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【小説】ママとガール[8]「サイズが合わない制服」

8「サイズが合わない制服」
 
 今度はお台場に行こう。水上バスに乗ろう。そんな約束をしていたけれど、テストが近いそうで翔太はしばらく忙しいと言ってきた。きら子は途端に暇を持て余した。

 ある日。午前中に洗濯や掃除を済ませてしまったきら子は、今まで開く事もしなかった教科書を読み、愕然とした。一年生の時に出来ていた教科が、今やまるきりわからなくなっていた。進路、高校。前に翔太の言った言葉が蘇る。二年生になってから一度も学校に行った事がない。果たして、それでいいのだろうか。

 クローゼットを開けると、クリーニングに出してそのままの制服が吊り下がっていた。一度だけ、行ってみるのもいいかもしれない。

 翌日、きら子は朝に起き、制服に着替えた。

 制服は、今のきら子には随分大きくなっていた。ウエストは三回折り曲げてもまだ緩かった。制服を着ているきら子を見て、夢子は目を丸くし、それから、「学校に行くのね」と嬉しそうに言った。その顔を見て、きら子の気分はぐんと沈んだ。けれど、きら子はそれでものろのろと身支度をした。そして、きら子は一年ぶりに学校に向かった。

 教師からは、まず職員室に来いと言われていた。言いつけに従い、きら子は職員室に向かった。上履きを忘れてきたので来客用のスリッパを借りた。久しぶりに見る学校はまるで変わっていなかった。けれど、きら子には異次元のように遠く感じられた。

 職員室には、担任の教師だけがいた。教師は、きら子の姿を一瞥し、「今日は制服だな」と満足そうに言った。そして、教室へと向かった。スリッパから染みる廊下の温度が冷たかった。そして、教師が教室のドアをがらりと開けた。

 二年のクラスには澤田がいた。澤田は一瞬目を見張った後、すぐさまきら子から視線をそらした。きら子は目を伏せ、担任から教えられた席に向かった。

 授業は古文だった。きら子は、ただ黒板と教科書の文字を見るとはなしに追っていた。ウエストに制服のスカートの折った部分が当たってちりちりと痛い。久しぶりに着たブレザーの苦しさで肩が重い。何よりも、ここにいる事がただ息苦しかった。

 きら子は授業が終わると同時に立ち上がり、バッグを持って教室から出た。
 来客用のスリッパを返す為には、職員用の玄関に行かなければならなかった。きら子は足早に階段を降り、下駄箱にスリッパを入れた。すると、そこで、ぐいとバッグを引っ張られた。

「何処に行くの?」

 振り向くと目の前に、きら子と同じクラスの生徒がいた。ニキビ跡が目立つ黄色い肌に量の多い髪を二つに結んでいる。確か、鳥山という女子だった。

 鳥山の後ろには見覚えのある数人の女子がいた。きら子は、鳥山が掴んだままのバッグを自分の体の方に引いて、答えた。

「帰る」
「どうしてよ」

 鳥山の後ろから、ぱさついた髪をショートヘアにした女子が強い口調で言った。

「ここにいても仕方がないかな、って思ったから」

 そう言うと、鳥山と鳥山の後ろにいる女子達の表情がぴくりと固まった。一瞬、何かが膨れ上がるような気配がして、空気が不穏になる。鳥山の唇が歪んだ。だが、表情を整え、鳥山は呆れたようにこう言った。

「どうして、そんな、勝手な事ばっかりするの?」
「え? 勝手って、誰に対しての勝手?」

 小さく首を傾げて、きら子はそう聞き返した。きら子は、鳥山とは、今日はもちろん、今までも話した事すらなかった。なのに、どうして、そんな風に言われるのかがわからなかった。

 鳥山は眉間に皺を寄せ、諭すようにこう続けた。

「皆に対してでしょう。学校に来たのに一人で誰とも話さないで。話したいなら、自分から話しかけなきゃ」

 鳥山の論旨が理解出来ないまま、きら子はこう続けた。

「誰かと話したくて来た訳じゃないの」

 本当は、その後に「自分にとってここが必要かどうかを知りたかった」と続けたかった。けれど、それは鳥山を怒らせるような気がしたから止めた。
鳥山の後ろの女達は、相変わらず不穏な調子で腕を組んできら子を睨んでいた。敵意が波のように押し寄せてきて、きら子は困惑した。

 鳥山の背後から、ばたばたという足音が聞こえた。担任の教師が騒ぎを聞きつけたのか、走ってきている。廊下は走ってはいけない筈なのに。そう思って、きら子は小さく笑った。

