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森林を守ることは人間を守ること ~山主さんたちに伝えたい、澁澤栄一の曾孫が語った持続可能社会への知恵~

今年の大河ドラマの主役は、日本の資本主義の父としても知られる澁澤栄一

その曾孫にあたる方が、持続可能な社会づくりに献身的に務める方であることをご存じだろうか。
お名前を、澁澤寿一さんという。

(約4400文字)

①澁澤寿一さんとは

一般的に知られる方ではないだろうが、界隈では非常に有名な方で、よく知られている仕事としては、長崎ハウステンボスの企画・建設・運営の指揮を取られた。
ハウステンボス、と言えばオランダ風のテーマパークじゃん、という認識の方も多いだろう。しかしこのハウステンボス、実は循環型都市を標榜し、徹底的に自然と人間が調和する取り組みが施されており、サスティナブルな分野では先駆者であり最先端をいく壮大な実験場である。
(テーマパークの建設自体環境破壊だろ、と言われる向きがあるかもしれないが、もともとヘドロのたまる草木の生えない劣悪の環境の土地を、むしろ再生している)

岡山県真庭市では1998年から木質バイオマスを利用したエネルギー事業を核とした地域づくりにも取り組み、藻谷浩介氏提唱の「里山資本主義」の源泉になったともいわれ、長年にわたり中山間地域を中心とした地域づくりに尽力し、森林文化保全の教育・啓発の第一人者として、70歳近い今も精力的に活動をしておられる。

寿一氏はここ岐阜県恵那市をたびたび訪れ、聞き書き活動や講演などを行っている。オレも2年前に恵那市岩村町での講演を伺いにいった。

その中で寿一氏が「山林を経済的な付加価値を生み出す資本として扱うことの危うさ」について語っていたのが印象的であった。

つまり、山には金に換えられない価値がある、ということだ。

②山の本当の役割とは

その話を聴いた当時オレは、田舎は資源に恵まれており、都会などに「売れる」モノゴトに溢れていると思っていたし、その収益化の絵面をいつも構想していた。

田舎の魅力とストーリーにちゃんと値段をつけてあげて高付加価値でお金を落としてもらう、地方再生の教科書に載っていそうな手法を疑うことはなかった。

特に山林は、もともと衰退していると言われている林業においてはその管理のために収益化は欠かせないと思っていた。

ところが寿一氏はその収益化自体に疑問を呈してきたので、なかなか消化しきれなかったのだが、コロナ禍での暮らしを経て、あらためて講演時に入手した寿一氏の講義録を読んでいたら、なんだか腑に落ちてきた。

なにしろ我が家は「山主」である。
妻のお祖父さんが林業を営み、何十ヘクタールにも及ぶ山林に、ヒノキやスギを植樹していた。
これらの話は他人事ではない。山を見上げるたびに途方もなく見える何万本もの木の行く先を考えては、押しつぶされそうになるのである。

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何も数年前に亡くなったお祖父さんを責める話ではない。これは戦後に建設資材や燃料の不足を補うため、奨励された政策あってこそで、恵那も例外なく植樹林が山々を覆っている。

樹を育て、伐採すればお金になる。そう誰もが信じて樹を植えた。

山は「儲け」の対象となり、今でもそう捉えられているだろう。

しかし、寿一氏は、この山を儲けの対象にしたことが、日本の社会にとって大きな転換点になった、と説く。

それまでの「山」というものは、人々の衣食住、つまり人々のエネルギー源としての役割を持っていた。

元来日本の山林は広葉樹を中心とした植生で、水や、食料となる動植物、建築材、薪であったり、田んぼの肥料となる茅など、生命維持に関わる全てのものがここでまかなえた。

また山の状態は川に影響する。豊かな山の土壌が少しずつ川に流れ込むことで、川の生態系が豊かになり、人間はその恩恵を受けられる。川は海につながり、また豊かな海を育む。

このような豊かな山は決して放っておいてもできることはない。人間が利用しやすい形で、山の「手入れ」をすることで、そこに生きる動植物たちもその恩恵を受ける「里山」という、共生の姿があった。

例えば、秋田県の鵜養という地域では、広葉樹林を区分けして30年かけて間伐、資源として利用、30年後最初の間伐地が間伐前と同じ太さになり、また資源として生き返る、ということを何百年と続け、江戸時代にたびたび起きた飢饉を乗り切ったという。

このような山との共生は、当然一人でできることではなく、昔から集落全体で連携しながら維持してきたもので、人同士の関係性を潤滑にしていく機能として今の時代には非合理に見える祭りなどの共同作業が行われてきた。

寿一氏が岡山県で行っているバイオマス事業における森づくりも、エネルギー問題への取り組みのようでいて、内実は地域内の関係性づくり、関係性の再構築が真の目的であった、という。

山の資源をお金に換えることは悪くないかもしれないが、それを担う人の中に、地域の人同士のつながりづくりのための事業という目的がなければ、ニーズのために生産し続け消費され、あっという間に資源を食い潰す結果となる。

寿一氏は持続可能な社会、というものが、単に行政区分としての村落の名前を残すことなのか(それは金で解決できる?)、それとも地域の文化を残し、世代を超えて人間の知恵を継承することなのか、その目的をよく考えなければならない、と結論した。

