もう一人の私を探して 第1章
私は目を閉じて想像してみる。私の知らない誰かが、私の体験したことのないような場所で暮らしていることを。あるいは無謀にもこの塔から一艘の船で抜け出して何もない海をただひたすらこぎ続ける私自身の姿を・・・・・・。
「マリー、そんなところで何をしているの。早くしないとシルビアさんに叱られるわよ」
そう言ったのは私のルームメイトのテレシアだ。彼女は私と違ってコツコツを仕事をこなすタイプ。いつも同じ時間に起きて、同じ時間に眠りにつく、几帳面な人だ。私のように仕事の合間に窓の外から景色を眺めていたりはしない。
「もうちょっと。もうちょっとしたら、そっちに戻るから・・・・・・」
私はそう言いながら、見知らぬ世界についての想像を楽しむ。現実にはあり得ないようなことでも、それが私にとって唯一の楽しみなのだ。
私の仕事は、誰かの失われた記憶を一冊の本にまとめ上げることだ。手渡された名前入りの本を受け取って、その人間の過去に入り込む。私はそれを自分の目で見ながら、何も書かれていない本に文字を書き込んでいく。そうやって一冊の本を書き終えると、私の仕事はそこで終わる。
上司に手渡された本が、いったい何のために使われるのか私は知らない。ここではただの一冊の本を書き上げることだけが必要とされる。何のためにそうするのか、あるいは完成された本が何に使われているのかということは一切知らされない。そのような問いかけは神に対する冒涜で決して許されることのない行為なのだ。
私たちは朝5時に起床し、神に祈りを捧げ、その後で食事をする。そしてそれから夕方まで働き、夜の8時には眠りにつく。そして次の日には全く同じことが繰り返される。
「何のために生きているのか」、「なぜ働かなければならないのか」。そういう問いは誰も発しない。みんなただ決められた通りに淡々と仕事をこなし、毎日を過ごしていく。そのこと自体を問うということが全くないのだ。
ルームメイトのテレシアは私のそんな疑問に対して考え過ぎだという。あれこれと考えると、心に迷いが生じる。だから、そんなことをやめて、ただひたすら神に祈ればいいのだ、と。
テレシアはすごく真面目で素直で親切な人だ。私の悩みにもちゃんと付き合ってくれる。けれども、どうしてもわかり合うことができない。どうして自分の存在やその世界のことを考えようともしないのか、私には分からない。
もちろん、働くということは大切なことだ。私が住んでいるこの塔の中では、本を仕上げれば仕上げるほど、良い暮らしが出来る仕組みになっている。よく働いた者には良い部屋があてがわれ、自由な時間も与えられる。外出許可だって、その気になれば申し出ることもできるはずだ。
でも、それは決して人生の目的なんかじゃない。いい部屋に住んだり、自由な時間を過ごしたりするために、私は生まれてきたわけじゃない。それは生きるための手段であっても、目的なんかでは全然ないのだ。
私は仕事をするフリをしながらなんとかこの塔から脱出する方法を探す。見つかればただでは済まないことは分かっているが、それだけが私の唯一の希望だ。
これはあくまで噂なのだが、これまで何人もの人たちがこの塔からの脱出を試みたという。ある者は屋上から、またある者は最下層にある地下から脱出を試みた。しかし、結果は無残なものだった。その者たちはその日のうちに捕まって処分されたという。
私が思うには、おそらくこの塔は屋上からも地下からも出られないようになっている。この塔を管理する者たちが厳重に警護を固めているからだ。だから、この塔から抜け出すにはもっと別の方法が必要だ。誰もが予想すらしないような画期的な方法・・・・・・。
今私の頭の中にあるのは、本を書いているときのことだ。私たちは本を書くときに現実の世界から遊離し、他人の過去の中に入り込む。そこはその人しから知り得ない個人的な世界になっている。簡単に言えば、その人が現実の世界で見たり聞いたりしたものを素材にして出来上がっている世界だといえばいいのだろうか。とにかく、本当の現実世界とはちょっと違っている。私たちはそこから本人すら思い出すことができない記憶の断片を探し出して、それを漏らさずに記述する。
それを書き上げれば、そこで仕事は終了となる。だが、ある噂によると、私たちが見る他人の記憶には、実は本当の現実がそっくりそのまま含まれているという。いや、もっと正確にいえば、その人の記憶の中の世界が現実であり、私たちがいる世界が非現実世界なのだという。
そんなおかしなことがあるわけがないだろうと私は思うのだが、もしその話が本当なら、この塔から脱出するヒントになるかもしれないと思ったりもする。
「他人の記憶の中に、自分の本当の現実の世界が隠されている」
そんなあり得ない空想のような話をほんの少し信じてみようと思うようになったのは、ついこの間、私に奇妙な出来事が起こったからだった。
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