 そのきら子の笑いで、鳥山の堪えていたものがぶつりと切れたようだった。鳥山が、前に一歩踏み出し、きら子の肩を掴んだ。先程とは、一変して強い口調でこう言った。

「友達でしょ。なんで、そういう事を言うのよ」

 鳥山にそう言われて、きら子は初めて思い出した。鳥山とその背後にいる女子達、確か前にこう言っていた。

「また、山根女王様、ターゲット見つけたみたいだね」
「それにしてもなんで? 最初は、澤田を無視して、南の事を家来にしようとしてたじゃん」
「わかんないけど、家来にはふさわしくないって思ったんじゃない」
「ま、どっちもどっちっていうか。家、すごいぼろぼろの癖に女王様気取りも笑っちゃうけどね」

 きら子は顎を上げ、鳥山を睨み付けた。唇に、ありったけの嘲笑を浮かべて言った。

「え、友達じゃないでしょ。話した事もないのに」

 その瞬間、きら子の頬がぱんと音を立てた。いきなりに顔が左に向き、右頬が急に熱くなった。きら子は驚き、目をしばたたかせた。じんわりと右頬に疼くような痛みが広がっていく。きら子は、息を吸い、ゆっくりと顔を正面に向けた。

 鳥山は紅潮した顔で鼻息も荒くきら子を睨んでいた。後ろにいる女子達は、固唾を呑んで様子を見ていた。後ろからやってきた担任教師が「鳥山……」と呟いた。その声は、鳥山に明らかに同情していた。

 きら子は、自分の手を痛む右頬に当てた。怒りよりも先に、諦めが脳裏によぎった。

「一年も同じクラスだったから、鳥山は追いかけてくれたんだぞ。それなのに……」

 教師が、呆れたように呟いた。その言葉を聞いて、きら子は肩にずんと重石を置かれたような気がした。
 きら子は教師に向き直り、口を開いた。

「一度も話した事のない人を友達だなんて私は思えません。友達って、もっと、」

 もっと、何だろう。その後の言葉が出てこなくて、きら子は口をつぐんだ。

 下駄箱からローファーを取り出し、玄関へと置いた。足を入れ、つま先を数回床に打ちつける。背中に、鳥山の強い視線を感じた。きら子は振り返り、鳥山を見詰めた。

 謝る気はもちろんなかった。けれど、かといって頬を叩き返す気もなかった。もしかしたら、鳥山も教師に言われて追いかけて来たのかもしれない。もしくは内申のポイントを稼ぐ為、自分がいじめに加担していたと言われない為の保身で来たのかもしれない。そう思うと、何も言う気になれなかった。ただ、自分と鳥山の間に橋をかける事など不可能な大きな川があるだけだと思った。

「じゃあ」

 そう言って、きら子は歩き出した。校庭を横切る時に空を見上げた。広く開けたこの空だけはこの場所で唯一好きだった。重く強張った肩を落とし、きら子は眩しい日差しに顔をしかめた。

 その日、帰宅し、制服を脱いだ瞬間、きら子は眠りに落ちた。ひたすらに眠って喉が渇き、目が覚めたら深夜だった。足音を忍ばせて台所へ行き、水を飲む。開いたままの窓から夜風が吹きこみ カーテンを揺らした。携帯電話の着信をチェックしてみたが、誰からの連絡もなかった。

 結局、私は、何がしたいんだろう。

 きら子はベッドの上で膝を抱えて座り、夜明けまで窓の外を見つめていた。

 それから、きら子は猛然と進学についての資料を集め出した。やはり、自分は服飾が好きだ。ならば、洋服の専門学校に行こう。そう思って図書館に行き、資料を探した。だが、探しても探しても、洋服の専門学校は高校を卒業してから入るしかない所ばかりだった。

 学ぶ意欲があっても中卒では何処にも行く事が出来ないのだ。そう思うと、世の中の全部に、お前はいてはいけないと言われたような気がした。

 ならば、洋服関係ではなく製菓学校や料理の学校はどうだろう。洋服作りも好きだったが、きら子は料理も好きだった。探してみたものの、中卒で行く事が出来る学校はないに等しかった。

 中学に行かなくても大学検定さえとれれば、高卒と同等の資格になる。三年間、勉強をしてそれから専門学校に行こうか。それともいっそ進学せずに働こうか。

 翔太は変わらず忙しそうで、連絡はあるもののいまいち電話での話も弾まなかった。ただ、きら子は急く気持ちに苛立ちながら、日々を無為に過ごしていた。

 ちかから電話があったのは、そんな時だ。

「久しぶりにご飯でも食べない?」

 そう言えば、ちかも服飾の専門学校を出ていたはずだ。ちかに進路の事を相談してみるのもいいかもしれない。そう思って、きら子はちかが指定した代々木八幡の店に向かった。

 白いモルタルが無造作に塗られている洞窟のような小さな店だった。ドアを開けるとちかは先に席にいた。きら子は軽く会釈をして、ちかの前に腰をおろした。メニューを手渡しながら、ちかが何を飲むかと聞いてくる。とりあえずお水で、と言うと、きら子ちゃんって意外と真面目だよね、とちかは笑った。

