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副業がきっかけで広がった 本業とは全く別の世界

18年前から約13年半、副業として首都圏のウェディングチャペルで結婚式の聖歌隊をやっていました。

会社員の副業がまだ一般的でなかった頃で、広報PRの仕事をしながら、週末の空き時間を利用して仕事を入れていました。

きっかけは、総合職の試験に落ちたからです。

しかしこの副業がきっかけでオペラの勉強を本格的にするようになり、歌い手として活動したり、色んな出会いがあったり。副業はその後の私の運命を変える大きなきっかけとなりました。

あのとき順調に試験に受かっていたら、もちろん副業なんて考えもしなかっただろうし、オペラなんかやらなかったし、普通に昇格して今現在も新卒で入社した会社にいたかもしれない。出会うひとも今とは全然違っていて、たぶん夫にも出会っていなかったでしょう。

ここでは、副業がいかに私の人生を変えたかについて書いていきます。

1.試験に落ちて、オリジナルの生き方をしようと決意

当時の総合職職掌変更試験は、SPIと面接。会社の業績がまだそれほどよくなかった時期で、落とすための試験と言われていました。それでも受かる人は受かっているわけで、落ちた人はただ、努力が足りなかっただけなのです。私は、面接の評価はよくてもSPIの点数がほんのわずか足りなくて落ちました。

しかしその頃すでに私は、年に4回以上の記者会見を仕切り、メディアセミナーの企画運営もこなし、各社広報担当者が集まる外部の懇親会では、口下手な上司に代わり会社の代表としてスピーチをするなど、それなりに責任も持たされていました。それをSPIの点数がほんの少し足りなかっただけで落とされたのでした。

当時すでに30歳を超えていた私は、年齢不相応で中途半端なキャリアにものすごく物足りなさと情けなさを感じていました。転職も考えたのですが、私が出した答えは「会社員としてだけじゃなく別の顔を持つ、オリジナルの生き方をしよう」ということでした。


2.音楽の楽しさを再発見

まもなくして学生時代の友人から、母校の国立音楽大学が毎年開催している社会人向けの夏期講習会の合唱指導講座に誘われました。指導者向けとは言うものの、合唱愛好家も気軽に参加しているので、いい気分転換になるのでは、ということでした。

有給休暇を取って、4日間、母校に通いました。

卒業後は普通の会社員になったこともあり、音楽からは随分離れた生活をしていましたが、久しぶりに母校のホールで朝から夕方までひたすら全身を使って歌い、歌うことってこんなに楽しかったっけ、ととても新鮮な気持ちになりました。学生時代はピアノよりも歌うことが好きでしたが、この4日間で歌うことへの興味が湧いてきました。

でもアマチュアの合唱団に入ることが自分であまりピンと来ず、考えたのは、友人や先輩がよくやっていた結婚式の聖歌隊の仕事。聖歌隊なら土日の空いた時間にできるし、副業として成立するのではないか、と思ったのです。

しかし、お金をいただくからにはいい加減な気持ちでは始められない、まずは声楽を基礎から習いなおそうと、学生時代にお世話になった先生ではなく、いちから声楽の先生を探し、通いはじめて半年ほど経ってから、聖歌隊の派遣事務所のオーディションを受け、仕事を始めることとなりました。

もちろん、上司にも副業を始めることを話し、総務に正式に申請して承認を得ています。


3.職場で出会った同僚から受けた刺激

仕事は、ずっと会社員をしてきた私にとって何もかもが新鮮でした。歌う曲はひとつの式につき3曲がスタンダードでしたが、その日いきなり知らない曲をたった1度リハーサルしただけですぐ挙式ということも多々有り、なかなかの緊張感がありました。曲数は、挙式にオリジナリティーが求められ始めてから、式場によってだんだん多くなり、多い式場では6曲歌うところもありました。

始めた頃は、仕事を早く覚えるため、そして戦力として認めてほしくて土日どちらも働いていました。休みのない毎日でしたが、副業はいい気分転換にもなりましたし、本業と全く違う世界に身を置くことが楽しくて仕方ありませんでした。しかし、体調不良で急に休むことが絶対に許されない世界。少々無理してでも休みなくこなしていた結果、半年後見事に体調を崩しました。

朝起きて鏡を見たら顔が発疹だらけ。全身も。皮膚科に行って看てもらったら頭にも舌にも。。。ウイルス性の発疹ということで1週間、休まざるを得なくなってしまいました。それから、副業は週に1度、土曜日か日曜日のみとし、ひとが足りないなどの要請があったときのみ増やすことにしました。

