれるわけがないし、誰もがあらかじめ救われていることなど知っている。
わたし達は、ただ、知っているだけなんだ。
道連れは突然。けれど、道行きは、用意をすることができる。
さあ、道を行こう。一緒に行こう。いつもの家の前の散歩道。美味しいコーヒーがテイクアウトできるカフェも、いまだに1パック280円のたこ焼き屋さんも、張り紙が黄金色の折り紙のラーメン屋さんも、トリコロールカラーが可愛い学割がきくクレープ屋さんも、図書館も教会もおいしい野菜を売る八百屋と今日のおすすめの特売品を教えてくれる店員さんがいるスーパーもすぐそこだ。
もちろん、海を渡る清い風や、山から駆け抜ける清冽な空気や、滝つぼも泉も砂浜も近くにある。
わたしはこの場所が大好きなんだ。
そう言うことだけがきっと道連れを道行きにしていく手筈で、恋した相手のことを語るあなたの瞳が煌めくように、わたしがわたしの愛した場所を語る時、きっと、わたしの目は煌めく。
そして、手筈は整えられ、あなたは天から届く呼び声を聞いている。
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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。