【小説】ママとガール[7]「お古の浴衣とアンティークのかんざし」
7「お古の浴衣とアンティークのかんざし」
その頃には、夢子はもうきら子に学校に行けとは言わなくなった。学校に行かずとも明るくなり、外に出ていくようになったきら子に夢子は安心しているようだった。
夢子は、きら子の服を借りては着て、「私の方が似合うからちょうだい」と言ってきたり、給料日にはきら子を連れて近所のダイニングバーに出かけ、「姉妹なんです」と店のスタッフに言い張ったりしていた。「こんな美人姉妹とご一緒出来るなんて嬉しいなぁ」と隣の席の男性二人組が勘定を持ってくれたり、二十代とおぼしき男二人に「これから飲みに行かない?」とナンパされた事もあった。その度に、夢子は機嫌を良くしていた。
きら子は午前中に家事をし、午後は服を作ったり、読書をしたり古着屋やアンティークショップを巡ったり、佳男の店に行って過ごした。学校からの連絡もほとんどなくなった。夏休みの前に、進級し、クラスが変わったので一度来ないか、と言う連絡があったが、きら子はそれを無視した。後日、届けられたクラス名簿を、見もせずに机の引き出しに突っ込んだだけだった。
八月の中旬には夢子と一緒に祖母の家に行った。夢子は同窓会や飲み会で出かけてばかりで、きら子は持っていた作りかけの服に手を入れて過ごした。八月の下旬に翔太はブラジルから戻ってきた。顔も体も黒くなり、何だか背まで伸びたように見えた。久々に友達に会って、と翔太は楽しげにブラジルの生活を語った。友達という単語が、初めて翔太の口から出てきたような気がした。自分は友達と呼べる相手がいるのだろうか。きら子は、ふと考える。翔太がいればいい。そう思って、すぐに疑問は打ち消した。
残り短い夏休みを、きら子は翔太と過ごすつもりでいた。夏祭りに出かける為、翔太がいない間に夢子のお古の浴衣の着付けを練習し、西荻窪のアンティーク着物の店でかんざしと下駄も買った。男の子に浴衣姿を見せるのは初めてだ。そう思いながら、きら子は翔太を夏祭りに誘った。けれど、久しぶりに会った翔太は旅行に行っていた分、今から夏季講習を受けなければいけないと言った。
「一応、受験生だし」
翔太はきら子に申し訳なさそうに言った。
「そっか……」
自分でも驚く程、あからさまにがっかりした声できら子は答えた。
「ごめんな」
翔太はきら子の頭にぽんと手を乗せてそう言った。
「きらちゃんも、もう二年だよね。進路どうするの」
翔太の言葉にきら子は顔を上げた。進路の事など今まで考えた事もなかった。
「中学行きたくなくても、高校はやっぱり行った方が」
「やめて」
きら子は翔太の言葉を遮り、言った。
「翔ちゃんはまずは自分の事じゃん。私はまだ時間あるし」
「いや、意外と時間ってないよ」
「ともかくいいの、私の事は翔ちゃんに関係ないでしょ」
翔太が深く息を吐いた。嫌な言い方をしてしまった。きら子は唇を噛みしめて俯く。
「嫌ならいいけど……」
翔太が珍しく語尾を濁すように言った。
「考えるよ、考えておく」
本当はまだ考えたくはなかったけれど、場をまとめる為にきら子は言った。翔太は心配げにきら子を見ている。きら子は翔太の肩に額をつけた。
「もうちょっと時間が欲しいよ……」
そう言ったら、翔太の顔が一瞬歪んだ。きら子は驚いて、翔太の顔を見つめた。翔太の腕がきら子の背中に回ってくる。いつもよりずっと強い力で抱き締められた。
「ごめんな」
そう言って、翔太はもう一度、強くきら子を抱き締めた。
八月は暑いばかりで客足が少ないものだ。きら子は佳男からフリーマーケットについて、そう聞かされていた。けれど、暇を持て余していたきら子は、実家から帰ってきたその週に出店をしてみた。街のショーウィンドウは既に秋服に変わっている。だったら、秋冬ものでも売れるのではないか。そう予想していろいろ持ち寄ってみたものの、売れるのは安い夏ものばかりだった。遮るものが何もない明治公園の会場はとにかく暑い。その日は夏季講習の為、翔太も来なかった。売上もいつもの半分もいかなかった。きら子は、結局ほとんど売れなかった品物を一人引きずって家に帰った。
