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スポーツの世界は常に残酷。結果が全てだ。でも、いつも心を動かされるのは、そのプロセスにある。

あの日、
夢破れた君へ。


国際Aマッチ35試合出場1得点。
僕が日本代表としてプレーした記録は
決して派手な数字ではないけれど、
―戦一戦は濃く、挫折と成長の連続だった。
初出場は1992年5月、国立競技場。
無名だった僕は、キリンカップサッカーで初めて
代表のピッチに立った。相手は強豪アルゼンチン代表。
僕らは圧倒的な力の前に負けた。悔しかった。
同じ選手として、このまま終わるわけにはいかない。
この差を何としてでも埋めたい。日本代表を世界のトップと対等に、
いやそれ以上の存在にしたい。僕は世界に負けて、夢を持った。
それからは必死だった。無我夢中で駆け抜けて、食らいついて。
多くの苦難を乗り越えて、世界への扉を掴みかけた時、
夢は残酷な結末で崩れ去った。
1993年10月、カタール・ドーハ。
後半45分、僕の頭上をボールが通り過ぎていき、
相手のへディングシュートがスローモーションのように
ゆっくりとゴールに吸い込まれていく。
僕はそれを、ただ眺めることしかできなかった。
実は、その後のことをあまり覚えていない。
整列はちゃんとしたのか。誰かと話はしたのか。
宿舎のホテルまで、どうやって帰ったのか。
気づいたら、僕はホテルのベランダで泣いていた。
何度も悔やんで、何度も何度も自分を責めた。
そして僕は人生最大の失望の渦のなかで学んだ。
勝たなければ、何も残らない。何も手に入れることはできない。
あれから25年。僕はいま日本代表を率いている。
道半ばで散った夢を叶えるために、挑戦を続けている。
4年後、我々が目指す舞台は、因縁の地カタール。
最後に、あの日、夢破れた君に言っておきたいことがある。
必ず日本を強くして、必ず世界に勝ってみせる。
僕たちにはもう、悔し涙は十分だ。

日本代表監督
森保一
2018.12.12


今になって話題になっている
ちょうど4年前の新聞広告。

ワールドカップアジア予選から
ずっと叩かれ続けてきた森保監督だが、
誰に何と言われようと、
本当に強い思いは報われるものなんだと、
心臓を鷲掴みにされ、魂が揺さぶられた。

僕は小中高と部活に明け暮れた
どこにでもいるようなサッカー少年だった。
ドーハの悲劇のあと、
友達と見上げた月夜のことは今でも忘れない。
あれから29年。
あの日があったから今日があると、
みんなが思った瞬間だった。

賛否あるのは重々承知だが、
こうして4年間、
ひとりの監督を信じて、
日本サッカーの未来を託すということは、
素晴らしい試みであり、英断だったと思う。
世界でも稀有なケース。
監督交代のタイミングは何度もあった。

結果が全ての世界。
あと1点、あと1mmで、
彼は英雄にも戦犯にもなりえたはず。
ただ、一つ間違いないと思えたのは、
そのどちらも受け入れる覚悟があったと言うこと。
それくらい強い信念を持って、
日本代表を引っ張ることができたのは、
やはりドーハの悲劇があったから。


こんな経験はしない方がいいに決まっている。
みんなそう思うに違いない。
経験した誰もが、
自分だけで十分だと思う。
でも、それを経験した人間だけに、
できることもあるんだと。
森保監督は、日本代表は、
僕らにそんなことを教えてくれた。

次のクロアチア戦、
もう一つ新しい歴史が作られるかもしれない。
日本中のみんなの期待を背負う彼だけれど、
どんな結果であれ、
彼を、彼が率いるこのチームを、
もう責める人はいないだろう。

吉田麻也選手が、
スペイン戦後のインタビューで言っていたように、
僕もただ、一つでも多く、
この日本代表チームの試合を見てみたい。


スポーツの世界は常に残酷。
結果が全てだ。
でも、人の心を動かすのはいつも、
そのプロセスにある。

弱小国と言われ続けてきたけど、
日本に生まれて、
日本サッカーを応援してきて本当に良かった。
森保監督、そして史上最高の日本代表メンバー、
心からありがとう。

そしてもう少しだけ贅沢を言うなら
一夜でも多く、
その夢を見せてください。
僕らはただ、全力で応援します。

#新しい景色を2022
#サッカー日本代表
#ワールドカップ2022


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