【小説】ママとガール[9]「指が折れそうなくらいに大きいダイヤ」
9「指が折れそうなくらいに大きいダイヤ」
季節は冬になっていた。きら子は、翔太へクリスマスに手製のニットキャップと佳男の店で買ったパーカーをあげた。翔太は、小さな花束とブレスレットをくれた。細いチェーンに星が連なったデザインのもので、父がくれたネックレスと似ていた。その事が、何だか嬉しかった。きら子がブレスレットをつけようとすると、留め金がうまく嵌まらなかった。翔太が、「仕方ないな」と言いながらブレスレットを手に取った。四角くすら見える骨ばった指が、小さな留め金をかちんと嵌める。きら子は、その様をずっと覚えていようと目を凝らした。
年末は夢子と二人、家で過ごした。大掃除をし、料理本を片手におせちを作り、二人で鍋をして、テレビを眺めた。年が明けた瞬間に、翔太から電話が来た。
「この時期って電話混み合うんだよなー。繋がったの奇跡だよ」
そう言う翔太にきら子は笑って、初詣の約束をした。
初詣の場所は、きら子の家の近くの神社にした。三が日を過ぎた日を選んだので、それ程は混んではいなかった。境内にはいくつか露店が並び、去年のお札や破魔矢を境内で神主がお焚き上げしていた。
きら子は子ども用の着物をリメイクしたワンピースを着て、大きなファーの襟巻にラインストーンのブローチを付けた格好をしていた。靴は、草履の底を厚くしたようなサンダルにした。翔太はパタゴニアの蛍光イエローのダウンにいつものデニムとNIKEのスニーカーだった。ニットキャップは、クリスマスにきら子がプレゼントしたものだった。
玉砂利を踏んで、奥へと進む。お手水の作法をきら子は翔太に教えた。翔太は「こんな風にちゃんとするのは初めてだ」と言いながら、手と口をゆすいだ。きら子はハンカチを翔太に差し出した。
「汚れるからいいよ、俺はパンツで拭いちゃうから」
「ハンカチは汚れていいものなの。はい」
遠慮する翔太に、きら子はハンカチを無理矢理に手渡した。
「俺、ずっと海外にいたから、こういう風に初詣に来るの初だよ」
翔太はハンカチで手を拭きながら、照れたように言った。
本殿の前には、わらわらと人が集っていた。翔太がきら子の肩を抱き、人込みの間をすり抜け、最前列から三番目まで辿り着いた。賽銭を投げ、深く二礼し、二拍手した。そして、手を合わせ、頭を垂れた。何を祈るべきだろうか。きら子はその時、初めて考えた。翔太や夢子や佳男やちかが幸せでありますように。それだけ願うと、他には特に何もなかった。きら子は一礼をし、横にいる翔太を見た。
翔太は眉間に皺を寄せ、一心不乱に祈っていた。ぶつぶつと口の中で何かと唱えている。真剣な表情だった。翔太の周りだけ、見えない線でラインを引かれているかのように見えた。
長い祈りの後、翔太は深々と一礼をした。ぱっと表情が変わり、「きらちゃん、おみくじ引こうよ」と、またきら子の手を取る。絵馬が吊下げられている一角に行くと、翔太は目を輝かせて「俺もやりたい」と言った。絵馬を買いに売店に走る翔太を、きら子は絵馬の記帳台の前で待った。
何を願っていたんだろう。
翔太の後ろ姿に、そう思った。
「この絵柄、格好いいよね。マジックどこ?」
気付けば翔太は絵馬を持ち、きら子の前で笑っていた。きら子は「ここだよ」と記帳台に紐でつないであるマジックを翔太に手渡した。
「何を書こうかな」
翔太はそう言ってペンを走らせる。それから、ふと手を止めて、「きらちゃん、見られるの恥ずかしいから、ちょっとあっち向いてて」と言った。
きら子は小さく頷き、売店の方を向いた。
一体、何を書いているんだろう。
先程、感じた疑問が、また胸の中で疼き出した。
「お待たせ。おみくじ引こう」
翔太がそう言って、歩き出した。
おみくじには運勢の他に歌が記されていた。翔太の歌は『何事も誠意をもってあたれば道が開ける』という意味のものだった。きら子の歌は『過ぎたるは及ばざるに如し』という意味のものだった。きら子はおみくじを財布にしまった。翔太は「やったー。俺、頑張ろう」とおみくじの結果に浮かれていた。
家族のお守りを買うと言い、翔太は売店を見始めた。きら子は、売店の横にある休憩所のベンチに座り、翔太を待っていた。すると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「お母さん、お札ってこれでいいの?」