涼しくなるまでフリーマーケットの出店は取りやめる事にした。そうすると途端にする事がなくなった。
佳男の店に行ってみたものの、夏物のセールが終わったけれど秋服はまだ売れない中途半端な時期で特にやる事はなかった。結局、佳男と店内でアイスを食べるだけだった。
「あ、きら子、今日、暇?」
アイスの棒をゴミ箱に投げ入れながら、佳男が言った。きら子は口の中に残っていたアイスを飲み込み、答えた。
「暇。ていうか、ここ最近ずっと暇」
「どうりで冴えない顔してるな」
佳男のその言葉に、きら子はふんとそっぽを向く。「冗談だよ」と佳男がきら子をいなす。その言葉に軽く肩をすくめ、きら子は無言でアイスを食べた。
店の営業終了時間が近付いていた。佳男は売り上げの計算をし始めている。一人でこのまま家に帰るのか。そう思うと、心細いような気持ちになった。思わず、小さくため息をついた。
佳男は、きら子のその様子に呆れたように笑ってこう続けた。
「じゃあさ、お前、ちかと今日、飯でも食ってけよ。俺、これから、友達と飲むからさ。ちか、一人になっちゃうし」
佳男はそう言うと、「決定」と言って携帯電話で話し出した。
「きら子が今、店にいてこの後も暇だってよ。お前、きら子と会いたいって言ってたじゃん。一緒に飯でも食えば?」
すると、携帯から「行く行く」という声が聞こえてきた。
「あと二十分で来るって」
電話を切り、佳男はきら子にそう言った。きら子は戸惑いながら、佳男に言った。
「え、でも、私、ちかさんとほとんど話した事ないよ」
「俺の彼女だから、大丈夫だって。ちかも話したがってたし。ていうか、今日、きら子暗いぞ」
「え?」
きら子は、佳男の顔をまじまじと見た。佳男は変わらず何食わぬ顔で売上の計算を続けている。
「あの彼氏の事かなぁ、だったら俺に話せないよなぁ、と思ってさ。ま、話したくないならいいけど、女同士だから話せる事もあるでしょ」
がちゃりとレジの引き出しを閉め、佳男はよし終わり、と呟いた。ちょうど佳男の携帯が鳴り、「おー、ちか? 今、店の前? きら子連れてすぐ行く」と佳男は答えた。戸惑うきら子を急かし、佳男は店の戸締りをした。促されるまま、階段を降りる。ちかはタンクトップに切りっぱなしのデニムのミニスカートを穿いて、大きく手を振っていた。
「じゃ、今日は女同士って事で。きらちゃん、何食べる?」
そう言って、ちかは佳男に手を振り、歩き出した。
ちかが選んだ店は、佳男の店と同じように店中が木材で出来た小さなバーだった。
「ここはバーだけど、ご飯も美味しいんだ」
ちかがそう言い、きら子にメニューを手渡す。
「私、よくわからないから、ちかさん何か選んでください」
きら子がそう言ってメニューを渡し返すと、「じゃあ、それじゃ」とちかは数品を選び、ウェイターを呼んだ。すぐに小瓶に入った外国産のビールとウーロン茶が運ばれてくる。二人は、グラスを合わせて乾杯をした。
「いきなりごめんね。私、前からきら子ちゃんと話してみたかったんだよね」
ちかがそう言って、ビールを瓶のまま一口飲んだ。
「どうしてですか?」
きら子は、ウーロン茶をストローで飲みながら聞き返した。
「最初は嫉妬かなぁ。佳男が楽しそうにきら子ちゃんの話をしてるから。けど、今、それはないよ。佳男は阿呆な所もあるけど、きら子ちゃんに手を出したりはしないもん」
きら子は、目を見開いてちかを見た。ちかの口から嫉妬という言葉が出た事に驚いていた。
無言でいたきら子に、ちかが顔の前で手を振り、こう続けた。
「ごめんね、嫉妬してたなんて言って。でも、本当に今は違うからだって、今日も別れ際に言われたもん。きら子が元気ないから話を聞いてやってくれって。完全にお兄ちゃん気分だよね」
きら子はその言葉に、瞬きを大きくひとつした。自分なんて、佳男にとって、ちょっとすれ違っただけの中学生なのだ。けれど、佳男はきら子の事をこんなに気にしていてくれた。嬉しさと同時に、困惑が胸の中で小さく弾けた。きら子は、何も言えずにまたウーロン茶を啜った。ちかが、言葉を続けた。