 食べ物を注文し終わるとちかはにっと笑ってこう聞いてきた。

「最近どう?」
「何か、全然駄目です。これからどうしようって感じ」
「どうして?」
「フリーマーケットも売れないし、翔ちゃん忙しいみたいだし。進路も服飾の専門に行きたいけど中卒じゃ駄目みたいだし」

 きら子は水を一口飲み、続けた。

「それで、私、この前、中学に行ってみたんです。でも、やっぱり嫌になっちゃって」
「なんで?」
「一度も話した事がない子が『友達でしょ』なんて言うんです。先生に言われたか、内申のポイント稼ぎか知らないけど。私、そんなの嘘だと思う。友達って言葉を何かの為に利用したら、本当の友達って出来ない気がするんです」

 誰にも言わないでいた事を、きら子は思わず口に出していた。

 ちかはきら子の言葉に口を挟まず、白ワインを飲んでいた。きら子の言葉が途切れた所で、ちかはそっと呟いた。

「私もそういうのは嫌だな。偽善的っていうか」

 小さく頷き、きら子は水を一口飲んだ。

「でも、こういう事に慣れてくのが大人って事なのかな、って考えちゃって。母親が、私が制服を着た時にすごく嬉しそうにしてたんです。そういうの見ると、形だけでも従っておけば、皆、満足なのかなって」

 きら子は、一息にそう続けた。

「実はさ、私、佳男と別れたの」

 ちかがそう言いだしたのは、ワインのお代わりを頼んですぐだった。

「私が、最近考えてたのもそういう事だった。佳男は優しいし、別に傍から見たら何か問題がある訳じゃなかったの。でも、いろいろあって、どんどん心が離れていってさ」

 ウェイターがちかのグラスにワインを注いだ。ちかは小さく頭を下げ、またワインに口をつけた。きら子はちかの言葉に何も返せなかった。
 佳男の店で、時にきら子はちかと話した。佳男が銀行に出かけている間に二人きりになった事もあった。ちかが、あっさりと言った「別れた」の一言が信じられなかった。

 ちかは、無言のきら子に言葉を続けた。

「形だけで続けていく事も出来たけど、やっぱりそれは違うなって。佳男の事、好きだったからさ。好きだったからこそ、形だけにしたくないっていうか」

 ちかはそう続け、それから、「ごめんね、暗い話しちゃって」と言った。

 形だけにしたくない。きら子はちかの言ったその言葉を胸の内で繰り返していた。その言葉が何だか、ずっと求めていた答えのような気がした。きら子は、そっと口を開いた。

「私、じゃあ、好きなのかな」

 ちかがそっと目線を上げて聞き返した。

「何を?」
「学校……じゃないな。人を、なのかな。形だけにしたくないって思うのはそういう事なのかな」

 自分の気持ちを必死で探りながら、きら子はそう言った。
 きら子の言葉に、ちかはくすりと笑った。それから、ちかはこう言った。

「違うと思ってたの?」
「え?」

 きら子の瞳を真っ直ぐに見詰めて、ちかが言った。

「きっと、人一倍、きら子ちゃんは人が好きだよ」

 帰り道、きら子はちかの言った事を考えていた。
 好き、かぁ。
 夜空を見上げてきら子は小さく呟いた。

 好きなものが、たくさんある。好きな人も、少ないけれどいる。全て一年前には知る事もなかったものばかりだ。

 帰り際、ちかは「佳男に優しくしてやって」ときら子に告げた。いつもの笑顔とは全く違う、瞳を伏せ口元だけ微笑む気弱な表情をしていた。

 ちかと佳男が別れたように、いつか、翔太と自分も離れ離れになるのだろうか。

 そう思うと、きら子はその場にうずくまりたくなった。けれど、どうすればずっと翔太と別れずにいられるのか、きら子にはまるでわからなかった。自分の事もわからない自分が、翔太の事などわかる筈がないような気がした。

 翔太から久々に連絡が来たのは、十日後だった。

「やっと時間が出来たから、出かけようよ」

 翔太は、いつもの調子でそう言った。久しぶりに会えると思うと気持ちが浮かれた。けれど、どう振る舞うべきかを考えると途端に気持ちが沈んだ。相反する感情で浮き沈みながら、待ち合わせ場所についた。