聞き覚えのある甲高い早口な声に思わず振り向いた。数メートル先の売店の横の一角に、山根がいた。
「あー、それは違う違う。もう一回り大きいの。ちょっと頼んで変えてもらってくるわ」
山根とよく似た声の中年女性が、山根の持っていた包みを取り、売店へと走っていく。驚きのあまり、きら子は山根を注視していた。母親の後ろ姿を眺めていた山根が、こちらを向いた。そして、きら子を見つけ、目を見開いた。
こんな風に近くで山根を見るのは学校に行かなくなって以来だった。白目の目立つ見据えるような瞳は変わらなかった。いつもポニーテールにまとめていた髪の毛を今日は下ろしている。サイズの大き過ぎる赤いコートを着て、コートからはチェックのスカートが覗いていた。靴は、学校指定のローファーだ。そんな風に仔細に山根の事を観察しながらも、きら子はその場から一歩も動けなかった。
「久々じゃん」
山根がゆっくりと口を開いて言った。そして、こう続けた。
「学校来ないのに、初詣は来るんだぁ」
その言葉を聞いた瞬間、肩が強張った。きら子は膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めた。
山根の視線と、薄い唇から紡がれる言葉が怖かった。毛玉のついた赤いコートも、茶がかかった縮れた髪も怖かった。
「その服、可愛いね」
山根が、にっこりと笑ってそう続けた。そして、言った。
「その服も、お父さんに買って貰ったの?」
息を呑み、きら子は山根の顔を見上げた。違う。そう言おうとした。けれど、言葉が口から出る前に、山根はきら子の方を見ないまま、走り去って行った。
「どうしたの、きらちゃん」
気が付くと、お守りの入った袋をぶら下げた翔太が横に座っていた。きら子は我に返り、自分の膝を見た。膝の上で握りしめた拳が白くなっていた。きら子は拳を緩め、翔太を見上げた。
喉がからからに乾いていた。唇を噛み締めると、出かけに塗ってきたグロスが滑り、甘い味がべたついて残った。山根の唇は乾燥していて、右端にはひび割れの後が残っていた。そんな事を思い出したら、自分がつけているグロスが急に厭わしく思えて、きら子は手の甲で唇を拭った。
「わ、どうしてそんな事すんの」
翔太がそう言い、きら子の顔を覗き込んで、「ほっぺにまで付いてるじゃん」と言った。翔太の指が、きら子の頬に近づいてくる。きら子はその手から顔を背けた。
「どうしたんだよー」
翔太が困惑したように言う。
「翔ちゃん」
やっとの思いで、そう言った。そうしたら、瞳に溜まっていた涙が溢れた。視界が歪む。翔太が「えぇ?」と驚きの声を上げる。きら子は立ち上がり、歩きだした。
「どうした? 俺、待たせ過ぎた? どうしたんだよ」
翔太が、うろたえながら後を付いてきた。きら子は、涙を拭いながら足早に歩いた。玉砂利を蹴散らす音がざっざっとあたりに響いた。時折、通り過ぎる人々がきら子と翔太を眺めながら何やら話をしていた。きっと喧嘩だと思われている。そう思っても、涙が止まらなかった。
人通りが途絶えた所に、小さなベンチがあった。そこで、翔太がきら子の腕を掴んだ。
「どうしたんだよ。泣いてちゃわかんないよ。ちょっとここ座ろう」
「違う、翔ちゃんのせいじゃないの」
きら子はそう言って、翔太の胸に顔を埋めた。
ひとしきり泣いた後、きら子は先程の出来事を話した。今までの山根との事、そして、何も言えなかった自分の事も全て話した。翔太は、きら子の肩をしっかり抱きながらその話を聞いていた。
翔太にみっともない所を見せてしまった自分が、嫌で堪らなかった。けれど、一度溢れた涙は抑えられず、きら子はハンカチでグロスと涙を拭った。翔太が、きら子の頬についていた髪の毛を取った。また、涙が滲み出てきた。けれど、堪えて鼻をかんだ。
「ごめんね」
「その、ごめんねってもう禁止ね」
翔太が、呆れたように笑ってそう言った。「じゃあ、すいません」ときら子が言うと、「可愛くねぇー」と、また笑った。その言葉に、きら子もようやく少し笑えた。
翔太が自販機まで走って、温かいロイヤルミルクティーを買ってきた。きら子はそれを啜りながら、ぽつぽつと話した。
