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感覚に耳を澄ます

長く生きることは幸せ?

わたしは今、在宅医療の現場ではたらいています。
そこで、常々思いを巡らせることがあります。

戦後から高度経済成長を経て、日本を支えてきてくれた世代の方々が90歳、100歳と長生きする時代になりました。

日本は、国民皆保険制度によって誰でも、手軽に医療や福祉サービスが受けられる国です。医療技術も格段に進歩しました。
だから、寿命も延びて昔よりもずっと長く生きられるようになりました。

でも、長く生きても、「もう早く逝きたい」「楽しみなんてない」という声を聞くことも、医療の現場ではしばしばあります。もちろん、人によってその感覚の程度はありけりなのですが。

想像してみてください。

70歳代の方が若いと言われる時代です。

「何のために生きているんだろう」
「この先楽しみなんてもてるのかな」と
30〜40代で考えている方も多い。

ましてや、10代、20代でも、自殺される方の多さを考えると、そう考えている人は少なくないのだろうと思います。

何十年と続く未来。
わたしたちはどう生きていくのか。

わたしの幸せってなに?

もちろん、いつどうなってもおかしくないとも言えます。
明日生きていることは保証されていません。
誰にもそんな先のことはわかりません。

でも、現時点で自分なりに大切にしていることがあります。

それは、
わたしにとって幸せってなんだろう?
わたしは、どんな時に
どんなことで幸せを感じているの?
そんな、細やかな感覚を意識的に受け取っていくということ。

日々の暮らしの中で
「こうすることで心地よくなるなあ」という
自分の声を聴いてあげること。
そんなの無理だからって、感覚を塞いでいる場合ではありません。

自分の感覚をひろうことが、幸せに生きることに結びつきにくい方もいるかもしれません。

少し、わたしのお仕事でお会いした方のことをお話させてください。

自分の感覚に耳を澄ます

何年も前になりますが、癌の末期で、もう治療しても治らないと伝えられ、ご本人の希望でご自宅で残りの余命を過ごしたいと、療養されながら暮らしておられる方がいました。

その方は
「お風呂が好き。お風呂に毎日でも入りたい。」
と周りの方によく話されていました。
「最期までお風呂に入りたい」とも。

だから、周りの人たちは、その方の強い想いを叶えようと動きました。もしかしたら、お風呂の中で亡くなるかもしれないけれど、お看取りになる直前まで「お風呂に入らせてあげたい」とみんなが同じ方向を向き、その方の願いを実現させていました。

さらっと書いていますが、人のいのちの決断です。だから、想いを叶える方、特にご家族は腹をくくる決断なんです。

ご本人の強い想いを叶えることは、ご本人にとって「ありがとう。」と満足のいく幸せな気持ちになるものですが、

それだけではなく、周りの人たちも「ああ、良かった。こんなに嬉しそうにしてくれて。本当にやって良かった。」と幸せな気持ちになるのです。納得して死に向きあえる、とも言えます。

病院なら、いつ死ぬかもわからないような状態で、お風呂に入るのはリスクが高いと判断し、お身体を拭くことはあっても、なかなかお風呂に入ることは難しいでしょう。

でも、お家では、その人の人生において、価値あることを可能な限り実現するにはどうしたらいいかを、みんなが考えて動く。

それは、その方が明確に、自分の「こうしたい」を発信していたからです。加えて、ご家族にもそれを尊重したい意思があって、それを最期まで実現できるサービスがあったからです。

それは、その方がその環境をつくってきたから、とわたしは思うのです。

いくら自分が望んでいても、それを無意識から顕在化させ、他者に伝えていかねば実現は難しくなりますから。
自分の人生です。自分が自分を分かっていないと、環境はつくれません。

いやいや、家族が分かってくれないんだよ〜
なんたらかんたら、、
とおっしゃる方もいますが、その関係性をつくってきたのは自分、その関係性に距離をおけないのも自分であるはずです。

そんな自分を認めない限りは、いつも不満でいっぱいで、幸せとは程遠いものになります。
自分が悪かったと自分を罰して、否定する材料にするのは、また負のサイクルに入ります。

認めるって、そうはないんですよね。


今この自分は、この自分でしかないことを、分かってあげる。
そこで、今の自分が心から望んでいることを考える。そうしたら、今まで口にもしていなかったことが言葉に出てくるかもしれません。
他者に頼りながらでも、今の自分にかえることに集中すると、見えてくるものがあります。

それに、血の繋がった人たちだけが家族であることもないはずです。

少し厳しいかもしれませんが、揺さぶられるときの自分へのメッセージとしても書いておきます。

ちなみに、わたしは何よりも、ぐちゃぐちゃに物が散乱している空間にはいたくないし、風通しがよく、シンプルで物が少ない場にいたい。
それを自分の欲求として知り、自分が居る空間をととのえてあげることが、今のわたしがわたしにしてあげられることです。

他者とかかわり生きる

わたしは、他者とかかわる時、長い人生の中に登場する一人として、自分に何ができるのかを考えます。

それは、お互いが影響を与え与えられることが前提にあります。一方で、長い人生の中のほんの一部で、相手にとって特別な存在でも何でもないことも頭に入れています。
人はやっぱり自意識過剰になりやすい。

そこは矛盾するかもしれませんが、両方が同時に存在することで、それ以外の可能性が広がり、答えが限られていないことを知っておくのです。

だから、わたしが無理やりその人に合わせて頑張ろうが、頑張らないでいようが、相手にとって大したことはないのです。わたしがいてもいなくても、その人の世界は終わらない。

その人のストーリーに、登場人物はわたし一人ではないですから。

同時に、存在するだけで相手に影響を与えるわたしでもあります。喜びだけでなく、痛みさえも。

どちらも存在するため、どちらの側面だけはあり得ません。正解はない。
つまり、何でもありなのです。

だから、「わたし」はどうしたいのかを聴いてあげる。こうしたい、の先にある想いも出てくるかもしれません。それが分かれば、今の現状で自分のできることが見えてきます。

もしかしたら、ただ、そこにいる。
それだけなのかもしれません。

わたしたちは、他者とかかわりながら生きています。だからこそ、目の前のその方との関係性において、自分を尊重したうえで、「どうしたいのか何ができるのか」を考えていくことが求められると思っています。

「何かしてあげよう」「してあげなければ」ではなく、その人を観て自分なりに知ろうとした上で、わたしはどうするか、何ができるか。

受け身だけで流されていくと、何とかなる時代ではなくなりました。

だからこそ、「自分を尊重し他者と生きるには、自分はどう在るのか」ということを問うていくことが、人生を幸せに豊かに生きる道につながるのだと日々教えてもらっています。

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