 翔太が指定したのは、きら子には全くなじみのない新宿御苑前のオフィス街だった。きら子は交差点で行きかうスーツ姿の男を眺めながら、翔太を待った。

 待ち合わせ時刻から五分遅れて現れた翔太は、学校の帰りのようで制服を着ていた。オーバーサイズのグレーのパンツにシャツを入れ、中に来たTシャツは水色だった。靴は履き古したNIKEで、肩から下げたバッグもNIKEのものだった。髪の毛の色は春頃より随分落ち着いている。他校の制服は新鮮に見えた。制服姿の翔太は、いつもよりずっと大人びて見えた。

「きらちゃん、こっち」

 そう言うと、迷いなく翔太は歩き出した。

「ねぇ、何処に行くの?」
「んー?」

 翔太はそう言って、はぐらかすように足を速めた。きら子は、首を傾げながら翔太の後についていく。中学生二人はオフィス街では見るからに浮いていた。翔太は、歩を進めるごとに早足になった。きら子は、翔太の後を小走りについていった。

 翔太が足を止めたのは大きなビルの一階だった。迷いなくエントランスに入り、集合ポストの表札を眺めている。きら子は、翔太の後ろから表札を覗いた。翔太は六階の端のポストを見つめていた。見覚えのある会社名があった。そこに記されていたのは、きら子の父親が勤めている会社だった。

「翔ちゃん、ここ」

 きら子がそう言うと同時に、翔太がきら子の腕を掴んだ。

「行こう」

 そして、エレベーターへと翔太は歩き出した。

「ちょっと」
「前に、お父さんの会社の名前、きらちゃんが言ってただろ。あれから、会社四季報とかインターネットでずっと電話番号と場所を調べてたんだよ。会社の前で待ち伏せしたけど、やっぱり会えなかったから、一緒に行こう」

 翔太の手は、がっちりときら子の腕を掴んでいた。きら子は、翔太の手に手をかけて言った。

「え、待って。え、ちょっと嫌だよ」
「なんで」

 そう言って、翔太は振り向いた。

「会いたいって言ってたじゃん。会いたいって泣いてた」
「そうだけど、心の準備が」
「そんなの別にいいだろ」

 翔太が、ぐいぐいときら子の腕を引っ張っていった。エレベーターのボタンを押し、点滅するランプを一心に見ている。まっすぐな眉が、いつもより吊り上がっていた。敵意すら感じる程、強い目線をしていた。

「翔ちゃん、嫌だってば」

 手を振り払おうとしても、翔太は許してくれなかった。痛いと訴えても離してはくれない。きら子は初めて見る翔太の強硬な様子に驚いた。「お願いだから離して」と言い募る。しかし、翔太はきら子の訴えを無視して、エレベーターに乗り込んだ。

「翔ちゃん、なんで。強引過ぎるよ。私、今日、こんな格好だし。嫌だよ」

 今日のきら子は、ぼろぼろのデニムにツイードの生地を張ってリメイクしたスカートとフリーマーケットで買ったキッズサイズのダウンベストを着ていた。翔太と会うならいつもの格好だが、久しぶりの父親にこの格好で会いたくはない。きら子は首を横に振り、エレベーターのボタンを押そうとした。しかし、翔太がきら子の手を掴んで阻止する。

「こんな格好って別に普通だろ」

 きら子の手を握り締めて、翔太が言った。

「ていうか、いきなり男の子連れって」
「じゃあ、俺は隠れてるから」

 そんな押し問答をしている内に六階についた。きら子を引きずるようにして、翔太は廊下を歩いていく。手を振り解こうと何度も試みた。しかし、翔太は手のひらの力を緩める事なく、きら子をドアの前まで連れて行った。
グレーのスチール製のドアは重く閉ざされていた。翔太はその前で一瞬立ち止まった。きら子は翔太に腕を掴まれたまま、そのドアを注視した。ドアから既に断絶の気配が漂っているような気がした。「やっぱり、止めよう」。きら子はそう言いかけた。けれど、その言葉を口に出す前に、翔太がドアを開けた。