「他の人の事はもうどうでもいいの。学校から連絡もないし、今は毎日楽しい。だから、何を言われてもこんな風に怖くならないし、辛くないの。でも、山根ちゃんの事は何か違って」
うん、と翔太が小さく頷いた。ベンチに立てた片膝の上に顎を乗せ、翔太はきら子を眺めていた。きら子は下を向いたまま、話を続けた。
「山根ちゃんがああいう事を言う度、私、痛い気持ちになる。私、酷い事をいっぱいされたよ。それは、もういいんだけど。おかげで翔ちゃんとか佳男ちゃんにも会えたし。でも、」
「でも?」
翔太が、そっと言った。その声に背中を押されるように、きら子は話を続けた。
「嫌いになれないの。私、どうしても山根ちゃんの事を嫌いになれない」
「そうかぁ」
翔太はそう言うと、しばらく腕を組んで考え込んだ。流れる沈黙が不安になり、きら子は翔太の顔を見上げた。すると、翔太がぽつりと言った。
「前にも言ったじゃん。もしかしたら、本当はそいつが一番『友達』なんじゃないのって」
意表を突かれて、きら子は目を見開き、言った。
「でも、私、前みたいなのは嫌だよ」
「そうじゃなくてさ」
翔太が苦笑しながら、きら子をいさめた。わかってるだろ、と言われたような気がした。きら子は、翔太の顔をもう一度、じっと見た。
翔太は静かに微笑んでいた。普段の翔太はいつもはしゃいで馬鹿ばかりをしていた。けれど、時折、こんな風に何もかもを見通したような顔をする。そんな翔太の側にいると、きら子はいつも自分が小さな子どもに戻ったような気持ちになった。
風に髪の毛があおられた。きら子は、両手で髪を掻きあげて口を開いた。
「今日、辛かったのは山根ちゃんがずっと同じままだってわかったからだったの。私の事をずるいって思ったままなんだよね、山根ちゃんは。きっと、ずっと一人のままなんだよね。でも、私には今は翔ちゃんや佳男ちゃんがいて」
そこで言葉を切り、きら子はもう一度口を開いた。
「そんな事ないのに。本当は、私に翔ちゃんとか佳男ちゃんとかいるみたいに、山根ちゃんにだって誰かいるのに」
翔太がきら子の肩をぐいと抱き、子どもをあやすように小さく揺らした。
「そんな風に考えてやれるのが、『友達』って事じゃん」
翔太が、そっとそう言った。そして、続けた。
「だったら、きらちゃんが誰かいるって事を教えてあげればいいよ」
翔太の言葉に、きら子は鼻を啜りながら聞き返した。
「どうやって?」
「それはだな」
得意げに腕を組み、翔太は考え込んだ。それから、胸を張って言った。
「俺みたいに直球で」
「ストーカーする勢いで?」
きら子がそう聞き返すと、翔太は「もうそれ言うのやめてよー」と眉を下げて言った。きら子はその翔太の様子に、ようやく笑えた。くすくす笑うきら子に翔太はほっとしたように目尻を下げる。そして、それから、こう言った。
「それぐらい、しつこくてもいいんじゃない?」
足元の玉砂利を小さく蹴り、翔太はもう一度続けた。
「好きなんだからさ。好きだって事は、しつこいくらいに伝えていいんだよ」
それから二人は冷えた体を温めようと近くのピザ屋に入った。翔太はピザを二枚とフライドチキンとチーズバーガーを注文して、瞬く間に食べ終えた。きら子はチーズバーガーをもそもそと食べながら、翔太に「こういうの嫌にならない?」と聞いた。翔太はきょとんとした顔で「こんな事って?」と聞き返した。
「泣いたり、とか。こういう重い話とか」
そう小声で呟くと、翔太は「ぜーんぜん」と、首を大きく横に振った。
「でも、面倒じゃない?」
きら子は恐る恐るそう聞いた。
「強いて言えば、そういう風に聞いてくる所が面倒かなー」
翔太は、きら子のハンバーガーの付け合わせのポテトに手を伸ばしながらそう答えた。
「何度も言ってるじゃん。ごめんって言わないでって」
「でもさ。私ばっかり頼ってるし。そうだ、翔ちゃん、受験は大丈夫なの? 私、そんな事も知らないよ」
きら子がそう聞くと、翔太はポテトを食べる手を止めた。しかし、すぐさま大きく笑い、こう言う。
「俺は大丈夫だよ。忙しいけど、順調だし。何も心配する事、俺にはないからさ。せめてきらちゃんの事ぐらい心配させてよ」
「でも」
そうきら子が言いかけた所で、翔太は店員に「すいません。メニューくださーい」と大きく叫んだ。