「あと、それとは別に興味あって。学校に行かないでフリーマーケットで服を売って、すごい売上を出してる子って、どんな子かなって。話してみたいってずっと思ってたんだ」
そう言って、ちかは口を横に広げるように、にっと笑った。
きら子は、その笑顔に応えられず、ただ運ばれてきた料理を突ついていた。自分よりずっと年上の同性を相手に、どんな話をすればいいのだろう。そう考えると、言葉が何も口から出てこなくなった。翔太と会えない事、進路の事、高校の事。心の中に渦巻くものはたくさんある。けれど、そんな事をちかに言ってもいいのかわからなかった。きら子は、視線をテーブルに落としたまま、小さく言った。
「大した事じゃないんです。全然。私は学校に行けなくなっちゃっただけで」
「どうして?」
「……いろいろあって」
きら子はそれだけ言って口を閉じた。ちかはそれ以上、追及してこなかった。その沈黙が心地よかった。きら子は、また口を開いた。
「それからも家の中でも学校関係でもいろいろあって。でも、今、結構落ち着いてきたんです。春からフリマもやるようになって佳男ちゃんにも会えて、翔ちゃんもいて、毎日楽しかった」
「うん」
ちかが、静かに頷いた。
「でも、それだけじゃいられないんだな、って最近思うようになってきて。翔ちゃんも受験って言うし、フリマも売れなくなってきてるし、私も、中二を半分過ぎたし。やっと楽しいって思えるようになったのに、ずっとこのままでいたいのに」
「そっか……」
ちかはそう言って、自分のビールときら子のウーロン茶を追加で注文した。
「私が中二の時、そんな事、考えてたかな。考えてなかったような気がするな」
そう言ってちかはサラダを取り分け、きら子の前に置く。それから頬杖をついてこう続けた。
「いや、考えてたのかもな。覚えていないだけかな。好きな子もいたし、きっと進路でも悩んでたんだよね。いろんな事、もしかしたら、今以上に真剣に悩んでいたのかもね」
新しく来たビールを一口飲み、ちかは遠い目をして言った。きら子は下を向いたまま、ぽつりとこう言った。
「ずっとこのままでいたいなんて、自分が思うようになるとは思ってなかった」
きら子が続けた言葉に、ちかは不思議そうな顔をして聞いた。
「どうして?」
「いつも、ここじゃない所に行きたいって思ってたんです。ここは嫌だ、もっと別の所って。でも、今は、」
違う。そう続けようとして、きら子は口を閉じた。今、自分が言った言葉に、きら子は驚いていた。
「今、幸せなんだね、きら子ちゃんは」
ちかが、目を細めてそう言った。きら子はちかの言葉にこくんと頷いた。
「まぁ、まだ中二だし、ゆっくり悩みなよ」
ちかはそう言って、きら子を下北沢の駅まで送ってくれた。
「また話そうね」
そう言って、帰り際にちかは大きく手を振った。きら子は礼を言って改札を抜けた後、もう一度頭を下げた。
帰りの電車で、きら子は一人息を吐いた。
幸せ、かぁ。
車窓を眺めながら、ちかに言われた言葉を繰り返す。
幸せ、なんだよね。
もう一度、胸の中で確認をした。
一年前には想像もつかなかったようなものが、今、きら子の元にある。けれど、だからこそ、きら子の胸は重苦しかった。
それから、きら子は家にこもり、無気力に日々を送っていた。秋のフリーマーケットに向けて服を作り貯めようとしていた気持ちも、何処かに消えてしまっていた。毎日来る翔太からのメールにもおざなりな返事を返すだけだった。そんな状態で二週間が過ぎた頃、夢子が押入れから段ボールを取り出して言った。
「ちょっときらちゃん、こっち来て」
いつになく強い口調だ。その声に驚きながら、きら子は返事をした。
「何、どうしたの、怖い顔して」
「最近のきらちゃんはだらけ過ぎよ」
夢子が、段ボールのガムテープを剥がしながらそう言う。
「いろいろ悩んでいるのかもしれないけど、きらちゃんの悩みなんて、皆、考える事なのよ。ほら、これ読みなさい」