 室内にいた人々が一斉に顔をあげて、翔太を見た。二十代後半の女性一人と大学生ぐらいの男が一人。翔太がはきはきと声を上げた。

「すいません。佐伯さんの親族の者ですが、佐伯さんいらっしゃいますか」

 佐伯とは、夢子と父が別れる前のきら子の名字だ。女が、こちらの様子を窺いながら答えた。

「佐伯は現在海外に出張中でして、戻ってくるのが来月になりますが……」
「えーっ。来月のいつ頃?」
「半ばの予定です」
「何だよー」

 そう言って、翔太はその場にしゃがみ込んだ。きら子は呆然とあたりを見た。

 灰色のスチールのロッカー、大きな黒い机。窓辺の空いている席がきっと父のものだ。ペン立て、積み重なった書類、大きなコピー機、平べったいアルミと黒のスチールで出来た電話、薄い黒のノートパソコン。雑然と積み上がった段ボール、グレーの絨毯。

 父と母が離婚してからずっと、きら子の中に父のいる風景はなかった。十八歳になったら会おうとカードでは言ってくれたけれど、何処かで不安だった。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。そうなってもおかしくはない。ずっと、そう思っていた。

 けれど、父はここにいるのだ。会おうと思えば、会えるのだ。
 きら子は今、見知らぬ狭いオフィスの中で、その事を実感していた。

「ありがとうございました。翔ちゃん、帰ろう」

 きら子はオフィスにいる人間にそう告げて、翔太の肩に手を置いた。翔太が振り向き、きら子の顔を見詰めた。見るからに情けない、意気消沈した表情だった。

「でも」
「だって海外なんでしょ。いいよ、行こう」

 きら子は翔太を促し、礼をしてオフィスのドアを閉めた。

 エントランスから外に出ると、日差しが目を刺した。空は、遠く晴れていた。オフィス街の人通りは少なく、ビルの間にある喫煙所で何人かが空に煙を吐いていた。翔太は先程までの勢いをなくして、とぼとぼと歩いていた。きら子は、翔太の先に立って進んだ。

「そう言えばここの近くに公園があったよね。入場料かかるけど大きくて有名な所。せっかくだから行かない?」

 きら子が声をかけると翔太は沈んだ顔で頷いた。二人は入場券を買い、公園へと入った。

 平日の午後の公園に、人気はなかった。広い芝生の中の道を、二人は公園の中央に向かって歩いた。イギリス風庭園や温室を通り過ぎていくと池にかかった橋に辿り着く。池のほとりでは、老人が鯉に餌をやっていた。鯉は物凄い勢いで池から身を乗り出し、餌を貪っていて、中には半分陸に上がっているものまであった。

「ねぇ、あの鯉、すごいよ。鯉って、口に指を入れると骨折しちゃうくらい力が強いって本当かな」

 話しかけても、翔太は俯いたままで何も答えなかった。

「ねぇ」

 靴の先で、翔太のスニーカーのつま先を突いた。翔太はつま先の方向を変えただけで無言のままだった。そして、きら子の先に立って歩き出した。
早足でどんどん先を行く翔太を、きら子は追いかけた。翔太は、肩をいからせてひたすらに前に進んで行く。息を切らせて、きら子は翔太の後をついていった。

 いつの間にか池を回り込み、木々が茂る場所まで辿り着いた。遊歩道の脇にベンチがあった。翔太がようやく足を止め、ベンチに腰を下ろした。バッグを足元に置き、ベンチの背もたれに寄りかかり、空を仰いでいる。

「本当、今日、翔ちゃんどうしたの?」

 少々うんざりした気持ちで、きら子は翔太の横に腰を下ろした。

 問いかけても、翔太は無言のままだった。組んだ足をぶらつかせて、苛々とした調子で腕を組んでいる。きら子は、ため息をひとつついた。今日の翔太の行動の全てが、きら子には理解不能だった。

「何か、拍子抜け」

 翔太が、ぽつりとそう言った。

「何が?」

 ようやく口を開いた翔太にほっとしながら、きら子は聞き返した。

「いろいろ。今日、全部」

 そう言うと、翔太は大きく息を吐いて、顔を下に向けた。

「だってさぁ、ようやくきらちゃんを連れてきたら海外出張って。きらちゃんもとことん嫌がるし。なのに、いないって聞いた途端に、元気になってさ。何か俺って何なの、ってすげぇ思った」

 そう言うと、翔太はまた大きく息を吐いた。そして、額に手を当て言った。

「そんな事を言っちゃった俺もまた格好悪い」

 そう呟くと、あぁ、と大きく叫んで、膝の上に頬杖をつき、横を向いた。自分に苛立つように頬杖をついた腕を揺らしている。きら子は、その腕に手をかけた。

「そんな、そこまで、」

 してくれなくてもよかったのに。そう言いかけた所で、翔太がきら子の方をばっと向いた。

「だって、俺はきらちゃんに何も出来ねぇもん。あの時、きらちゃんが泣いた時、俺、どうしていいかわからなかった。俺の家は親も別れてないし、俺は学校楽しいし、やっぱりきらちゃんの気持ち、全然わからないんだよ。でも、俺はさ」

