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大きくも小さくもない動画コンテンツ
昨年から、滋賀県にある「琵琶湖博物館」の動画コンテンツ制作を、演出ディレクターとしてお手伝いしています。
琵琶湖にまつわる「弥生土器」や「外来植物」といった歴史や自然、それを研究している学芸員の想いや成果を紹介しています。
しかし、いくらわかりやすく伝えようとしても、こうしたマイナーでニッチなネタに興味を持ってくれる大衆は一般的には多くなく、数字も稼げない。
琵琶博さんは県の事業なので、こうした地道な活動にも予算をそれなりに割けているのかもしれませんが、民間や非営利、少人数での活動だと、やはりお金の問題があります。
活字であれば、特定のテーマを掲げたWebメディアやnoteがあり、広告モデルで小さく始めて、将来的に課金による収益化を目指すことも可能です。ただし今年に入ってWebメディアの閉鎖も相次いでいます。
一方で動画を手段とする場合、テレビよりも参入障壁が小さく、YouTubeよりも簡単に、独自に収益化でき、それなりに視聴者を集められる「中間のメディア」がない。
テレビは広告主に都合が良く、YouTubeなどの動画配信サービスは視聴者に都合が良いようにラインナップされ、どちらもマスのニーズに寄ってしまう。中間のメディアとは、雑誌や本屋のような、作り手や売り手の思想で編集されたコンテンツが集まる場をイメージしています。
(『暮らしの手帖』創刊者の)花森が言っていたと言われているのが「誌面を隅々まで自分の好きなように美しくつくりたい」。広告が「汚い」という意味ではないです。とはいえ、広告が入ると、全てを意のままにすることも難しくなる。そういうものなしで、全部イチから、表紙から最後まで読者のためだけにつくれるのは、いい環境だと思いますね。
近年、新興のスタートアップや個人が続々と動画制作に参入していますが、業界の分業構造や会社の競争、クリエイターの育成コストを考えると、手がけられるコンテンツのほとんどは、広告要素のあるものかYouTuber的なものになってしまう。それではできることが偏り、スケールを大きくすることが難しい。
『笑える革命』の著者で、元NHKのプロデューサーの小国士郎さんが手がけた企画に「注文をまちがえる料理店」や「レインボー風呂ジェクト」といった、社会課題にアプローチした試みがあります。
映像化が目的ではないですが、「素人の違和感」を起点とした企画の広げ方は、福祉や社会課題など、マイナーな番組制作に強いNHKでの経験が原体験になっています。
最近子供が産まれて、幼児向けの番組を観る機会も増えました。一方でゴールデン帯の番組やYouTubeの動画を一通り観てても「似たり寄ったり」な印象は否めない。
視聴率のために高齢者や子供向けの番組が減らされ、短尺でわかりやすい動画しかウケない。しかしそれは作り手にとっても受け手にとっても、将来的に大きな損失になるような気がします。
ただそういったコンテンツで、持続可能な程度の収益を出すには、パトロンがいない限り難しそうですが、将来的に何らかの形できればいいなと考えています。
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"理想と現実"を両立させる経済の形を、カフェの経営で挑戦している影山知明氏の著書にある、この言葉の重みを強く感じています。
このままいくと、極端に大きなものか、極端に小さなものしか、生き残れなくなるだろうなと思う。経済でいえば、合理性や効率性をつきつめた大企業か、そうした大企業との競争から離れ、自分自身の生活費が稼げればいいというような個人か。
(中略)
極端に大きくはなく、極端に小さくもない。そういう中途半端な存在が、システム合理性からは一番遠いものだ。
今の作品たちは「傑作」になるために必要な受け手とのコール&レスポンスを形成する余裕はなく、次から次へと消費され消えていく宿命と向き合わなければならない。
(中略)
僕らは、先祖が残してくれた「アンティーク」を消費するばかりで、次の世代の「アンティーク」を残すことをしていない。いつか僕らは、後世の人々から「アンティークの谷間の世代」と呼ばれるのかもしれない。
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