そう言って、夢子がきら子の目の前に置いたのは、古いぼろぼろのノートだった。
「実は私、中学生の頃からずっと日記をつけてたの。きらちゃん、これ読んでみなさい」
「えー、いいの?」
目の前にある段ボールを覗き込み、きら子はうきうきしながら言った。今ここにある段ボールには自分の知らない夢子がいっぱい詰まっている。中学生時代の夢子はどんな子どもだったのだろう。そう思うと、胸が弾んだ。
「見せるのはこれだけ、中学生の時のだけよ。他のは見ないでね」
そう言って、夢子は段ボールを押入れにしまい、十冊ほどのノートを渡してきた。
「ありがとう、お母さん」
きら子はそう答えて、ノートを抱え、自分の部屋に戻った。
ベッドに寝転がり、早速、日記を開いた。今と変わらない見慣れた夢子の文字がびっしりと並んでいた。
『松本屋でたい焼きを買って食べた』、『皆がビートルズだとポールと言うけれど、私はジョンが好き』、『大田くんがクラスでは大人気だけど、私はあまり好きじゃない』。
夢子の送る日常が、そんな風にひたすらに書き連ねられていた。ページを繰っていくと、一枚のテスト用紙がセロハンテープで貼られていた。その下にはこう記してあった。
『高津くんの数学の小テスト。紙飛行機にしていたものを偶然拾った。嬉しい』
高津くんという男の子が夢子の好きな人だったようだ。きら子は微笑ましい気分で、踊るように跳ねている夢子の文字を撫でた。
気に入っていたアイドルの恋愛スキャンダルに、『あんな事をする人だなんて思わなかった』と、夢子は本気で落ち込んでいた。高津くんが、他のクラスの女子と話している所を見かけて『もういい。死んじゃいたい』と乱れた字で書いていた。その翌日には高津くんから話しかけられたと記してあり、『やっぱり高津くんも私の事が好きなのかも』と浮かれている。調子がいいのは今と変わらない。きら子は、くすくすと笑った。
中学校二年生の秋頃になると、高津の描写が増えた。『一緒に帰った』という一言を見て、二人が付き合いだした事がわかった。
りんごの木の影に隠れて、手を繋いだ。同級生に見つかりそうになって、草影に隠れた。親に補習だと嘘をついて、夕暮れの神社で二人で話した。農作業の道具の倉庫の影で待ち合わせた。色違いのマフラーを買った。帰り道でたこ焼きを一緒に食べ、その時に初めてキスをした。ファーストキスは青海苔の味と言っていた夢子の事を思い出す。高津くんがファーストキスの相手だったんだね。当時の夢子を自分と同い年の友達のように思いながら、きら子は日記を読み進めていった。
日記に記されている夢子と高津の様子が変わったのは、年が明けてすぐの事だった。夢子は学区内で一番いい高校に行くつもりで、受験勉強にせいを出していた。ところが、高津は成績があまり良くなく、とても夢子と同じ高校へは行けなかったようだった。受験勉強が忙しくなるにつれて、二人の距離は開いていった。ある日、夢子は高津が自転車の後ろに他の女の子を乗せているのを目撃してしまう。後ろに乗っていたのは、髪を赤く染めた地元の偏差値の低い高校の制服を着た女だった。
『もういい。高津くんなんて知らない』
その一言が書かれてから数日間、日記は書かれていなかった。そして、数日間の空白の後、一言こう記されていた。
『ずっと一緒にいたかったのに』
きら子は、そこでページを閉じた。
ずっと一緒にいたい。きら子は今、翔太に対してそう思っている。『ずっと一緒にいたかったのに』。そんな風に過去の夢子のように言いたくはなかった。
けれど、一体どうすればいいのだろう。
きら子はその日、夢子の日記を読みながら、眠りについた。
翌日も引き続き、きら子は夢子の日記を読んだ。高津と別れた後、夢子はすぐに自分が行くつもりの高校に好きな男を見つけ、その男に会う為に受験勉強を頑張っていた。無事、高校に受かり、卒業式を迎えた所で中学生分の日記は終わっていた。結局、夢子と高津は言葉を交わす事もなく別の高校へと進学していた。