 翔太の瞼が、赤く膨らんでいた。顔は怒っているかのように眉のあたりに力が込められていた。ふいにぐらりと表情が揺れた。翔太は両手を顔に当て、その隙間から絞り出すような調子でこう続けた。

「きらちゃんに笑ってて欲しいんだよ。だけど、俺じゃ、きらちゃんを笑わせられないから」
「そんな事ない。そんな事ないよ」

 その一言に込めた気持ちを、絶対に余す事なく、翔太にわかって欲しかった。

「ごめん、違うの。ごめん」

 きら子は、そう何度も繰り返した。

「違わないよ。俺、結局、何も出来ないじゃん」
「違うよ。私、今日、お父さんのいる所がわかってほっとしたもの」

 そう言っても翔太は顔に手を当てたまま、首を横に振った。きら子は、自分も首を横に振り言い募った。

「もう二度と会えないんじゃないかと思ってたの。前に会社に電話をかけたら、番号変わってて、知らせてもくれなかったし。でも、居場所がわかったからそれでいいの」

 きら子はそう言って口を閉じた。そして、続けた。

「お父さん、十八歳になったら会おうって言ってくれた。だから、私、それまで待つよ」

 翔太が顔に両手をつけたまま、叫んだ。

「じゃあ、その間、きらちゃんどうするの。この前みたいにずっと泣いてるの? 俺、きらちゃんが十八歳までずっと泣いてるのは嫌だよ」
「そんな事ない。そんな事しないよ」

 両手の隙間から見える翔太の顔が赤かった。鼻先はまるで擦りむいたように充血していた。翔太が、鼻を小さく啜りあげた。手のひらで瞼のあたりをがしがしと擦った。翔太が、泣いている。そう思った瞬間に、きら子は胸の中に薄い鉄板を差し込まれたような痛みを感じた。きら子は、言った。

「私だって、翔ちゃんが泣いてるの見るの嫌だ」
「泣いてねぇよ」
「どう聞いても鼻声」

 そうきら子が言うと、「だと思った」と言って、翔太は少し笑った。その一言で、ようやくきら子も笑えた。きら子は、翔太の手を掴み、顔からどけた。

 鼻のあたりは相変わらず赤く、目は潤んでいた。瞳の端に涙が溜まっていた。

 きら子は、翔太の頬を指でそっと撫でて言った。

「私には、お母さんもいて、翔ちゃんもいるんだよ。今、お父さんに会えなくても、ちゃんといるんだよ。それが、私、わからなくなっていただけなの。忘れていただけなの」

 きら子は、翔太の手に自分の手を伸ばした。

 翔太がそっと顔を上げた。何処にも行き場所のないような、この世にきら子しかすがるもののないような、頼りない目をしていた。

 きら子は、翔太の両手を取り、自分の額に当てた。目をつぶり、言った。

「でも、いるの。私にはちゃんとお母さんも翔ちゃんもいるの。忘れないから。もう二度と忘れないから」

 乾いた指の関節がごつごつとしていて瞼に熱かった。翔太の手のひらは、かすかに汗ばんでいた。こんな風に手のひらが汗ばむ程に、翔太は自分の事を考えていてくれたのだ。

 この気持ちをどちらかが失ってしまったら。そう思うと、胸の中に冷たい風を吹き込まれたような感覚になった。父と母のように、佳男とちかのように、過ぎ去る時間に押し流されて、いつか自分も翔太も今の気持ちを失うのだろうか。そう考えると、不安の余りに全てを投げ出したくなった。

 けれど、それはいつかの話だ。今じゃない。

 きら子が、そう思った瞬間、翔太が口を開いた。

「だったら、巻き込んでごめん、なんて二度と言わないで」

 翔太が、両手できら子の両頬を挟み、視線を合わせた。

「巻き込んでよ。俺の中にもきらちゃんはいるんだから。忘れないでよ。何かわかんなくなっても、俺がいるって事」

 誰かがいるという事の温かさがどれだけかを、こそばゆいように感じながら、きら子は小さく頷いた。

 それから、二人は閉園時間まで公園にいた。きら子は、母親の日記を読んだ事、ちかから佳男と別れた話を聞いた事を翔太に話した。そして、進路を悩み、とりあえず学校に行ってみた事を話し、そうしたら一度も話した事のない鳥山に『友達』と言われた事を言った。

