連載小説『エフェメラル』#7
第7話 望郷
エマとユーヒが施設を訪ねている間、マイルス商会本部にあるゲンソウの執務室では、今後のリンへの対応について、ゲンソウ、レニー、ジルが話し合いを続けていた。ゲンソウがジルに質問する。
「リンの今回の行動、ジルはどう思った。素直な意見を聞きたい」
「それは、自分がリンをよく知っている立場であるということを前提に答えてもよろしいでしょうか?」
「それでいい」
自分の答えがリンの処遇を決めるかもしれない。ジルの頭の中をそんな思いがよぎる。しかし、自分が手心を加えたところでどうなることでもないとも思った。素直な考えを伝えるしかない。
「我々親衛隊は戦場で適切な判断を行うため、感情に制限がかかっています。ですので、リンの行動はあの場で交わされていたユーヒ様とラジャンの会話によって喚起されたものではないと考えます。リンは、何か意図があってあのような行為に及んだ。ただ、自分はその場にいなかったため、その意図がなんなのか、明確には答えられません」
「明確でないにしても、リンの意図としは何が想定される?」
聞かれたくな質問だった。だが、上官であるゲンソウの質問にジルは答えないわけにはいかない。
「あくまで推測ですが、リンは、ラジャンを『脅威』であると認識していると考えます。リンにとっての脅威とは、すなわち、マイルス商会、ミジュ様、そして現状ではユーヒ様に対して何らかの危害を加える可能性のある者です。ラジャンの身体は他者に物理的な攻撃を行えるような状態ではなかったため、おそらく、ラジャンの知っている情報、もしくはラジャンの存在自体が脅威になり得るものなのだと考えます」
「では誰を脅威から守ろうとしたのか。それに対して二つの可能性が想定されると私は考える」
ゲンソウはそう言うと、レニーに視線で説明を促す。
「はい。リンが守ろうとしたのは、まずはユーヒ様。彼女はミジュ様のプロジェクトにおいて最重要人物で、ミジュ様からリンに与えられた命令はユーヒ様の護衛だからです。もう一つは、マイルス商会の外部の人間。ユーヒ様を襲った側の誰かです。リンはラジャンから情報が漏れることを危惧している。ジル、お前もそう思っているのではないのか?」
レニーの言うとおりだ。そのことをジルは敢えて口にしなかった。しかし、誰よりもマイルス商会、そしてミジュに忠誠を誓っているリンに限って、そんなことがあり得るのだろうか。
「いや、あり得ません。リンがスパイだとでも言うのですか。バカげています」
ジルの言葉を聞いたゲンソウが答える。
「ジル。事態は我々の想像以上に入り組んでいる。ここからは私の予測になるが、おそらくリンはミジュ様から厳しい処分は受けない。そして、リンはユーヒ様と一緒に地球に下りることになる。ラジャンを伴ってな」
「では、自分は何をすべきでしょう?」
ゲンソウの意図を汲みきれないジルは命令を待つ。
「お前は引き続き、ユーヒ様を襲った組織について調査をするのだ。その際は、これまでの経験や記録から導かれる先入観を一度捨て去ること。調査対象には、マイルス商会も含まれる。総帥であるミジュ・マイルス様も例外ではない」
これは命令だ。自分の仕事の結果がどのような事態を招くのであれ、上官の命令に従う。そして自分は、この事態の顛末を見届けなくてはならない。ジルはそう自分に言い聞かせた。
ゲンソウの執務室で三人が話し合っている同じ刻、マイルス商会の総帥であるミジュ・マイルスは、グルーム社開発部の総責任者を自らの部屋に招いていた。
「ミジュ様と直接お会いするのは5年ぶりでしょうか? 今日はどんなご用件で?」