日記を読み終えたのは昼の二時だった。きら子は昼食を作って食べた後、押し入れを開けた。案の定、大雑把な性格の夢子は段ボールを開けたまま、すぐ手の届く場所に放置してあった。ここまで来てしまったら続きも読みたい。きら子はノートが入れてある順番を崩さないようにして、日記の続きを取り出した。
高校生になってからは、また新たな山岳部の先輩との恋模様が描かれていた。同時に夢子の中で、東京への憧れがどんどん増しているのがわかった。『大学は絶対に東京に行く』と強い筆圧で何度も書かれていた。しかし、夢子は受験に失敗してしまった。しばらく呆然としながら近場でアルバイトをした後、夢子は貯めた金を持って東京に行く。そして、東京のアルバイト先できら子の父と会い、結婚したのだ。
きら子が、生まれる前の日記もあった。
『まだ私は二十歳だ。産むべきかどうか、この子がお腹にいると知ってから、ずいぶん悩んだ。けれど、産む事にしてよかった』
妊娠三か月の頃に、夢子はそう書いていた。
『親も親戚もいない所で子どもを育てていくのは正直、不安だ』
そう書かれていた日記の翌日、『喧嘩をしてしまった』と記されていた。そして、その後に父からの手紙が貼り付けてあった。
『君が不安なのはわかっている。なのに、側にいる事が出来なくてごめん。けれど、信じて欲しい。誰よりも愛している。産まれる子どもと君の事を』
黄ばんだ紙に、父の懐かしい筆跡でそう書かれていた。
そして、きら子が生まれる直前に夢子はこう書いていた。
『お腹の中から何か温かいものが湧いてくる。この子を産む事にして本当によかった。一生、二人でこの子を育てていく』
でも、この十二年後、あなた達は別れていますが。日記の中の二人にきら子はそう言いたくなった。過ぎ去った時間は、永遠を信じ切っていた二人は、今はもうここにないのだ。馬鹿じゃないの、ときら子は日記を宙に放り投げたくなった。けれど、それでも、その当時の父と母が本当に思い合っていた事がわかった。だからこそ、今、二人が別れている事が沁みるように胸を軋ませた。
日記はその後、子育ての忙しさのせいか一時中断していた。再開されたのは三年前で、日記の中の主な話題は夢子の初の浮気だった。どうやら、きら子の父も、その当時、浮気をしていたらしく、自分も浮気をしながらも父の浮気が気に入らない夢子の心情や、けれどきら子に申し訳がないと揺れる心が描かれていた。
読み終えたのは夕方六時だった。日記は夢子と父の離婚の直前で終わっていた。二十年間の夢子の軌跡を一度に読んだら、何だか頭がくらくらした。日記を元の場所に戻して、きら子はソファに横たわった。
時間って何なのよ。どうしてこんなに人は変わっちゃうの。
脳裏に、そんな言葉がよぎる。
高津くんを好きだった夢子は何処に消えてしまったのだろう。お父さんを好きだった夢子は何処に消えてしまったのだろう。
目の上に腕を乗せて、きら子はひたすらにそう考えていた。
その日、帰ってきた夢子に日記を返しながらきら子は言った。
「面白かったけど、書いてある事って恋愛とアイドルの事ばっかじゃん。あんまり悩んだりしてないよ」
きら子がそう言うと、夢子は「そんな筈ないわよー」と言いながら日記を読み返し始めた。
「そうそう、松本屋のたい焼き美味しかったなー」
そんな独り言を言いながら、楽しそうに読み進めている。きら子は炊飯器のスイッチを入れ、炒め物を作り始めた。
「きらちゃん、豆板醤多めでー」
日記を読みながら、夢子が言う。会いたいな。ふと、思った。その言葉が誰に向かっているのかは知らない振りをしながら、フライパンを火にかけた。
九月に入り、翔太は更に多忙になったようだった。今までは週に二回は会っていたというのに、なかなか会えなくなった。けれど、それでも翔太はまめに連絡をくれた。
「今、本当、忙しくて。いろいろあってさ」
「そっか」
その一言しか言えず、きら子は口を閉じた。「寂しい」と気軽に口に出せた夏がまるで嘘のようだ。
「でも、来週の日曜は一日空けた。どっか行こう、きらちゃん。きらちゃんの行きたい所なら何処でもいいよ」
