炎天の山を登る者、しんかんとザイルを垂らす者【祖父・三谷昭と新興俳句を巡る冒険】(四)
こちらは、わたしの祖父である俳人・三谷昭とその仲間たちの足跡を辿るマガジンです。
マガジントップはこちら。
前回はこちら。
さて、習作を三本書いたわたしが、いくつかの出版社に原稿を応募したところで前回は終わっている。
ひとつは小学館、そして、ひとつは某K社。
初めに、連絡が来たのは、小学館からだった。
当時、わたしは、小説の原稿をあちこちに応募しつつ、ライター業を再開させようとしていた。
沖永良部島に行く前のキャバクラも、嫌いになって辞めたわけではない。女の子も店長もボーイも友人だ。だから、人が足りないという連絡があったら臨時で手伝いはしたものの、どうにもやる気が出なかった。
人間関係と一緒で、勤め先も、また家や居場所というものも、その時に双方において必要だったある種の役割を終えたら、何か問題が起きたわけではなくとも、どうにもその場所に自身がそぐわなくなる時があるように思う。
当時のわたしにとって、キャバクラはもう終わった話だったのだ。
その時に見つけたのが、表参道駅の柱に張り出されていた広告だった。
『さあ、GLITTER'S SHOWの始まりよ!』
その言葉に縁どられ、真っ赤な下着で片目をつぶっていたのはジェシカ・シンプソン。2004年当時、アメリカのリアリティ番組で再ブレイクをしていた彼女が日本の雑誌の表紙を飾るのは、ほぼ、初めてだったのではないだろうか。広告は、新創刊された雑誌『GLITTER』のものだった。
この時の『GLITTER』という雑誌のスタイルは、既存の女性の生き方の在り様、「こうするのが正しい」という押し付けに対してのカウンターカルチャーだったと思う。この広告を見つけ、雑誌を購入し、ライター募集の記事を見つけて応募したわたしは、それから、この雑誌で読み物ページの記事を毎月20ページ近く担当することになった。
やりたいと思えた雑誌の記事を24歳にしてフリーランスで記名記事で担当。企画はどんどん通り、雑誌は30万部を超え、わたしが手掛けた記事が読者アンケート1位をとることもあった。もちろん、生活には困らなかった。
けれど、同時にわたしは、数年にわたり、沖永良部島で書いた習作とも呼べない小説の推敲を重ねていくことになる。
小学館から連絡が来たのは、『GLITTER』の記事を書き始めてからのことだった。その当時、雑誌業界は好景気で、とりわけ20代半ば以降の女性をターゲットにした雑誌が次々創刊されていた。わたしは、メインターゲットとされる読者と同年齢ながら、19歳から激務の編集プロダクションにいたので、「若いけれど経験値がある」という点でも重宝されていたのだと思う。あちこちの雑誌でライター募集があり、わたしは気になったところにポートフォリオを送っては仕事を受けていた。
その電話は、11月の日曜日にふとかかってきた。現在のわたしは見知らぬ番号からの電話をとることはないけれど、当時のわたしはあちこちの出版社に営業をかけていた身だ。はきはきと電話をとると、不機嫌そうな男性の声が受話器から流れ出した。
「原稿送ってくれた三谷さん? 小学館のS原と申します」
戸惑うわたしに、彼は、「とりあえず会いたいから」と手近な祝日を指定し、電話を切った。
そんな気軽に電話って来るものなの? いきなり、文芸の編集者に会えるものなの?
同じ出版業界といえど、ライター業と文芸の世界は全く違う。雑誌の世界では、編集部でこの子は「使える」となったらすぐに依頼が来るもので、ある意味、普通のアルバイトと同じである。しかし、文芸の世界では、「こいつで本を出せるか」がジャッジメントのメインだ。
しかも、この電話の相手は確実に、わたしが好きだった嶽本野ばらさんの『ツインズ』に関わっている人間だろう。
アポイントの日まで気もそぞろだった。何を言われるのか気が気じゃなくて、けれど、書き上げたはいいものの、「何かが違う」と思い続けた自分の原稿への違和感の理由がわたしは知りたかった。
約束の日は11月の祝日で、そう、振り返れば文化の日だった。
文化の日の趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」こと。
そんな日に、小説を出すきっかけとなる人物とアポイントが入るなんて、20代の頃からわたしってばなかなか持ってる奴だななんて、今なら笑えるけれど、当時はそれどころじゃなかった。
面接じゃないから、リクルートスーツを着ていくわけにはいかないし、雑誌の仕事の顔合わせなら雑誌のカラーに合わせた格好をしていくけれど、文芸の編集者に好感度が高い服装なんて、皆目検討がつかない。
今思えば、的外れにも程があるぐらいの悩みだが、とにかくわたしは緊張していた。
小学館の前に着いて電話をする。柔らかいオリーブグリーンのジャケットを着た痩身の男性が早歩きで来て、これまた早口に「今日は祝日で応接が使えないから喫茶店に」と言った。
彼の言葉の全てはよく切れる刃物で切った野菜の断面のようで、躊躇いもお追従もおべっかも世間話も何もいらない、と態度にあからさまに表れていた。
わたしはせめて昔とった杵柄のキャバクラ嬢テクニックで、場を和ませるぐらいは出来ると思っていたけれど、明らかにその媚は邪魔でしかないのがすぐにわかった。
また何も話していないのに、既にまな板の上にいるような気持ちになりながら、喫茶店の席に座る。
アイスコーヒーが来た瞬間に彼は滔々と話し出した。
内容は、もちろん応募した『腹黒い11人の女』についてだった。
面白くはあるし、文章もなかなかちゃんとしているが、これはいわゆるキャバクラ嬢の日記だ。うちでは出版はできない。何か、他に書いているものはないのか。
「ひとつあるので、今度お見せします。あと、もうひとつ書きかけのものがあるのですが、実はそれ、パソコンがクラッシュして消えてしまったんです」
「は?」
その時の彼の激昂した表情を、わたしは今もありありと思い出せる。
「なんで保存してないの。読みたいのに」
耳を疑った。嘘かと思った。
初めてだったから。
誰かに頼まれたわけでもなんでもなく、ただ、たった一人で書いていた小説とも呼べないようなもの。
それを、読みたいと言って貰えたのは初めてだったから。
保存をしていなかったわたしに怒りを覚えるぐらいに。
わたしはその時、この人のところで小説を出そうと決めたんだと思う。
その、保存をしていなかった小説がデビュー作『ろくでなし6TEEN』の原型だったことにも今、気づいた。
ねえ、紆余曲折あるけれど、やっぱり人生うまくいってるものだね。
わたしの祖父は俳人であり、同時に編集者でもあった。
作家がたった一人で山を登ろうとする登山者ならば、編集者はともにザイルを結んでくれるパートナーだ。峻厳な山を登る時に辿り着いて見たい景色はわたしの場合はいつだって、一人では見ることができないものだった。
この物語は現在進行形。そう、物語はいつだって踊り続けている。
(五に続く)
いただいたサポートは視覚障がいの方に役立つ日常生活用具(音声読書器やシール型音声メモ、振動で視覚障がいの方の歩行をサポートするナビゲーションデバイス)などの購入に充てたいと思っています!