チェスをする女 「開かれた」物語の方法

ある集団を前にしたとき、
その共通点へ向かう視点と、差異へ向かう視点がある。

小説で言えば、お互いに理解できない価値観や、まったく異なる
生い立ちをもった人びとの間で生じる、大小のドラマを描いたもの、
が後者にあたるが、わたしは、この手の「開かれた」物語に、強く惹かれる。

『チェスをする女』は、ギリシャの田舎にある観光地で、
ホテルの客室係を勤めるエレニという中年女性が、ふとしたきっかけで、
チェスにのめり込むが、家族や町の人々の理解を得られず、
そのすれ違いが、いくつかの、傍目からは些細なドラマを引き起こす話、である。

全体を振り返ると、
「ただチェスをしたかっただけなのに」の一言なのだが、
その思いが、実に様々なドラマを、含んでいるのである。

先に、「開かれた」という言葉を使ったが、『チェスをする女』において、
登場人物は、結末ありきで、物語を進めるための駒、ではなく、

ひとりひとりは、ただ本能のままに行動しているのが、
化学反応のようにして、
たまたま、ある結果に行き着いた、という印象を与えるのである。

ひとつ、何かが違っただけで、まったく違う結果になり得た、
そういう意味での、「開かれた」物語なのである。

その辺りは、チェスの本質と、
相通ずる部分が、あるのかもしれない。

ルール上、チェスの駒は、定められた動きしか、とることができない。
現実においても、習慣から、そのように振る舞うひとは、多い。

一方、作中において、その硬直を破るのが、
土着的なコミュニティの外からやってきた人物、というのも、また面白い。

そして、今ひとつ、物語のなかで際立つ要素が、
田舎の平凡な主婦、エレニがみせる、意志の固さである。
エレニは、その点では、非凡な女性なのである。

その特質が、一方では、チェスの実践に活かされ、
また他方では、ひとりの女性の秘められた勇敢さ、に様変りして、
物語を進める原動力となっている。

エレニ自身、チェスの展開において、キングに比べ、
クイーンが担う、より積極的で、華麗な役割に、共感している。

「閉じた物語」「開かれた物語」という観点で言えば、わたしは、
現実は常に、「開かれた物語」である、あるいは、あるべきだと思っている。

その方が、より自然であるし、何より、
何かと何かの差(異)、その思いがけない出会いからしか、
本当に新しいものは、生まれてこないように思うからだ。

行き過ぎた予定調和は、想像力を削ぎ落とし、
創造の芽を、それが芽吹く前に、摘み取ってしまう。

とはいえ、ひとが「開かれた」現実に立ち向かうには、
エレニが見せたような、ちょっとした勇気や大胆さが必要だ。

白紙の盤面に、コマをひとつ、進める。
その先に、何が待ち受けているかは、やってみるまで分からない。
そうして、新しい展開に身を委ね、時に勝負をかける。

『チェスをする女』において、
物語が「開かれた」展開を始めた根っこには、ひとりの女性の、
「チェスを続けたい」という、ごくありふれた思いがあったことを考えると、

そこには、作者からの(クイーンへの言及を含めて)、
「自身のささやかな意志を尊重すること」、「その先の展開を信頼すること」
への、密かなエールが、込められているのかもしれない。

『チェスをする女』
ベルティーナ・ヘンリヒス著、中井珠子訳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?