「やっぱり足りねぇ」
そう言いながらメニューを見ている翔太を、きら子はじっと見詰める。
「何だよー」
そう言って、翔太が笑った。
何だかもやもやしたものを感じたが、きら子はそれ以上追及をするのを止めた。指についたケチャップを舐め、翔太が更にハンバーガーを注文する所を眺める。もうすぐ、翔太は高校生に、自分は中学三年生になる。コーラを啜りながら、きら子はそう考えていた。
そして、二月。町はバレンタインデー一色になり、きら子は出かける度にあちこちのチョコレート店を覗き、翔太に渡すものを考えた。色とりどりのチョコレートは見ているだけでも楽しかった。見た目の可愛らしさで選ぶか、味で選ぶかで悩んだものの、きら子は結局ピエール・エルメのチョコレートを翔太にプレゼントする事にした。以前、夢子が会社のおみやげで持ってきたマカロンが美味しかったし、シンプルな包装も気に入った。きら子は表参道のショップでチョコレートを買い、ついでに夢子への土産にマカロンとチーズ味のパイも買って帰路についた。
翔太と会う日は、バレンタインデーの次の日曜日だった。きら子は、この冬に愛用しているムートンジャケットに黒のチュールのスカートを合わせて、上も黒いカットソーにした。久しぶりに大人っぽい格好をしたかった。アクセサリーはゴールドでまとめ、もちろん翔太から貰ったブレスレットもつけた。頭に黒の中折れハットを被り、足元はエナメルの黒いパンプスにニーソックスを合わせた。小さなチョコレートの包みを持ち、きら子は待ち合わせ場所へと急いだ。
待ち合わせは、三宿にあるカフェだった。世田谷公園のフリーマーケットの帰りに二人でよく立ち寄ったアンティーク家具のショップと一緒になっている広い店だ。十分前についたきら子よりも先に、翔太はその席で待っていた。きら子は翔太に手を振り、席へと腰を下した。
「私、ここのシフォンケーキが好きなの。今日はプレーンとバナナとオレンジと紅茶とチョコがあるって。どれにしようかな」
「どれでも頼んで」
「どれでもって、そんなに食べれないよ。悩む」
「いいって、全部頼んじゃおう」
そう言うと、翔太は店員にシフォンケーキを全種類注文した。
「え、本当無理だよ。翔ちゃん食べるの?」
きら子は翔太のその振る舞いに唖然としつつ、そう聞いた。
「いや、俺はそんなに」
翔太がぎくしゃくとした口調でそう返した。きら子は、翔太の様子に不思議な気持ちで聞き返した。
「何か、翔ちゃん、変だよ」
そう言って翔太の顔を覗くと、「そうかな」とすぐさま視線をそらされた。久々に会えて、しかもバレンタインだというのにこの振る舞いは何なのだろう。疑問に思いながらも、きら子はテーブルに紙袋を置いた。
「はい、バレンタイン。賞味期限が短いから早めに食べてね」
きら子の声に、翔太は顔を上げた。目を何度かしばたたかせて、じっときら子の顔を見つめている。きら子は首を捻りつつ、翔太に視線で問い返した。その瞬間、翔太がテーブルに手を付き、頭を下げた。
「ごめん」
え、ときら子が声を上げようとした拍子に、六種類のシフォンケーキがやってきた。この店のシフォンケーキは生クリームやアイスクリーム、フルーツのトッピングが多いので皿も大きい。シフォンケーキは焼き立てで温かく、あたりに一斉に甘い匂いを放った。テーブルは、シフォンケーキと翔太が頼んだコーヒーときら子が頼んだ紅茶で埋め尽くされた。
問い返すタイミングを失い、きら子はケーキを前に途方に暮れていた。翔太は変わらず頭を下げたままだ。何がごめんなのか。そう聞かなければいけないのはわかっていた。けれど、その答えを聞くのが怖かった。だから、きら子はシフォンケーキの皿を引き寄せた。
「アイスが溶けちゃう。食べようよ」
「食べながらでいいから聞いて」
そう言って翔太が顔を上げた。
「翔ちゃんも食べてよ。一人じゃ食べきれないってば」
きら子は、笑ってそう答えた。自分でも、話をそらそうとしているのが見え見えだと思った。口の中から苦い味が込み上げてきた。きら子はそれを誤魔化す為にシフォンケーキを口に運んだ。
すると、そのタイミングで翔太が口を開いた。
「俺、ずっと誤魔化してた。実は、俺、三月の終わりでブラジルに帰る」