大きなソファーに腰掛け、地球産の茶葉を使った紅茶を飲んでいたミジュは、手に持ったカップの中をジッと眺めながら答える。
「バイラム、あなたを呼び出したのはリンのことです。調子があまり良くないようだから、原因について聞こうと思って」
「報告は受けております」
「今回の騒動の原因が不具合なのか、それとも私の知らない仕様となっていたのか、どちらなのかは私には分かりません」
「ご冗談を。仕様の変更等あれば包み隠さずお知らせしますよ。リンは高度な学習能力を持つが故、我々も予想できない反応を示すことは想定済みです。では、検査のため、リンは一度こちらで預からせていただくことでよろしいでしょうか?」
「ええ、そうしてください。ただ、5日後にはこちらに戻してください。それまでに調整をお願いします」
「相変わらず、納期に厳しいですね。いえ、もちろん対応いたしますよ」
バイラムは温和そうな顔に愛想を浮かべながらミジュに対応する。バイラムは30歳になったばかりの若い技術者だが、学生時代から人工身体の制御システムの研究をしており、グルーム社に入社して5年足らずで開発部の責任者になった秀才だ。特に、人工身体が外部から受ける刺激を生身の身体と同じように脳に伝える新たな技術を開発したことが会社から高い評価を受けた。ミジュもその技術に興味を持っている。
「ところで。ミジュ様はまだ生身の体にこだわっていらっしゃるようですね。人工身体に興味はございませんか? 我が社の人工身体の性能については、兵士の活躍や一般医療での活用で証明済みだと自負しておりますが」
「あなたの開発した技術を信用していないわけではないのですが、私はどうしても生身の体で受ける刺激に愛着とこだわりがあるのです」
「ミジュ様は欲が深いのですね」
「あなたほどではないと思いますよ、バイラム。しかし、身体を再生し続けるのにも限界があることは私も理解しています。だからと言って人工身体に換装するのは、やはり私の信条と相いれないものであるという考えは変わりません」
「そうですか。ミジュ様の信条は尊重いたします。余計な話、たいへん失礼いたしました」
「いえ、気にしていませんよ。では、リンをよろしく」
「了解いたしました」
バイラムはミジュの部屋を後にすると、部屋の外で待っていた部下たちにリンの回収を指示する。ミジュは何かに気が付いているかもしれない。送迎の車に乗り込んだバイラムは、月の研究所に戻る途中、グルーム社本社に連絡を入れる。
「CEO、バイラムです。ミジュ・マイルスとの話は終わりました。リンの行動に疑問を抱いている様子です……はい。リンは回収しましたので、地球降下までには再調整の上、納品いたします。こちらの計画はほぼ想定どおり進んでいますのでご心配なく」
報告を終えたバイラムは通信を切り、今後の動きをシミュレートする。少女の地球降下は一週間以内に実行されるだろう。地球に降り立った少女に変化がなければ、それまでの話。ただ、本人に自覚がなくとも、地球に残された人々はラウラの存在を忘れてはいない。当然、ミジュの狙いがそこにあることは明らかだ。しかし、仮に人々が地球への回帰を切望したとしても、広大な宇宙にその活動範囲を広げた人類は、閉じた環境の地球へは後戻りなどできない。人は常にフロンティアを求め続けなけばならない。
そして、宇宙での生活を続けていくためには、生身の肉体よりも量産性と耐久性に優れた人工身体が適している。それがバイラムの考えだった。もう一つ、長年の課題だった身体と密接に関連する『感情』の問題も、すでに解決できているとバイラムは考える。リンの存在がそれを証明する。研究所に到着したバイラムは、後続の車から部下と出てきたリンの姿を見て、いよいよ自分の夢が叶うことを確信していた。
