無意味の日

迷える子パンダ。お手柔らかに。

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僕の考えるPDCA

Plan backforward for the goal (ゴールから逆算しろ) Do fast (早くやれ) Check objectively and carefully (客観的に、綿密に評価しろ) Act in order (順番に改善しろ)

    • 占い

      最近人間関係で寂しいと感じることが多く、その場のノリとはいえ、自分の意思で初めて占いに行った。 それまで、あることないこと話せばそんな気がしてくる、くだらないビジネスだと思っていた。 が、思っていた以上に見透かされた。 目立ちたい気持ちを優しさが押さえ込んでいること。社会の役に立ちたいこと。傷つくのが怖くて繊細なこと。夢見がちなこと。 最近読んだエッセイで、「あなたが寂しいのは祈りが足りてないから」と書いてあったが、意味がよくわからなかった。 なるほど、寂しいのは、耐

      • 社会的評価について

        社会的評価の大部分を占める行動力とは、選択力(方向と初速を決める)と推進力(継続する距離及び時間と速度を決める)から成り立つが、推進力は自身の選択の納得感に基づくため、社会的評価とは「納得のいく選択が日頃から迅速にできるかどうか」で概ね決まると考えている。

        • 多様化による受容と動機付けについて

          「多様化が進むことによって未婚率が上昇して少子化が進む」という話は、社会問題として日常的に飽きるほど耳にすることである。 これは、「多様な性が受容されることで、男性と女性という関係による結婚や出産が減ることによって少子化が進む」という直接的な関係として議論されることが多い。 実際問題、性の多様化と未婚率や出生率には相関があり、豊かな社会を目指すうえで目を背けることができない論点だと思う。ただし、今回はこの議論自体の賛否や持論はさておいて、別の論点からこの問題を考えたい。

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        僕の考えるPDCA

          相手の立場で寛容たれ

          今回はこの記事について考えたい。 岸田首相の発言に対して、子育てする側から「岸田は子育てをする立場になって考えてほしい」と批判が野党を中心に巻き起こった。 そんな批判に対して私はこういいたい。 「岸田首相の立場になって考えてほしい」と。 まずは状況を整理しよう。岸田総理の発言は、自民党の大家参院議員の代表質問である、「リスキリング支援を行う企業の支援は、子育てを前向きに取り組むことにつながる」という内容に答えるものであった。「この発言が質問と呼べるのかどうか」という話は

          相手の立場で寛容たれ

          無茶したがるのは「忍耐と徹底的にやりきる根性があるから」ではなく、「無茶を言っても受け入れてどうにかしてくれる優しい世界に生まれているから」

          無茶したがるのは「忍耐と徹底的にやりきる根性があるから」ではなく、「無茶を言っても受け入れてどうにかしてくれる優しい世界に生まれているから」

          音楽も本も思考と感情の収納

          今まで本は1字1句追うように読み、大切なところには線を引くような読み方をしてきて、読み返した時に内容を覚えていないことにガッカリしていたけれど、最近は流し読みしながら、自分が考えていることに感化されるような部分を気に留めておく、ぐらいの、歩きながらイヤホンで音楽を聴くテンションで読むようになって気楽に本を手に取れるようになった

          音楽も本も思考と感情の収納

          毎日楽しく過ごすためには

          これは日々の生活にも言えることで、毎日楽しいと感じながら過ごすためには、「神回」のようなイベントを作ろうと血眼になるのではなく、毎日ささいな楽しみが待っているように楽しみを分割することが大切なのかもしれない。

          毎日楽しく過ごすためには

          いつでもどこでも様々なことができるようになった時代になったとしても、いつでもどこでも誰かの陰口を叩くのが日常になることは許せない。

          いつでもどこでも様々なことができるようになった時代になったとしても、いつでもどこでも誰かの陰口を叩くのが日常になることは許せない。

          僕は自分はもちろん他人も誰かに傷つけられているのに耐えきれないし、みんながお互いを理解したうえで認め合う笑顔にあふれた場所、というととってもありふれたようにきこえるのだけれど、心底そういう場所を求めているのだと最近感じる。

          僕は自分はもちろん他人も誰かに傷つけられているのに耐えきれないし、みんながお互いを理解したうえで認め合う笑顔にあふれた場所、というととってもありふれたようにきこえるのだけれど、心底そういう場所を求めているのだと最近感じる。

          合理的である故にそれぞれの行為に意味づけや背景を考えてしまうのはむしろ合理的ではないのでは、という指摘をうけてもっともだと感じた

          合理的である故にそれぞれの行為に意味づけや背景を考えてしまうのはむしろ合理的ではないのでは、という指摘をうけてもっともだと感じた

          「依存」と「悪者」

          まずはこのTwitterの投稿を参照してほしい。 ゲームは確かに子どもに悪影響を与えているかもしれない。しかし僕が言いたいのはメリットデメリットの話ではない。「子どもを『ゲーム依存』にさせているのは誰なのか」ということなのだ。ゲーム依存が悪いということ自体は簡単なのだが、子どもがゲームに「依存」していると責任を押し付ける、つまり「依存する」ことで、問題と関係ない第三者になろうとしているのではないのか。 次に本日行われた東大の祝辞を参照してほしい。 この祝辞が議論を呼んで

          「依存」と「悪者」

          吉野家で牛丼並を食べるのは

          昨日友人と話していて驚いたことがある。友達は吉野家にいったらネギたま牛丼を食べるというのだ。 これは何もトッピングしていない牛丼を食べる僕からしたら考えられない。なぜなら僕の場合、ネギたま牛丼とただの牛丼には「お腹を満たす」という点で互換性があるからだ。安く済むならそれに超したことはない。 しかし友人は、「牛丼を食べたときには牛丼の幸せがあるし、ネギたま牛丼を食べたときにはネギたま牛丼の幸せがある」と言った。これはつまり、こういうことだと思う。 大きな違いは「目的」と「

          吉野家で牛丼並を食べるのは

          時間は「流れる」だけでなく「流して」くれるということは、知能を持った人間にとっての救済なのかもしれない。

          時間は「流れる」だけでなく「流して」くれるということは、知能を持った人間にとっての救済なのかもしれない。

          二度とモグラが出てこないようにするにはコンセントを探せ

          二度とモグラが出てこないようにするにはコンセントを探せ

          仏教思想や藤井風が好きなわけ

          常に評価によって意味(=価値)が生まれると考えている。だからこそ、何もしていない時間ーーつまり自他ともに評価されない、もしくは評価に値しない行為が苦手だ。他の人の視線や他の人とのズレが気になる。周りからよい評価をされるような人間でありたい。他人からより評価されるような行動は何かを基軸に考えてしまう。だからこそ向上心が強い。人前に立ちたい。承認欲求が強い。人に評価されなくなると途端に自分が支えられなくなる。そんな弱い自分を見せたくないと見栄を張ってしまう。 評価するためには意

          仏教思想や藤井風が好きなわけ