翔太の言葉に何も答えられないまま、ゆっくりとシフォンケーキを飲み下した。シュガーポットを引き寄せて、紅茶に砂糖を入れ、ティースプーンでかき回す。ソーサーとカップが当たるかちゃかちゃという音だけがあたりに響いていた。
翔太はずっと俯いたままだった。きら子の手元のカップを見ながら、翔太が喋り出した。
「俺、サッカーやってたって言ってただろ。実はずっと続けてたんだ。講習っていうのは嘘で、ジュニアのチームに入ってた。ブラジルにいた時から、実は俺、結構認められてて。でも、親の事情で日本に戻る事になった。その時にサッカーは辞めようかと思ったんだけど、夏にブラジルに行った時に『戻って来い』って言われて」
「留学って事?」
震える指で紅茶のカップを置きながら、きら子は聞いた。
「うん。ごめん、言い出せなくて」
翔太はそう言って、もう一度、頭を下げた。
「今年に入るまで迷ってたんだ。そっちに行っても何の保証もないし。でも、滅多にないチャンスなんだよ。向こうには俺レベルの奴なんてごろごろいる。でも、それでも、俺」
「だから、あんなに初詣の時、祈ってたんだ」
きら子はそう呟いた。目の前にあるシフォンケーキが色褪せて見えた。テーブルも、周囲の喧騒も全てが遠去かって見えた。沢山の感情が胸の中に渦巻いている癖に、言葉は何一つ浮かばなかった。
「ごめん、黙ってて。騙すつもりじゃなかったんだけど、混乱させたくなくて」
「三月の終わりっていつ?」
「三月二十九日」
「後、一ヶ月半だね」
そう言った後、言葉が続かなかった。
「三年間行く。一年に一度は帰って来るつもりだけど」
「そんな」
思わず、悲鳴のような声をあげてしまった。せいぜい一年なら。そう心の何処かで思っていた。けれど、三年は余りにも長過ぎた。
「別れたい?」
翔太が、小さな声でそう聞いた。今まで見た事がないような卑屈な顔をしていた。きら子はソファの生地ををぎゅっと握り締めた。
「三年も待ってて、なんて、俺、言えないし」
翔太が、口を歪めて皮肉に笑った。
「嫌だよ……」
きら子は小さく呟いた。
「嫌って別れるのが? それとも留学が?」
翔太が食らいつくように聞いてくる。
「両方に決まってる」
きら子は俯いたまま、そう答えた。
結局、二人はほとんど会話を交わさないまま、カフェを出た。帰り際、レジで翔太が全て支払いを済ませようとした。けれど、きら子は頑なに半分払った。
翔太はいつものように、きら子を最寄り駅まで送った。駅の改札で、家まで送ると言われたけれど、きら子は断った。駅からの道を、きら子はとぼとぼと歩いた。何度も二人で通った道。電柱の影で、エントランスで、いつも別れがたくてキスをした。けれど、その日々はもう終わりなのだ。
深夜、翔太からメールが入った。
『あと一ヶ月半、ほとんど予定は入れてない。俺は全部きらちゃんの為に使うつもり。お年玉貯金も下ろした。お願いだから、一緒にいて欲しい』
だったら、ずっと一緒にいてよ。
唇を噛み締め、きら子は布団をかぶった。
ほとんど眠れずに夜を過ごした。やっと寝付けたのは明け方だった。しかし、きら子は起き出した夢子がたてる物音ですぐに目を覚ました。眠る前にも泣いたせいで、瞼が熱を持って腫れている。瞼を手でこすりながら、きら子はリビングに向かった。
リビングのテーブルでは、夢子が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。朝のワイドショーが時刻を告げ、忙しなくニュースを流している。きら子はキッチンに戻り、自分の分の紅茶を入れてから夢子の前に座った。
「あら、どうしたの。目が赤いけど」
夢子が、新聞から目を上げて言った。
「翔ちゃん、留学するって」
きら子は紅茶を一口飲み、そう言った。
「何処に?」
「ブラジル。サッカーで」
ぶっきらぼうに返す。すると、夢子は手を叩いて言った。
「えー、すごい! 翔ちゃんって実はすごかったのねー。ひょっとしたら世界的な選手になっちゃうかも」
「そんなの、ならなくていいよ」
きら子は投げやりに答え、紅茶のカップを置いた。夢子が訝しげにきら子を覗き込んだ。
「行って欲しくないの?」
きら子は、ぽつりぽつりと答えた。