月の地下から高速エレベーターに乗って地上駅に着いたエマとユーヒは、マイルス商会本社ビルに歩いて向かっていた。地下で何度かジルに連絡をとってみたが、ジルからの反応は無かった。本社ビルに着き、エマは再度ジルに連絡する。
「はい、ジルです」
「ああ、ジルか。エマだ。会議は終わったのか?」
「ええ、さっき終わったばかり。今どこ?」
「本社。今着いた」
「えっと、じゃあ、地球降下について話をしたいから、ユーヒちゃんと一緒に5階にある私の執務室に来てもらえるかな。受付には私から連絡しておくから」
「了解」
本社ビルのエレベーターで5階に上がったエマとユーヒがジルの執務室に入ると、打合せ用のテーブルにはラジャンがポツンと座っていた。
「あ、ラジャン。体はもう良いの?」
ユーヒはラジャンを見るなり、すぐに声をかけた。
「もう大丈夫です。人工身体も日常生活に支障のない程度に設定し直してもらいました。これでやっと一人でトイレに行けます」
ラジャンが話終わると同時に、部屋の奥からジルが紅茶を運んで来る。
「いい性格してるよね、ラジャンは。ユーヒちゃんに対する態度が私と違い過ぎてマジで引くわ。二人とも座って。地球産の紅茶。少しでも地球の環境に慣れていかないとね」
ジルはテーブルにカップを並べて、ポットから紅茶を注ぐ。華やかな香りが部屋に広がった。
「ジル、ありがとう。やっと落ち着けた気がするな」
ユーヒはそう言って、紅茶の香りと味を楽しむ。それとは対照的に、エマは紅茶に口をつけるものの、眉間にしわを寄せたまま険しい表情を崩さない。
「あたしはどうしてもこの小僧と一緒にいるのが気に食わねえ」
ラジャンも同じことを考えているようで、エマと全く目を合わそうとしない。
「ああ、そうだ、ジル。あたしもユーヒと一緒に地球に降りたいんだが、問題ないか?」
エマがラジャンの存在を無視してジルに声をかける。
「うん。地球への降下ルートは、物資運搬用の軌道エレベーターしかないからね。それこそ、エマの船で降りてもらうのが良いのかなって私も考えていたところ。ミジュ様にも話を通してある」
「よし。話が早くて助かる。でも、あたしの船は宇宙用の推進機関しかないぞ」
「ああ、それなら大丈夫。地球用の推進機関の取り付けを発注しといたから。2日間で装着する」
「それはいいけど、費用は出してくれるんだよな?」
「もちろん。エマこそ地球での運転は可能ってことで良いよね? 地球に行ったことあるみたいだし」
ジルの質問をエマは否定しない。
「え、そうなの?」
ユーヒがエマに確認する。
「まあ、な。ユーヒには話したろ。旦那が地球出身だって。あっちの親に挨拶に行ったとき、地球でも船の運転をしたんだ」
「へー。挨拶なんて、律儀ね」
ジルが感心したように言う。
「地球がどんなところか興味もあったしな」
「地球ってどんなところ? あ、海見た?」
ユーヒが目を輝かせてエマに聞く。
「ああ、地球なんてほとんどが海だ。空が青くて、森は目が痛くなるほどの緑だ。ただ、軌道エレベーターの駅がある場所は湿気がひどくて不快だった記憶がある」
「駅は熱帯の赤道上にありますからね。おれの故郷は地球で一番高い山がある山脈の麓だから、赤道上よりは快適ですよ」
エマに続き、ラジャンがユーヒに説明する。
「うちの旦那もそのあたりの出身だったな。まあ、地球上で人が住んでいるのはその地域だけだから当たり前か。そういえば、地球に行くメンバーてどうなってんだ?」
エマはジルに話を返す。
「ああ、言ってなかったね。地球に行くのは、ユーヒちゃん、エマ、ラジャン。あとは親衛隊のレニー中将、そしてリン」