「じゃあ、うちに来て」
きら子は、そう即答した。
「お母さん、丁度、仕事で出張なんだって。誰もいないから」
「いいの?」
翔太が、囁くようにそっと聞いた。
「いいの」
きら子は言い切るようにそう答えた。
日曜、翔太はケーキの箱を下げてきら子の家に現れた。
「ゆっくりしていって。ご飯、何食べたい?」
きら子がそう聞くと、翔太は「きらちゃんが作るのなら何でも」と答えた。
紅茶を入れ、ケーキを食べ、窓辺に座って話をした。近くに高い建物がないきら子のマンションからは、寝転がると空だけが見えた。窓を開け放し、ベランダの方向に頭を向けて寝ると屋上で寝ている気分になる。そう言って翔太に隣に寝るように促すと、本当だ、と翔太は笑った。久しぶりに会う翔太は更に背が伸び、たくましくなったように見えた。
「何か、翔ちゃん大きくなったね」
きら子がそう言うと、翔太は照れたように「成長期だから」と言った。
秋の空は、高く遠く青かった。風が明らかに夏とは違った。「秋だねぇ」ときら子が言うと、同じように翔太は「秋だねぇ」と返した。
いつもより部屋が狭く感じられた。自分よりも夢子よりもずっと大きい翔太がいるからだろう。テレビは点けず、音楽もかけなかった。ただ、時折、紅茶を飲み、寝転がっては高い空を見上げた。
夕暮れが近付き、きら子はもう一度、翔太に「何が食べたい?」と聞いた。「本当、何でもいいよ」と翔太は答えた。スーパーに買い出しに行き、ハンバーグとオムライスを作った。普段、夢子が食べる事を考えると、きら子はどうしても酒のつまみになりやすい和食を作ってしまう。だが、今日はいかにもな洋食を作ってみたかった。翔太は「美味い、美味い」と、どれもおかわりをして食べた。食後、きら子は実家のりんごで作ったアップルパイを出した。翔太はアップルパイもホールの半分近く食べた。
「きらちゃん、料理上手いね」
食事の後、翔太は腹をさすりながら、クッションに体をもたせかけ、そう言った。
「ずっと、お母さんと二人だから」
きら子は、後片付けをしながら、そう答えた。
向かい合って、食後のお茶を飲んだ。立ち上る湯気がゆらゆらと形を変えていく。二人の間に沈黙が流れた。その時、翔太がきら子の顔を覗き込んだ。
「ずっと聞きたかったんだけど、きらちゃん、お父さんはどうしたの?」
どうして、翔太はこんな風に見透かしたように聞いてくるのだろう。そう思いながらきら子は口を開いた。
「離婚。私が、中学に上がる直前に。それから、ここ最近しばらく会ってない」
「でも、会いたくならない?」
翔太の言葉に、きら子は顔を上げた。そんな風に、真っ直ぐに誰かに聞かれたのは初めてのような気がした。
「会いたい」
この気持ちを口に出したのは初めてだった。唇が震えないよう、小さくきら子は続けた。
「十八歳になるまで会えない事になってるの。でも、私、お父さんの会社の住所を知ってる。だけど、会うのが怖いの」
「どうして怖いの?」
翔太がそっと囁くように聞いた。きら子は俯いて、こう答えた。
「お父さんと会ってもどうしていいかわからないから。私とお父さん、話す事なんてない。言いたい事が言えないんだもん」
「どうして言えないの」
翔太が、静かに聞いた。
「だって、また戻りたいなんて、本当は、今でもお父さんとお母さんの三人で暮らしたいなんて言える訳がない」
溢れ出した感情に押されて出た声が、悲鳴のように部屋に響いた。翔太が、眉をひそめてこちらを見ていた。きら子は、翔太から視線をそらして小さく呟いた。
「そんな事、言ったって仕方無いから……」
翔太の手が、テーブルを越えてきら子の手を握りしめた。その手をきら子はきゅっと握り締めた。
「この前、お母さんの日記を見たの。私が、生まれた時の事が書いてあった。『誰よりも君と産まれる子どもを愛してる』ってお父さんの手紙にあった。その時の事、嘘じゃないと思う。でも、今は遠く離れて会えなくて」
きら子は、そこで一度、口を閉じた。何度か、小さく息を吸った。今までの不安が全て押し寄せてきたように、言葉が止まらなかった。