「そりゃあ、離れたくないよ。でも、翔ちゃんのやりたい事をやって欲しいって気持ちもある。だけど、怖い」
「なんで」
「距離もそうだけど、翔ちゃんが自分のやりたい事をやったらますます遠くなる気がして」
ふう、と夢子が息を吐き、新聞を折り畳んだ。
「それはきらちゃん自身の問題だね」
その一言に、きら子は息を止めた。
「このままじゃ、男の足を引っ張るような女になっちゃうよー」
夢子が、にやにやと笑いながら続けた。
「何、楽しそうにしてるの」
きら子は、夢子にそう言い返した。
「だって、翔ちゃんは私の恋人じゃないし。あんなに若いのに自分の道を決めて海外に行こうとするなんてすごいと思うし」
夢子はいかにも楽しそうに笑いながらそう続ける。
「私は翔ちゃんと付き合ってるもん、だから」
「だから?」
夢子が笑いをすっと引っ込め、真顔で聞き返した。
「だから、泣いてぐずぐず言っていい訳?」
その言葉に、きら子は言葉に詰まった。
「あ、会社会社。先月遅刻が多かったから社長に怒られたの。気をつけなきゃ」
んじゃねー、と明るく手を振り、きら子のアクセサリーを借りて夢子は出て行った。きら子は見送りもせずにテーブルで頬杖をついていた。釈然としなかった。けれど、言い返せなかった自分が不愉快だった。首を振り、息を吐いてきら子は後片付けを始めた。
それからしばらく、きら子は翔太のメールに返事を返さなかった。翔太からは、一日に何度も連絡が来た。
『本当に黙っててごめん』『俺は本当は別れたくない』『チョコレート美味かった。あれ手作り?』『別れるにしてもこんな別れ方は嫌だ』。
きら子はそのメールに返信出来なかった。そして、そんな自分に苛立っては、やたらと料理を作ったり、型紙を買い込んで服を作ったりしていた。
夢子から言われたのは、翔太と連絡を断って三日が過ぎた頃だった。
「翔ちゃんから聞いたの。きらちゃんが俺を避けてるって。どうしたらいいのかわからないって」
その日、珍しく早く帰ってきた夢子は、部屋に入るなりに仁王立ちできら子に言った。ベッドに寝転がり、ファッション誌を見るとはなしに眺めていたきら子は、驚きながら起き上がった。
「何それ、いきなり」
「いきなりじゃないわよ。答えて」
夢子にしては、珍しく高圧的な口調だった。きら子はかちんと来て、こう答えた。
「だって、留学するんだよ。しかも、ブラジル。今の今まで言わないで。それって何って感じだよ」
「いろいろあったんじゃないの。向こうだって」
「そんなの知らない」
そう言ったきら子に、夢子は大きく息を吐いた。きら子は首を振ってこう続けた。
「お父さんと離れた時みたいに、あんな思いするの二度と嫌なの。だから、もういい。もう、翔ちゃんの事なんて忘れるよ。翔ちゃんとなんて会わなきゃよかった」
そう言ったら、涙が滲んできた。きら子は指で乱暴に瞼のあたりを拭った。
「きらちゃん、あんた、馬鹿よ」
夢子が、今までにない程に激しい声で言った。
「あんな思いさせたのは私よ。確かにそうよ。でも、私は一度も、お父さんと会わなきゃよかったなんて思わないわ。愛してたわ。きらちゃんだって生まれたわ。だから、これからも、生涯思わない」
夢子はそうまくしたてた。きら子は夢子の勢いに押され、何も言えずにいた。
夢子が、また口を開いた。
「会わなきゃよかったって思う事は、あの時の自分を全部嘘にする事よ。私はそんな事はしないわ。私は、自分の人生に嘘をつかないって決めてるの」
勝手だけど、わがままだけど、それが私の誠実さなの。夢子が、そう続けた。
そして、きら子の側により、肩に手を置いた。きら子は顔を上げた。目の前に夢子の顔が迫っている。夢子はきら子の目をまっすぐに見詰めながら、言った。
「ねぇ、きらちゃん。翔ちゃんの事、嘘にしちゃっていいの? あんなに楽しそうにしてたのに。それって今までの自分も嘘にしちゃう事よ。それでもいいの?」
「だって」
「だってじゃないわよ」
そう言うと、夢子は立ち上がった。苛立だしげに部屋中を歩き回りながら、こう言う。
「全く、私が二十歳若ければ、私が翔ちゃんと付き合うわよ」
「何それ。絶対に駄目」
「駄目ならちゃんと大事にしなさいよ」
「大事だから離れたくないんだよ」
「それは、翔ちゃんが大事なんじゃなくて、自分が大事って事じゃないの」
