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君はしめ縄を綯(な)ったことはあるか? ~カッコよく暮らし続けることを96歳に学ぶ~

いやオレは初めてだ。
しめ縄って何?って人も多かろう。
自分で綯ったことがなくて人生に困ることは何かあるだろうか。
今回初めてしめ縄を綯ってみて気が付いた、しめ縄づくりが人生に与えてくれそうなことを書いてみる。

しめ縄って何、という人へはぜひウィキペディアなどをご参照にしていただきたい。
ここでは出雲大社とかに飾ってある巨大なあれではなく、民家の玄関先や家の神棚に飾るものの話をしていく。

しめ縄を作るに至ったいきさつ

ここの地域ではしめ縄は一年中玄関先に掲げておく。
年末にその年採れた稲わらで作って、1年飾ったものと交換する。

そういえば玄関先にあったな程度で、ほとんど視界に入ってこなかったしめ縄をまさか自分で作ることになるとは。

このいきさつについては、動画の中で妻が言っているように、妻の亡くなったお祖父さんが暮れになるといそいそとしめ縄を綯っていた光景が失われて何年もたち、どこかに忘れ物をしている気持ちになった、というのが始まりだった。

幸い隣りの96歳のお爺さん(妻のお祖父さんのいとこ)が、今もなおしめ縄づくりを毎年欠かさない。

せっかく今年はコメ作りもしたことだし、この地域の習わしに沿ったしめ縄の作り方を残していくためにも、直接手ほどきを受けておきたい、ということで指導してもらいながら作ってみた。

しめ縄作ってみた

しめ縄の意匠については、調べれば相当なバリエーションがあることを知った。最近はリース風なんてものが多かったり。

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ただ基本になる巻き方などは共通しているらしく、そこを押さえておけば、あとは地域の習わしによるものと思われる。

わらを適当な太さで3本束にして、ねじりながら束どうしを巻いていく。

ねじりが緩いと縄がダバダバになって見栄えが悪い。だから少しずつきつくねじった状態をキープしながら巻いていくのだが、気を抜くとすぐに緩くなってしまい、これが結構難しい。
緩まないようにと意識するあまり、手首の位置にムリがありながらギュッとねじってたら、あとで腱鞘炎になってしまった。

束どうしを編んでいく方向(正月飾りの場合、時計回りの左綯え)と、各々の束をねじる方向があっていないと、まったく形にならない。
全て向きが合っていると、最後まで編んで手を放しても、硬くしまって緩むことがない。
文章では伝わりづらいが、方向が合っていないと形にならないのはわかるとして、方向が揃っているとなぜ緩まないのか。摩擦が働いているのだと思うけど、実際にやってみると不思議に思う。

手ほどきを受けながら1本、後日に自分でもう1本作ってみて、まあまあ良い感じに仕上がった。

でも爺さんのしめ縄は根元までギュッと締まっていて、どうしたら96歳でそこまで締めれるんだろうと、いまだに衰えを知らない爺さんに畏怖の念すら抱くのだった。

さっそく玄関先と神棚に飾ってみた。自分で作ったってだけで急に存在感を感じ、なかなかいいじゃないかと悦に入るのである。

しめ縄のルーツを探って見えたのは「カッコよさはサスティナブル」

さて、しめ縄づくりで一番大事なことは何か。
お爺さんの手ほどきを受けているときに、さかんに言われたのが「かっこよく作れよ」ということ。

一人でもう1本作ってみてるときに、この言葉を思い出してたら、なんかしめ縄のことに一つ近づけた気がする体験をすることになった。

しめ縄は宗教的な意味合いを持っているが、その起源はなんだったのだろうか。

しめ縄のルーツを探ろうと検索しても神話の話ばかりで、その起こりに関して考古学的に検証している記事を探すのは困難だった。
曰く『しめ縄は古事記に由来し、岩戸から出てきた天照大神を再びこもらせないように、しめ縄で封をしたのが起こり』云々。

これではルーツの説明にはなっていない。

よく先史時代の遺跡から、現代顔負けのおしゃれな装飾品が出てきた、なんて記事を見たりするが、昔の人だって相当な美意識があったに違いない。

何かかっこいいもの、美しいもので身を飾りたい、家を飾りたい、という気持ちはそもそも宗教云々の前に人の欲求としてあるだろう。

もともと縄(ロープ)は人類にとってなくてはならない最も古くから使われている道具の一つであった。インドネシアで見つかった4万年前の壁画に、ロープを使っているとみられる人の絵があったそうな。

日本でも縄文期に縄で土器に模様を描く「縄の文化」が存在していたわけで、それが稲作の流入に伴い、素材を稲わらとして編むようになったのだろう。

そんなある日、ロープの編み方を工夫して「どうだ、オレは(ワタシは)こんな風に編んでみた。かっこいいだろう」と自慢する輩がいたに違いない。
その輩はオブジェとして家に飾って、自分の技の出来栄えに見惚れていたかもしれない。
それを見た他の人もこぞってカッコよさを競い合い、デザインに工夫を凝らしていって、そこに自分の縄がいかに他と違うかストーリーとして宗教的な意味合いが込められるようになった。

という想像が、まさにわらを束ねているオレの脳裏にパーっと浮かんできた。

そして、オレも自分でいい形に縄をしめあげたとき、つい見ていたくなるようなカッコよさを感じていることに気が付いた。

だからオレの想像通りに違いない。

だって今もなお「かっこよく作ることが大事」と96歳の爺さんが言うんだもの。

ジャレド・ダイアモンドの著作などを読めば、このしめ縄も、宗教的ストーリーに基づいてその作品の表現のためにしめ縄を作るようになった、というよりも、先に稲束のオブジェがあってあとから「しめ縄」の宗教的機能を持たされた、と考える方が自然に思う。

そんな意味のないものを先史の人類が作ってたかね、という疑問も生じるが、現代に生きる我々がまるで意味のないものに熱中することがあるように、先史の人類の行為すべてがただ生き延びるためだけの機能的な行為であったとは考えられない。

逆に言えば、しめ縄の目的そのものが「カッコいいから作る」でなければ、どんなに崇められてもとうの昔に廃れていたのではないだろうか。

いやこれはオレの体感的なインスピレーションに基づいているので、そうに違いない。

しめ縄のルーツについて何か知っている方があればぜひご教示いただきたい。

ということで、しめ縄づくりも現代的な頭で意味を考えてやろうとすると、いつしか義務感になって面倒になることは目に見えている。
単純に、自分の育てた稲わらでカッコよくしめ縄を綯えるようになったら暮らし方としてカッコいいではないか。

意味は頭で考えるけど、カッコよさは体感だ。
そのカッコよさを感じられた今、来年も綯ってみせる、という気持ちでいられるのは、成長と呼べるだろうか。
少なくとも爺さんは「カッコよく作りたい」というモチベーションで1世紀近くしめ縄を作り続けてきた点で、サスティナブルを体現している。

これは暮らし全般にも通じる話だ。
カッコよく暮らす。とはいっても他人を意識したカッコよさや、モノに頼ったカッコよさでなく、1日1日やれることをやり切ったときに自分の中に感じる凛としたカッコよさ。
歳をとってもいい加減にならず誇りをもってコツコツと毎日の暮らしを整えている爺さんは、問答無用でカッコいい。
そんな「カッコいい自分」を育てあげていくための材料に田舎暮らしは事欠かない。

わらを締め上げている自分のカッコよさを感じたくなった人は、ぜひうちで体験してみると良い。

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