「なんだ、やっぱりリンも行くのか。小僧の見張りってことだな。またやられないようにせいぜい気を付けろ」
そう言われたラジャンはエマをギロッと睨む。それを横目にジルが話を続ける。
「私は月で仕事があるから一緒には行けない。レニー中将は鋼の肉体を持っていて兵士としての能力も申し分ないし、私と同様、医師としての資格もある。安心して頼っていい人だよ」
「ジルは一緒じゃないんだね。ちょっと寂しいかも」
ユーヒは残念そうに言う。
「そう思ってくれて嬉しい。けど、また月に戻って来たら会えるから。それまでに、私も自分のやるべきことをやっておく」
それからジルは地球に行くにあたっての留意事項と、地球に行ってからの行動計画について説明した。説明を聞いたユーヒがジルに確認する。
「ええと、じゃあ私たちは軌道エレベーターを降りたら、そこからEー2地区の北エメリカ大陸を回って、Eー6地区の東からラジャンの故郷『ラーニ』に入る。そこの王様だっけ? その偉い人に会ったら、来た経路を反対に回って帰ってくる。それで良い?」
「そう。それだけ。期間は特に決めてないから、急がなくてもいいよ。せっかくだから、いろんな場所を見てくるのもいいんじゃないかな」
ジルの説明を聞き終わったユーヒが気がかりなのは、やはりこの旅の目的だ。これはただの観光旅行じゃない。ラジャンの故郷が目的地であるのならば、そこに何かがあり、この旅の目的が分かるのかもしれない。ミジュの本当の目的が。
「おれの街に着いたら、ユーヒさんをご案内します。月みたいに発展した街じゃないけど、いいところはたくさんある。家族も紹介します」
「うん。楽しみにしてる」
単なる旅行じゃないことは分かっているが、ユーヒは不安の種をこれ以上蒔かないようにするためなるべく楽しいことを考えようとした。でも、やっぱりもう一度リンと、きちんと向き合って話をしなくてはならないと思った。リンはなぜ自分を守ろうとしているのか。その理由がユーヒの望むものでなかったとしても、事実を受け入れる。ユーヒには、その覚悟ができていた。
◎
人類が宇宙に進出してからも、地球はこれまでと変わらず自転と公転を続け、地域による濃淡はあるものの、常に季節は移ろいでいた。地球の長い歴史の中では寒冷化と温暖化が交互に繰り返されており、人類が宇宙を目指していた時代は地球は温暖化の時期だった。その後、人類が宇宙に出てからは寒冷化の傾向が観測されるようになった。
地球の北半球、かつてエイジアと呼ばれ、今はEー6と呼ばれる大陸。地球上でもっとも高い山の麓にある街は、寒冷化で厳しさを増す冬を迎えようとしていた。周囲を高い山に囲まれたこの街に朝陽が差し込み、紅葉した茜色の木々が光り輝く。新たな一日の始まり。街の中心にあるドーム状の屋根を持つ大きな寺院には、朝の礼拝のため、多くの僧が集まって祈りをささげている。
寺院からそう遠くない民家の一室、一人の少女が外出の準備をする。少女の日課は、朝早くから寺院に勤めている父親に昼食の弁当を届ける事だ。少女の母親が料理を弁当箱に詰め、手提げの袋に入れて台所のテーブルに置く。
「アスミ、今日もお願い。気をつけてね」
「うん、お母さん。心配しないで。いつもの道を行くだけだから。じゃあ行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
少女は自宅を出て街の中心部に向けて歩き出す。毎日同じ時間に、同じペースで、同じ道を歩く。少女は足裏で感じる道の凹凸でどの辺りを歩いているのかが分かる。
「アスミちゃん、おはよう。今日もお遣い、えらいね」
「おお、アスミ、おはよう。今日もいい天気だね」
「おはようアスミ! 今日も学校で遊ぼうな!」