夢子の言葉に、きら子は顔を上げた。
「でしょ?」
夢子が、静かにそう言った。
「そう……かも」
きら子は、思わずそう答えていた。
考えてみれば、そうなのだ。だから、翔太からの連絡を無視して、一人泣いてばかりいた。きら子は、夢子の言葉で初めてその事に気付いた。
夢子が呆れたようにこちらを見ていた。きら子は思わず下を向いた。自分が恥ずかしくて仕方がなかった。俯くきら子に、夢子が言った。
「あのね、きらちゃん。いい男の子に愛された思い出はね、女の子にとってずっと大切にしなきゃいけない宝石みたいなものなの。翔ちゃんは指が折れそうなくらいに大きいダイヤみたいな子よ。私だったらあんな男の子を嘘にはしないわ」
私だって。そう言いかけたけれど、結局、きら子は何も言えなかった。
「明日は翔ちゃんに連絡しなさいよ」
そう言って、夢子は冷蔵庫からビールを取り出して一気に飲んだ。
そんな時期に、久しぶりに佳男の店に行った。ちょうど冬物から春夏物へ大幅に商品が入れ替わる時期で、店の模様替えもするので手伝って欲しいと言われたのだ。ちかから佳男と別れたという話を聞いて以来、きら子はあまり佳男と会話を交わしていなかった。話したら、触れてはいけないものに不用意に触ってしまいそうな気がしたからだ。しかし、緊張していたきら子に佳男は無頓着な様子で話しかけた。
「相変わらず仕入れ担当が滅茶苦茶な仕分けしてくるからさー。申し訳ないけどよろしく頼むわ」
そう言って倉庫から段ボールを取り出して床にどんと置く。レジカウンターの裏からプライスタグを大量に持ってきて、それから伝票を見ながら何やら思案し始めた。拍子抜けしながら、きら子は黙々と段ボールを開けた。
「あ、可愛いですね。このジャケット」
段ボールが二箱目に突入した頃に見つけたジャケットを見て、きら子は声をあげた。ネイティブアメリカン風の模様が全面に編み込まれているカラフルな上着で、編み込みがほつれている所もなく、汚れもない。
「お、それいいね。でも、きら子には大きくない?」
佳男が仕入伝票と納品された品物の数を確認しながら答える。
「オーバーサイズな感じで着ればいいかもだけど、私には似合わないかな」
「彼氏には?」
そう聞かれて、きら子は口をつぐんだ。佳男が怪諺な顔をしてきら子に問う。
「なんでいきなり気まずい顔なんだよ。喧嘩でもした?」
「喧嘩っていうか」
「何だ、何だそれー」
楽しげにはやしたてられて話す気が失せた。きら子はまた口を閉じ、黙々と検品を始めた。佳男は「言いかけて辞めるなよ」と言いながら、きら子の頭を伝票でぽんと叩く。はぁ、と大きく息をつき、きら子は話し出した。
「留学しちゃうんです。ブラジルに」
「ブラジル? なんで? サンバでも習うの?」
「一体、翔ちゃんを将来何にする気ですか。違います。サッカーです」
「えぇ! すげぇな」
「すごいんですよね」
そうきら子は呟き、二箱目の検品を終えた。倉庫に行き、三箱目を引きずって店内に戻る。佳男がきら子の手から段ボールを奪って検品しやすい位置に置いた。ガムテープをはがし、蓋を開ける。
「それで沈んでるんだ」
佳男の言葉にきら子は「はい」と答えた。
「今まで何も言わないで、ついこの前にそう言われたんですよ。私にばっかり世話を焼いて、自分の事は全然教えてくれなくて」
「迷ってたからじゃねぇの」
「そうかもしれないけど。でも、結局、全部自分で決めて、あと一ヶ月半って所で『別れたいなら別れる』とか言って。何なの、それって感じです」
「離れて、でも、好きでいてくれなんて身勝手な事はさすがに言えない、って事だよ」
きら子は佳男を見上げて、口を尖らせて言った。
「何か佳男ちゃん、翔ちゃん擁護派」
「だって、俺もちかと別れた理由、それだもん」
佳男はそう言って、「ん? ダンガリーシャツ三枚ってあったけど、これ既に四枚目だぞ?」と言いながら伝票に目を落とした。
なるべく触れないようにしていたちかとの別れの件をあっさりと切り出され、きら子は一瞬、手を止めた。どう返事をしていいものか悩みながら、作業を続ける。佳男も作業を続けながら話しだした。
