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尊重されたい私

ジェンダーが私のテーマだと再認識した今年。
今年が終わる前に、私がジェンダーに執着するようになった原体験を思い出せたらと考えていた。
幼少期の苦しかった経験。ジェンダーと直接繋がるわけではないけれど、その体験があったから同じ類いの苦しさに、敏感に反応したのだと思う。

私は尊重されたいという強い思いがいつもある。
私の考え、在り方を理解できなくても、納得できなくても、「絶対違う」とは否定しないでほしい。
「よくわからないけど、そういうのもあるのかもね」と優しくそこに置いておいてほしい。
そんな風に思う。
だから私も「よくわからないなぁ」と思っても「まぁそういうのもあるのかぁ」と受け容れるように努めている。

子供の頃、子供らしくなくてかわいくないと言われたことがある。
子供らしさを強要されて、でもやっぱり子供らしくできなくて苦しかった。
私は冷めた子供だった。人前でではしゃぐことができなかった。
私ははしゃぐことを奪われていたんだと思う。
はしゃげばうるさいと言われたり、そのテンションに私の周囲の大人は付き合ってくれるわけでもなかった。
うるさくしなくて大人しくしていることで大人から有り難がられる経験もしていた。
だから自然と冷めた子供になっていったのかな…と大人になった今、色々な人の幼少期の話を聞いたりして、そう推察する。
純粋に喜んで飛び跳ねる同じくらいの歳の子供を冷ややかに見ながら、羨ましかった。

大人のその場しのぎの嘘が嫌いだった。
「お菓子をあげるから」とか「ここに連れていってあげるから」とか「明日やろう」と言って果たされない約束。
「話が違うよ」と子供ながらに思って許せなかった。

大人が話をすり替えるのが嫌いだった。
私が機嫌を損ねて泣くと無理矢理笑わせようとしてくる。
テレビや食べ物で気を引いたり、全然違うトピックの話をしたり。
「そうじゃない。話はまだ終わってない。」そう思って悔しくて涙が止まらなかった。

子供だから、子供騙しが通用する。
子供の言うことだから。
そうやって軽く受けとめる周囲の大人たちが嫌だった。
「私は子供の話を聞く大人になるんだ。この気持ち絶対忘れないんだ。」そう思ったことが何度もあった。
半分忘れかけていたけど、子供の時の自分への約束、子育てしてたら思い出せた。良かった。

私は
“冷めた子供”
“可愛げのない子供”
“子供らしくない子供”
と言われて傷ついた。そうじゃない自分にならないといけないと思ったけどなれなかった。私のままでは認めてもらえなかった。
だから根底に「私なんて…」を抱えながら大きくなった。

「私なんて…」を抱えなくても良かったと気づけたのは最近のこと。
本当は洞察力の長けた子供だった。
本当は矛盾が見抜ける子供だった。
本当は芯のある子供だった。
素晴らしい子供だった。
大人は私の扱いにくさで子供らしさを押し付けて、でも子供らしく振る舞えない私から逃げていた。

私は痛感している。
尊重されることの大切さ。
らしさを強いられる苦しさ。
だから私はその人らしさを尊重したい。
そして私らしい私も尊重してほしい。

大きくなって“子供らしさ”からの呪縛から解き放たれると“女らしさ”の足かせに気づく。
そうやってジェンダーに「あるある」を感じて興味を持つようになった。

これが私のジェンダーを考えながら生きるようになったいきさつ。

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