「あー、いるいる、そういう奴。自分に酔ってるっていうかさ。いつも自分だけは正しい、みたいな。前にやった事はすぐ忘れるんだよな、そういう奴」

 翔太はそう言って、大きく笑った。

「それはそうなんだけど、なんかね。実は結構ショックだった。その子はそれがいい事って信じてるのがさ。お母さんが、制服着た私を見て喜んでたのもきつかった。結局そうかぁ、って」
「それは親心としてはしょうがないんじゃない?」

 翔太は、肩をすくめてそう答えた。こうやっていつも軽く笑い飛ばしたり、するりと受け流したりするのが翔太は得意だ。そういう所が好きでもあり、嫌いでもある。翔太に、少し距離を感じた。けれど、きら子は胸の中にばらばらに散らばる言葉を繋ごうとした。

「でも、私は、どうしても間違っているとは思えない。ああいう事がいい事だと思えないの。あんなの友達じゃない。友達って、もっと、」

 鳥山の前でも言った言葉が、また続けられずにきら子は押し黙った。きら子はそのまま、口を閉じ、唇を噛み締めた。言葉を知らない自分が悔しくてならなかった。

「そう言えば、その山根って子とは会ったの?」

 翔太が思いついたように言った。きら子は驚いて翔太の横顔を見上げた。

「会ってない」
「その子と話してみたら」

 翔太が、何食わぬ調子でそう言った。きら子は即座にこう答えた。

「なんで。嫌だよ」
「えー、そっちこそなんで?」

 翔太はそう言って、視線を虚空にさまよわせ、何やら思案していた。きら子は不可思議な気持ちのまま、翔太の言葉を待った。翔太がようやく口を開いた。

「何かさ、その鳥山って子より、山根って子の方が『友達』なんじゃないの?」
「えぇ? 一体、何処が?」
「なんとなく。動物的勘?」
「一応、翔ちゃんは人間でしょ」
「一応って何だよー」

 そう言って、翔太は笑い、きら子の頭を軽くはたく。きら子は笑いながら、翔太の頭を叩き返す。頭を叩いた腕を掴まれ、きら子はじたばたと暴れる。翔太はそのさまに更に笑う。

 こんな風にくだらない事をして繰り返して笑って、それだけで流れ込む何かがある。きら子は、夕闇に流れる雲を眺め、左肩に当たる翔太の体温を感じていた。

 それから、家に帰ると、夢子が珍しく先に帰宅していた。

「きらちゃん、久しぶりに遅いじゃなーい。さては翔ちゃんとデート?」

 ビールを飲みつつ、フライパンを操りながら夢子は機嫌よく鼻歌を歌っている。翔ちゃんと二人でお父さんの職場に行ってたんだよ。脱力した気分でそう思いながら、きら子は答えた。

「うん、久々に。翔ちゃん忙しいからさ」
「そうよね、受験生だもんね。翔ちゃんは進路どうするの?」

 夢子に聞かれて、きら子は自分の部屋に行こうとした足を止め、呟いた。

「私、知らないや」
「えー? 聞こえないー?」

 跳ねる油の音と換気扇の音の間から、夢子が叫んだ。

「知らないって言ったの」きら子は、そう繰り返した。繰り返した事で胸に重みが増したような気がした。

 夢子が、フライパンの火を弱めた。油が跳ねる音が小さくなる。夢子は手に持っていた菜箸を置き、きら子の方を振り向いた。

「知らないんだ。そんな話しないの?」
「あんまり」

 ここ最近、いつも自分の話ばかりしていたような気がする。きら子はそう思い返しながら、キッチンの壁にもたれかかった。

 家に帰るまで、きら子は夢子にどう接したらいいものか思案していた。父親に会いに行った事が態度の端々で察せられてしまったらまずい。だから、出来る限り夢子と会話を交わさず、部屋にこもろうと決めていた。だが、今の夢子の言葉で、その懸念は何処かに吹き飛んでしまった。きら子は小さく呟いた。

「どうするのかな、翔ちゃん」
「近い高校に入ってくれるといいわね」

 夢子がフライパンの中身を皿に盛りつけながら答えた。今日は、夢子の得意料理の鶏の香草焼きのようだ。続いて鍋からスープを盛りつけ、冷蔵庫からサラダを取り出す。手渡された皿をきら子は次々とテーブルに運んだ。

「前にサッカーが好きって言ってたから、サッカー強い所に行くのかな」

 スープを一口飲んで、きら子は呟いた。

「サッカーが強い所って東京にあるのかしら」

 夢子が、テーブルに付きながら言った。
 翔太は、いつも細やかにきら子の気持ちを汲み取る。だが、きら子には、翔太の気持ちがさっぱりわからなかった。鶏を切り分けながら、きら子は考え込んでいた。すると、夢子が唐突に言った。