道ですれ違った知り合いが、次々に声をかけてくる。住宅街を過ぎ、寺院の門をくぐる。僧の唱えるお経と、お香の香りが強くなる。もう少しで父親の仕事場だ。
少女の父親は、寺院の一画に専用の部屋を与えらえており、そこで仕事をしている。彼の仕事は、寺院専属の占い師だった。この地域に伝わる東洋系の占星術がベースとなり、宇宙に進出した人々からの知識をフィードバックさせた、宇宙時代の占星術。作物の収穫が終わって冬支度を行うこの時期は、占い師にあまり仕事は回ってこない。次の春に向けて、種まきの時期や、夏祭りの日取りなどをどうするか、時間をかけて検討する期間だ。楽しみと言えば、昼の弁当と、それを届けてくれる娘の顔を見ること。いつもの時間、扉をノックする音が聞こえた。
「おはようお父さん。お弁当持ってきたよ」
「おお、アスミ。今日もありがとう。いつもの場所に置いておいておくれ」
「うん、分かった」
父親に言われたとおり、少女は机に弁当を置いてから机の前に置かれた椅子に腰かける。
「お父さん。お兄ちゃんはいつ帰ってくるのかな?」
父親は娘が久しぶりに兄のことに触れたことに驚いた。
「何か感じたのか? 今朝の西の空、月の周辺で星が重なった。年が明ける頃、兄は再びこの地に戻ってくるかもしれん。大きな光を伴って」
「そうなの? もしそうだった嬉しい。また、一緒に暮らせるんだね」
「そうだな。そもそも宇宙は我々にとっては観測の対象であって、住む場所ではない」
「でも、どこに住んでいても人は変わらないと私は思うよ」
「そうだ。この地球だって宇宙に浮かぶ、ただの小島だ。だから人は狭い島の中に飽きてしまい、外に行きたくなってしまうのかもしれん」
「うん。でもいずれ私たちは『アオ』にというところに行くんでしょ?」
「ああ。それは定めだ。そして、現世の記憶を全て消されて、新たな世界に生まれ変わる」
「うん。だからわたしは、死ぬのは怖くないよ」
少女と父親の会話はそこで終わる。そして少女は席を立つ。
「じゃあわたしは帰って学校に行くね」
「気を付けてな」
「うん」
少女は父親の仕事場を出て、来た道を戻る。太陽が少しずつ高くなり、少女の頬にも日光が当たる。
「ほんと、いい天気」
こんな良い天気の日には、少女はいつも兄のことを想う。いつも明るく、優しい兄のことを。
「おかえり、アスミ。朝ごはんとお弁当、テーブルに置いてあるから」
少女が家に着くと、洗濯を干していた母親がベランダから声をかける。
「分かった。食べたら学校行くね」
「うん、行ってらっしゃい」
少女はテーブルに置いてあった朝食を食べ、食後に紅茶を飲む。一息ついてから、教科書の入ったカバンに弁当を入れて家を出る。学校は寺院とは反対方向だ。いつもの時間、友人のメリナが家の前まで迎えに来た。
「おはよう、アスミ。今日は1時間目から体育でサッカーがあるみたい。やっぱり見学?」
「そうだね。危ないから」
「分かった。その間、何してるつもり?」
「うーん。教頭先生とお話しをしようかな」
「アスミ、好きだよね、教頭先生」
「うん。先生のお話、面白いからね」
「先生、月の生まれだもんね。私も一緒に話聞こうかな?」
「だめだよメリナは。ちゃんと体育に出なきゃ」
「わかった。じゃあ、教頭先生の話、あとで聞かせてね」
「もちろん」
学校に着いた二人は教室に入り、一時間目の授業の準備をする。体育着に着替えたメリナは、アスミに手を振って校庭に駆けていく。アスミも体育着に着替えたが、校庭には行かずに職員室へ向かう。教頭のカルラ・ミレイは自分の席に座って書類をまとめているところだ。カルラは職員室に入ってきたアスミを見つけ声をかける。
「アスミちゃん、いらっしゃい。1時間目は体育だっけ?」