「日記に、お母さんの初恋の話も書いてあったの。些細な事であっという間に別れてた。お父さんに会いたいけど、会って困った顔されたらどうしようとか、翔ちゃんとずっと一緒にいたいけど、でもそういう訳にはいかないんだ、とか、最近ずっと考えてて」
翔太の手が、きら子の頬をそっと撫でた。きら子はその手に自分の手を重ねた。そして、一息に言った。
「怖いの。また二人が別れた時みたいに、いきなり全部ばらばらになったら」
翔太の手を顔にあてがいながら、きら子はそう叫んだ。全く脈絡のない話だと自分でも思った。けれど、それでも言わずにはいられなかった。
翔太を失いたくなかった。父と母が別れた時のような気持ちを二度と味わいたくはなかった。そんな風に恐れる必要など今はないのはわかっている。けれど、想像しただけで、不安でいってもたってもいられなくなった。
話している内に涙が零れ落ちてきた。きら子は翔太の手を握りしめながら、ひたすらに泣いた。
翔太の腕が肩を回り、きら子を抱き寄せた。赤ん坊をあやすように、背中をぽんぽんと叩かれる。翔太が、そっと言った。
「お父さん、何処にいるの」
「家は知らない。会社の住所と電話番号はわかるけど」
「連絡は」
「一度してみたけど、会社の番号が変わってたみたいで繋がらなかった」
そう答えながら、きら子は鼻を啜り上げた。
「会いに行こうよ」
翔太が、きら子の背中をそっと撫で、続けた。
「会おうよ、会ってから考えればいいよ」
自分の背中をなでる翔太の手のひらの感触を追いながら、きら子は翔太の胸に体を預け、その言葉を聞いていた。
翔太はその日、電車で帰って行った。「泊まる?」ときら子が聞いたら、悩んだ末に「今日はやめとく」と答えた。がっかりするような気持ちと、ほっとするような気持ちが交錯し、それから後ろめたいような気持ちが湧き上がる。
何だか、今日の自分は偽物だったような気がした。ただ寂しさや揺れる心をぶつけたくて、翔太を呼んでしまったような気がした。甘え過ぎだったかもしれない。そう思うと、今すぐ翔太に謝りたくなった。きら子は、携帯を手に取った。すると、そこには翔太からのメールが入っていた。
『今日はびっくりしたけど、きらちゃんの本当の気持ちがわかって嬉しかった。溜め込まないで言ってよ。俺がいるし』
俺がいるし。きら子はその言葉を胸の中でもう一度繰り返した。
きら子は携帯を捧げ持つように額の上に当てた。嬉しかった。他の何の言葉も思いつかなくて、きら子はこう返した。
『ありがとう。巻き込んでごめんね』
それから慌てて、もう一度メールを送った。
『今度は泊まって』
そう送るとすぐさま返事が返ってきた。
『そうだよ、俺、馬鹿かも。でも、今度はきらちゃんが笑ってる時に』
小さく笑って、きら子はもう一度、胸の中でありがとうと呟いた。
[8に続く]
翔太がいい奴過ぎてきゃあ! な回ですねー。でも、まっすぐ育った子ってこういう風にできると思うよ。
あと、ちかがいい味出してる回でもあるな、と思います。
こういう感覚、今、無料公開を始めてわたしもすごく思ったりする。フィクションではありますが、中学の時の気持ちや感覚を残しておいて本当によかった。
ちなみに、「人生に悩んでいた中学生当時に母親から日記を見せられる」というエピソードは実話です。
そう言えばこの『ママとガール』はわたしが書いた小説の中で、一番主人公の年齢が下なんだよね。
『腹黒い11人の女』、『MIDNIGHT PARADE』、『ろくでなし6TEEN』と無料公開を始めて、まるで自分の過去を総ざらいしているような心境になります。
あともうひとつ、完成しているけれど世に出していない原稿があって。
『ママとガール』が終わったら、それも無料公開して、そうしたらようやく新しいもの、中途で止まっていた原稿を書き始めることができる気がする。
全12回、引き続きお付き合いください。
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