「ところでキスから何か進展した?」
「はい?」

 料理から顔を上げて聞き返すと、夢子は目を輝かせてテーブルに身を乗り出していた。きら子は、首を大きく横に振りながら言った。

「ない、ない。ないよ、ないってば」
「えー」

 夢子は、明らかに不満そうな顔をしていた。きら子は口の中にあった食べ物を、やっとの思いで飲み込んだ。すると、食べ物が喉に詰まり、きら子は咳込んだ。どう答えていいかわからないまま、きら子は胸を叩きつつ、言い返した。

「ていうか、何なのお母さん。その直球、何? 寿命縮むよ」

 夢子は自分の頬に片手を当て、にっこりと笑いながら答えた。

「じゃあ、私はきらちゃんの寿命を取って長生きね。美人薄命だっていうのに困るわぁ」
「娘の寿命取るってどんな親なのよ。ていうか、既に大幅に話題がずれてるし」

 一息に言って水を飲み干し、きら子は大きく息を吐いた。翔太とのキスを見られた時も、夢子はこんな調子だった。憮然としながら、レタスをばりばりと噛み砕く。

 夢子は楽しそうにきら子の様子を眺めていた。またビールをグラスに注ぎ、一口飲む。そして、それからまた口を開いた。

「ま、それはさておき。進展してもいいけど避妊はしてね。それだけ」

 まだレタスを飲み込んでいないまま、思わずきら子はぽかんと口を空けた。

「きらちゃん、それはちょっとマナー違反よ。口を閉じて食べなさい」

 眉をひそめて夢子がそう言う。そんな所でだけ、良識的な事を言われても。そう思いながら、きら子は口を閉じた。

「それだけって、何それ、いきなり」
「うーん、でも中二かぁ。中二は早いかな、やっぱり。せめて、中三かな。ま、二人に任せるけど」

 きら子の質問に答えずに夢子は楽しげにそう言った。

「わかんない。私、本当、お母さんの発想わかんないわ」

 きら子は首を横に振りながら、そう答えた。鶏を大きく切り取って口に運ぶ。やけくそ気味に二口で飲み込んだ。

「何か、今のきらちゃんの顔を見ててそう思ったの。翔ちゃんの事、本当に好きなんだなって。だからさ」

 夢子は、きら子を目を細めて見詰めながら、そう言った。きら子は、無言でまたサラダを口に運んだ。

 夢子が頬杖をつき、きら子の顔を覗き込みながら、言った。

「人を好きになるのは素晴らしい事よ。結果はどうあれ」

 きら子は、付け合わせのクレソンをナイフでつつきながら答えた。

「はいはい。って、その後の一言余計だよ」
「馬鹿ね。結果はどうあれ素晴らしいのよ。私の場合は、きらちゃんも生まれてきてくれたしさ」
「お父さんとお母さん、別れてるじゃん。縁起の悪い事を言わないよ」

 きら子がそう言うと、夢子は笑って「でも、本当なのよ」と言った。

[9に続く]
 


かつて不登校の中学生だったわたしの2022年のつぶやき

なんかいろいろ盛りだくさんな回ですねー。
実は今まで公開している小説と総文字数は変わらないんだけど、一章が長いから要素が多いな、と自分でも思います。

そして、中学生は中学生でいろいろあるよね。初めての恋愛、進路、親子関係、友達etc。大人になったらなったで、まあ、そりゃあいろいろあるけれど、「経験がある」「自力でお金を稼げる」というのはかなりのアドバンテージだとわたしは思う。行きたいところに行く自由度が高くなるから。

そういう意味では、きら子は学校には友達がいないけれど、ちかや夢子や翔太といった『大切なことをきちんと話せる』相手がいて、めちゃくちゃハッピーなんだよね。

実は、そういう相手がいることこそが、「誰かに評価されるいい子」であることよりもずっと生きていく上で重要なことな気がするよ。

「一度も話した事がない子が『友達でしょ』なんて言うんです。先生に言われたか、内申のポイント稼ぎか知らないけど。私、そんなの嘘だと思う。友達って言葉を何かの為に利用したら、本当の友達って出来ない気がするんです」

これは、わたしが42歳の今でも思っていること。

この小説のメインテーマはやっぱり実は「友情」だと思うんだけど、これから、そういった部分もいろいろ出てくるよ。

しかし、これ、ヤングアダルト文庫とかもしくは漫画とかにならないかなー。漫画向きな話な気もしてる。

ご感想などお気軽にメッセかコメントでも。

全12回、引き続きよろしくお願い致します。

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私の作品紹介

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。