いつのも優しい声を聞き、アスミは微笑んで答える。
「うん。今日もカルラ先生のお話を聞かせて欲しい」
「もちろん。どんな話がききたい?」
アスミは目を閉じて考える。
「そうだなー。じゃあ、先生が月から地球に来た時の話を聞かせて」
「いいわよ。まずは、こちらにお座りなさい」
カルラはアスミを応接用のソファに座らせ、自分も隣に座った。
「じゃあ、何から話そうかな。先生が地球に来た理由ってもう話したかしら?」
アスミは小さく首を横に振る。
「先生が地球に来た理由は、女神様に会うためだったの」
「え、地球に女神様がいるの? 私のお兄ちゃんは、女神様は宇宙にいるって言ってたけど……」
アスミの言葉に、カルラは「ふふ」と声を出して微笑む。
「アスミちゃんのお兄ちゃんの言う女神様と、先生が言う女神様は違う人なんでしょうね。女神様が一人だけとは限らないでしょ?」
「そうか。そうだね、女神様はたくさんいた方が良いと思う」
アスミは無邪気に言った。
「そうね。先生が会いたかった女神様は、赤ちゃんを授けてくれる女神様。先生はね、赤ちゃんが欲しかった」
「そうなんだ」
「そして無事、先生は赤ちゃんを授かった。その子は立派に成長して、月に戻って行った。今は月でお仕事をしているわ」
「先生は月に戻らないの?」
「戻りたい気持ちはあるけど、地球で赤ちゃんを産んだ人は、月には戻れない。そういう決まりになってるのよ」
「先生は、月に戻れなくて寂しくないの?」
「うーん。ちょっとは寂しい。でもこうして、アスミちゃんや他の子どもたちとたくさんお喋りできるのは楽しいと思っているよ」
「先生は強いんだね。それに比べて私は……」
アスミはふと目を伏せる。
「アスミちゃんは、お兄ちゃんに会いたいのね」
「うん。お兄ちゃんは私の体を治すために宇宙に行ったけど、私は今のままでも十分だと思ってるの。お父さんお母さん、そしてお兄ちゃんがそばにいてくれれば、私はそれだけで十分幸せ。だから、早くお兄ちゃんに帰ってきて欲しい」
カルラは隣に座るアスミの小さな肩を抱き寄せる。アスミは手を伸ばし、カルラの顔に触れる。頬と鼻、おでこを経由して、カルラの白髪交じりの頭を撫でる。
「お兄ちゃんの顔は小さい頃に見ていたから、今もどんな感じか想像できる。でもね、カルラ先生の顔が私のイメージと同じかどうか、いつの日か確かめてみたいとは思うんだ」
「アスミちゃん。これも想像でしかないけど、あなたのイメージする先生の顔は、先生の『本当の顔』だと思う。アスミちゃんの心の目は、素直で真っすぐ。それは間違いないよ。だから、それを誇りに思って」
アスミはカルラの胸に顔を押し付ける。視力を失っても、こうして人の温もりと優しさをを感じ取ることができる。目が見えていた時よりもより世界を理解できるようになることもある。アスミはそのことを知っている。
「見えないものこそ大事なんだよね。カルラ先生……」
カルラは返事をする代わりにアスミを両手で強く抱きしめた。
アスミの住む街に初雪が降りたその日、軌道エレベーターの宇宙駅では、エマの船が巨大なエレベーターの荷室に積み込まれた。駅の窓から見える大きな青い星。ユーヒは出発のアナウンスが聞こえるまでその星を見続けていた。グルーム社から戻ったリンも、以前と変わらぬ寡黙さを保っている。
――あと5分で出発いたします。ご乗車になるお客様は、指定の座席にお座りください。また、自家用船でお越しのお客様は、お客様の船でお待ちください。
アナウンスに従い、エマ、ユーヒ、ラジャン、レニー、リンの5人がエマの船に乗り込む。地球駅までは3時間弱。それぞれの想いを胸に、地球に降下する。
つづく