聖歌隊のメンバーは、日本を代表するオペラ団体である二期会、藤原歌劇団、新国立劇場をはじめどこかのオペラ団体で活動しているひとや、それぞれの研修所に通っているひと。また音楽教室で教えているひとなど、歌い手を本業にしているひとがほとんどでした。また、メジャーなコンクールで上位に入賞したり、海外に長期で留学するひともいました。自分は副業ですが、お客様、取引先様から見ればこういう方々と同じプロの歌い手。その責任の重さを感じながら日々仕事をしていました。

こうしたみなさんから刺激を受けるうちにだんだん「もっと上手くなりたい」「演奏会の舞台に立ちたい」と思うようになり、聖歌隊の仕事を始めるようになってから5年半後、ある音楽事務所のオーディションを受け、そこに所属する歌い手として活動することとなりました。


4.総合職の試験に受かったことで演奏活動や研鑽もスムーズに

所属していた音楽事務所は、トリフォニーホール、オペラシティ、サントリーホールなど、有名なホールで歌える機会を与えてくれましたが、ギャラがもらえるわけではありません。逆に相応のチケットノルマを持たされ、ノルマをこなせば自分の持分はプラスになりますが、こなさなければその分持ち出しが多くなり、正直言って常に赤字でした。演奏会に出演するには伴奏していただくピアニストに謝礼も払いますし、師匠へのレッスン代もかかります。最初の頃はドレスも持っていなかったので、本番の度に新しいドレスを買っていました。

しかし実はその数年前、会社の業績が良くなったことで「すでに総合職相当の仕事をしている女性社員は総合職に職掌変更させよう」という会社の方針が決まり、追い風ムードで私は難なく総合職の試験に受かり、さらに翌年には昇格して給料も急に上がっていました。聖歌隊の副業は無理のない範囲で続けていたので、私は遠慮なく給料を音楽に投資することができました。


5.オペラ歌手としての活動

何度かジョイントコンサートで歌わせてもらうことになった頃、知人のピアニストから、イタリアのマントヴァで指導している先生(日本人女性)をご紹介いただきました。先生の指導はなかなか厳しいものでしたが、そこですすめられたのはフランスオペラ。フランスオペラは1曲くらいしか知らなかったので、聖歌隊の同僚に東京でフランス音楽の専門家を紹介してもらい、門を叩きました。それからマントヴァには年に1度、語学学校でイタリア語を学びながら発声を中心としたレッスンを受けに通うようになり、東京ではフランスオペラの師匠のところに通うことになりました。フランスオペラの師匠のところに通い始めてからはほぼ毎年、年に2回、フランスオペラのハイライト公演に出演させていただいています(今年はコロナの影響で公演は延期)。また、小さいオペラ団体の研究所にも通い、ここでも「ラ・ボエーム」や「椿姫」といった有名なイタリアオペラを勉強させていただく機会を得て、そのご縁で中規模のオペラシリーズで「アドリアーナ・ルクヴルール」にも出演させて頂くことにもなりました。

その他、研究所やコンサートで知り合った歌い手と、横のつながりもあり、共同企画で自主公演をやったり、仕事に支障をきたさない範囲で活動を続けています。

その後マンションの購入や転勤などで、マントヴァへのレッスン通いは不可能になってしまいました。転職したことで聖歌隊の副業も辞めざるを得なくなりました。しかし、副業時代の人脈は生きていて、知り合った歌い手とは現在もSNSのおかげで付き合いを続けており、変わらず彼らから刺激を受け続けています。またフランスオペラはそれからずっと私のメインのレパートリーとなっており、現在も研鑽を続けています。

イタリアでのことやフランスオペラのことは、いつか機会があれば書いてみたいと思います。


6.副業きっかけで広がった新たな世界、そして今後

このように、最初は総合職の試験に落ちたというマイナスの要素がきっかけで副業をはじめたわけですが、副業によって、会社員をやっているだけでは出会えなかった方々と出会い、経験し、自分の中に潜在的にあった「やりたいこと」がむくむく成長し、出会った人達からさまざまなご縁をいただき、そのご縁に積極的に乗っかって行動してきたことで今の私があります。

副業をしようと決めたことは、自分の人生において本当に大きな転機だったのだと思います。

今、また新たな勉強をはじめました。これが新たな副業になるのか、それともキャリアチェンジの序章になるのかはわかりませんが、前回の副業のときとはまた違う「やりたいこと」がむくむく成長しています。新たな展開がとても楽しみです。





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