「実は、ちかも悩んでてさ。あいつスタイリストのアシスタントしてたんだけど、師匠と元々合わなかったみたいで。そんな時、あいつ、ぎっくり腰になっちゃってさ。立てないくらいだから、当然、仕事なんて無理だろ。それで家賃払えなくて実家に泣きついて。そうしたら、実家に帰って来いって言われたんだってさ」
前に一緒に食事をした時は、ちかは全くそんな話をしなかった。佳男と別れた事だけを告げると、後はきら子の話を聞くばかりだった。
佳男がそのまま、話を続けた。
「とりあえず、その時は実家に戻るのは断ったんだけど、不安になったみたいでさ。俺と付き合ってもう三年にもなるし。あいつ、全然、そういう事情とか俺に言わなかったの。それで、ある日、テレビ見てたらプロポーズのシーンがあって。そこで『佳男って結婚する気ってあるの?』って聞いてきて」
きら子は作業の手を止め、佳男を見つめた。佳男は段ボールの中を探りながら、こう答えた。
「俺は『全くない。二、三年以内に新しい店も出したいし、それどころじゃない』ってビール飲みながら言っちゃって」
そこで言葉を切って、佳男は大きく息を吐いた。
「腰がなかなか治らなくて、結局、仕事も復職出来そうもなくて。ちかが言ったんだ。『このままじゃ佳男の負担になるだけだから、実家に帰る』って」
それから、「言い出させちゃったんだよ」と佳男はひとり言のように呟いた。
「確かにそうなんだ。今の俺じゃあ、ちかの事、食わせてやれない。いつになったら食わせてやれるのかもわからない。いつか迎えに行くなんて言えなかった。そんな風に期待を持たせてもこれからどうなるかわからない」
「うん」
きら子は小さく頷いた。自分のような子どもがわかったように相槌を打っていいものか、一瞬思った。けれど、精一杯、頷いた。佳男の気持ちに、少しでも何か温かいものを添えられるように。
「駅のホームまで見送りに行って。最後までずっとちかは明るいままだった。別れるとか別れないとかのやりとりは一度もしなかった。でも、これで終わりだって二人とも思ってた」
佳男の声がどんどんと低くなっていく。段ボールのへりを掴んで、佳男が絞り出すように言った。
「本当は終わりじゃなかったかもしれないのに。いくらだってやり方はあった筈なのに」
「佳男ちゃん」
きら子はうろたえながらも声をあげた。俯いた佳男の表情は髪に隠れて見えなかった。けれど、広い背中がかすかに震えていた。きら子は躊躇いながらも、その背中に手を置いた。
帰り道、きら子は歩きながらずっと考えていた。本当は終わりじゃなかったかもしれない。いくらだってやり方はあったかもしれない。佳男が言っていた言葉が頭の中を巡った。同時に、先程の佳男の姿が蘇った。
翔太がもし今あんな風に泣いているのだとしたら。このまま、別れてしまって一人であんな風に泣くのなら。
しんと冷たい夜空を眺めながら、きら子はポケットの携帯に手を触れた。
とりあえず、会おうよ。それだけ、メールすると、すぐに電話がかかってきた。
「よかった、よかった、よかった。本当によかった」
翔太は繰り返しそう言った。混じりけのない喜びが声から滲み出ていた。きら子はその声にようやく「ごめんね」と謝る事が出来た。
「今週の日曜は暇?」
翔太がそう聞いてきた。暇だと返すと、サッカーの試合を見に行かないかと誘われた。場所は茨城県だという。新宿からの高速バスで行けば一本だそうだ。冬だけど、海も近い所だし、大きな神社と森も近くにあるよ。翔太はそう言って、おずおずときら子を誘った。うん、行くよ。そう言うと翔太はほっとしたように、新宿駅西口のバス乗り場の場所を告げた。
いろいろと動き出している回ですねー。
今回は夢子がいいこと言ってます。
本当ですよ、こういうことを言えるような母親にわたしもなりたい。
佳男ときら子の会話も和みます。本当、下心なく恋愛相談もできる年上の男性ってこの年頃の中学生からしたら掛け値ない財産だよね。
この小説で一番最初に出てくる他人は、実はこのきら子を苛めていた山根。彼女ときら子の関係は通底するメインテーマだと思う。
そう、中学生当時のわたしも実はきら子と同じように思っていたのよ。
友情、恋愛、進路、揺れ動くガールズ&ボーイズ。
全12回、引き続きよろしくお願い致します。
作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。