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cakes騒動から考える、発信することの意味について

「消えるかもしれないのに、発信する意味ある?」
有料記事コンテンツの配信サイトcakesのサービス終了を知ってそんなことを思い、ここ最近noteに限らず発信活動をすることに対しても億劫になっていました。

cakesといえばnoteが配信するコンテンツサービス。今noteに書いている記事も、いつかはcakesの様に消えるかもしれません。ましてや、noteには記事のエクスポート機能もない。消えてしまうことがわかっても記事をよそへ避難させる術もないんです。
いつの日か急に消えてしまうかもしれないものを作る意味は、果たしてあるのでしょうか?

結論から言うと、それでも書くべきだと僕は思います。

そもそも、何のために?

記事を書くこと。絵を描くこと。Podcast配信をすること。共通する目的は頭の中で絡み合った思考の糸をほどき、ひとつの表現としてまとめることだと思います。
思考をシンプルにすることとは、言い換えればパズルや知恵の輪を解くことに近いかもしれません。達成したパズルが無くなったからといって、今までの努力が水の泡だと嘆くのでしょうか?否、今のパズルが終わったらもっと難しいパズルに挑戦したいと感じるはずです。

つまり、お金や地位のために発信活動をするのではなく、発信という行動を達成するために、発信をしたいんです。
結果としてお金や評価といった副産物が生まれたとしても、元々の目的を忘れちゃいけない。アクセス数やコンバージョンに左右されて「より多くの人に読ませるため」に発信活動をするなんてのはもっての他です。(僕自身もその罠に陥りがち)

既に恩恵を得ていた

さらに言えば、「cakesに投稿していた記事が全て消去される?今までの苦労が水の泡だ、なんてことをしてくれたんだ」と言うのもお門違いに思えます。
なぜなら、cakesやnoteを普段から使っている時点で「多くのユーザーが利用している(=見られる機会が多い)」サイトを「無料で使える」というメリットを気づかないうちに享受しているからです。
リスクが怖いのなら自前のブログを作るべき。でもそれだとお金もかかる。無名のサイトでの集客は手間もかかる。だからnoteやcakesを選んだんですよね?納得して選んだ結果なのだから、文句を言っても仕方がないのかなぁと。

書くことが救いになっている

そして、こうしてnoteを書いていて思うのは「発信をしている時は他のことに捉われず自由に、思うがままに表現ができる」ということ。これまでにインプットした知識・情報・思想をこうして自由に垂れ流せるのは純粋に楽しい。
アウトプットの場が無いというのは、いくら食べても便が出ない便秘状態に等しいと言っても過言じゃありません。

残るかどうか気にしなくていい

以上の理由から、noteに書いた記事コンテンツがcakesの様に消えてしまっても構いません。noteに記事を書くこと、Podcastに音声を配信すること自体が行動の目的だから。解いたパズルは残っても残らなくても良いし、僕は食べた分だけ出すことができればそれで十分です。
出したあとのことは考えずに、まずは捻り出すことを今後も徹底したいと思った一件なのでした。

同じ様なことをPodcastでも話してます。僕の排泄行為(=雑談としてのアウトプット)に付き合ってくれる相方には感謝しかありません。


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