③非合理・非経済が山と暮らしを再生する

うちの隣に住む90歳を超えるお爺さんに、昔の山や川の様子を聞くと、今の姿からは全く想像のつかない豊かな営みを、とどまることなく語ってくれる。たかだか70年前ほど前の話だ。

今でも我が家は全ての水を山からの水源に頼っているし、風呂も薪で焚いている。

そしてこのコロナ禍。まだその全貌が見えない不安の中、山は人間にとっての生命線であることをはっきり認識した。

つまり、物資が途絶えインフラが断ち切られていつこの集落に閉じ込められても、山が豊かなら人は生きていける。

山林開発がもはやその役割を終え、再生の方向に舵を切る時間だというのは、何も古き良き時代へのノスタルジックな感傷ではなく、先の見えない時代に生き永らえるための生命装置だからである。

その命の源を金に換える、という点で植林政策は日本の社会の変質を招いただろう。

寿一氏は、山が豊かになるには人々の共同作業が必要であり、それは雇用という形ではなく、コミュニティの一員として心をつなげる定量化できない「村づくり」という非合理・非経済な営み、いわば「非合理システム」だと説く。

他人任せに金をかけて合理的・経済的に山林を整備したところで、そこに暮らす人たちが共に関わり合い、心を山に託さなければその集落は維持できない。

結局林業振興は金になるまでの期間が少なくとも3〜40年はかかるため、担い手の高齢化によって間伐が行き届かず木材としての価値を下げたり、後継者がなく相続した山主の不在化でほとんど放棄されたような山林が増えてしまった。

失ってしまったのは金銭的な価値だけではない。スギ・ヒノキといった人工の針葉樹林は、木の実や果実をつけることがないし、食用のキノコも生えない。根が浅く保水力があまりないので、水源の水量が減る。人間の食料となることもなければ、山の動物たちの食料にもならないので、結果人里まで降りてきて田畑を荒らすようになった。

田舎から人が流出していくのは、何も植林のせいだけではないだろうが、儲かりもせず、山の恵みも享受できない場所に固執することはなくなった。

「共同で生きるための資源」から、「個々に儲けるための資産」に山林が変節した結果、共同体としてのつながりをも弱体化させてしまった。

確かに面倒くさいことも多い山村の非合理的なことでも、そのおかげで人同士がつなぎとめられ、暮らしを円滑にしている。そのことをオレはこの移住してきた土地の人々から学んだ。

オレが移住してきて経験してきた「非合理システム」については、以下の記事で少しずつ触れている。

④不在山主とメガソーラー問題

さて、その弱ったところに入り込んできたのが、森林開発を伴ったメガソーラーの設置だろう。

この所業でエネルギー問題が解決できるのかできないのか、それはわからない。が、森林の再生より破壊を選んだことは人間が自然を自分に都合よく考えている象徴だと、以前にも書いた。

将来のことも不安視される。メガソーラーの管理で雑草除去の農薬を散布すれば、水源への影響も心配されるし、土中微生物をも駆除することで有機質が減少、土壌が不安定になり土砂災害を誘発する危険もある。仮に数十年後メガソーラーが撤去されたとして、草一本生えない不毛の地と化す可能性がある。

つい先日も、我が家から直線距離2キロの山中にメガソーラーの建設許可が行政から下りたと聞いた。他人事ではまったくない。しかも自然豊かな雰囲気で人気のキャンプ場の真となりに。

メガソーラーでなくても森林を再生すればあまりある資源と美しい魅力を生み出し、地域の人々の生活を支えられるのに。

新しいエネルギーを作り出すまえに、自分たちが過剰にエネルギーを使っていないか、問うこともままならないのに、やみくもに山が削られていく姿は、ただただ悲しい。

この問題を解決するために、一つ提起したいことがある。

メガソーラーが森林に設置されるときは、だいたい不在山主の土地であることが多い。森林の役割や設置の危険性などを知らない都会に住む山主が、貸すだけで金になるのなら、と業者の勧誘に乗ってしまう。

もはや山について何も知らず成り行きで相続してしまい、遠方で管理することもできない、そんな山主を責めることはできまい。こちらにも代替案がすぐ用意できるわけでもない。個人の所有地に法的な問題もないことを干渉することはできない。

これまで見てきたように、山林で金を生み出そうとするとき、そこには地域のつながりと暮らしをおびやかす事態が生じる。今メガソーラーの設置が次々と進む近隣地域では、その是非を巡って住民同士に深い溝が生じてきていると聞く。このようなことを知る不在山主はおそらく多くはないだろう。

だから、ただただ知ってほしいのだ。もし少しでも気になって、これから自分の山をどうすればいいのか、考えたいという人は、ぜひ地域で保全活動に関わる人たちに相談してほしい。まずは地域と山主がつながるだけで、一つ前に進めると思う。

例えば岐阜県恵那市なら、このような団体がある。

ちなみに澁澤寿一氏に著書がほとんどなく、唯一NPO法人山里文化研究所が発行した『叡智が失われる前に』という講義録が自分の手元にある。
問い合わせたところ、一般には流通しておらず、在庫もほとんど無いということではあるが、興味のある方は問い合わせてみてほしい。

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最後に、オレも指をくわえて見ているだけではない。稼業と家事育児が忙しいのでなかなか前に進まないが、少しずつでも山の樹々を薪にしたり、作家さんの素材に使ってもらうように動いている。
その辺の話はまた今度。



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