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リトリート参加の振り返り①

今週は月曜の夜から土曜の未明まで、5日間のリトリートに参加していました。2年ぶりアメリカに行く予定が、急遽オンラインでの実施となりましたが、このリトリートの中でいくつもの発見が線になっていく感覚があったので、メモしておこうと思います。

写真は、昨年実施したワークショップの会場

雑考① 静寂(silence)について

ピーター先生がいつも言うように、西洋の文化において、静寂は音の「ない」状態と捉えられることが多く、実際英語を教わったときにも「hmm...」みたいな相槌(サイレンスキラーと呼ばれます!)を練習したわけですが、東洋において静寂とは、静寂が「存在する」ものと捉えられる、と。

そう。静寂、あるいは沈黙とは、これまでの文脈で語られなかった新しいものが出現するためのスペースだと思うのです。対話の場でとても大切にしたいものです。

このリトリートの中では、Day 3開始から24時間、全員が静寂の中で過ごすことが宿題でした。ぼくはあいにく半年前から決まっていた予定があって19時間程度で沈黙を破らざるを得なくなったのですが、少し思うところがありDay 4終了後も続けて24時間、静寂の時間を取ることにしました。

家族と二言三言をやり取りした以外は、言葉を発せず、ケータイから情報に触れる時間も最小限にとどめて(ご迷惑おかけしました)、テレビもラジオも音楽もかけないままに1日を過ごします。

さまざまな外的刺激を遮断すると、否応なしに意識が内側に向かいます。身体感覚に目を向けていると、お皿を洗うとき、外を歩くとき、裏庭に小鳥がやってきたとき、自分に何が起きるのかを通常より解像度高くとらえることができる気がしました。

初日のあるタイミングで、たくさんの言葉を書き留めておきたい衝動に駆られました。メールやメッセンジャーなど、通知のたびに思考を停止させるものがなくなったとき、多くの思考が言葉としての輪郭を表し始めたのでした。

2日目、感覚が鋭くなったままの状態で、ふとこれは「話さない」練習ではなくて、「静寂の中に自分を置く」練習だったことに気づき、ふと思い出したのが、昨年のリトリートで経験したジェレミー・ハンターさんの「静寂を探す」ワークです。

ジェレミーさんの書籍

意図的に探してみると、静寂はあらゆる場所に存在します。リビングでくつろいでいると、いろいろな音が聞こえます。近所の工事の音、カラスやメジロやシジュウカラの声、木々が風で揺れる音、空気清浄機や水道の水など。

そして、音がしている場所以外に注意を向ければ、音がしていない場所があります。そして、音の生まれる前にも音がやんだ後にも、静寂が存在しています。もっと言えば、あらゆる音の切れ間に静寂が存在することに気づくのです。

雑踏の中にも静寂は存在していて、鎌倉の小町通りを歩いていても、ふとした瞬間に足音や声が途切れたり、通りのにぎやかさと対照的に一本脇に入ると静かなたたずまいの場所があったり。音楽は、静寂(休符)がなければ音楽になり得ないのです。これに気づいたのは、スーパーのBGMに静寂を探しているときでした。

※余談ですが、システム思考を身に着けていこうと思うなら、ついつい注意を向けがちな「目に見えて動いているもの」「急に変化して注意を引き付けるもの」だけでなく、「より見えにくい動き」や「一見すれば変わっていないもの」に意識を向けられるように日々実践していくことが大切だと思っています。見えてくるものがぐっと増えます。

マサチューセッツ州にあるウォルデン・ポンド

何はともあれ。静寂探しをしながら歩いていると、もう一つ大きな気づきがありました。

スーパーのざわざわした空気や、夕暮れ時の車の音の中にも静寂を見つけて、そこに意識を向けるとき、ぼく自身の意識の一部もまた、静寂の中にあるのです。つまり、「ああ、あの場所、この習慣は静かだなあ」と考えている頭の中は、ほかの部分よりも静かなのです。外の世界に静寂を見つけるとき、ぼくらは自分の内側に静寂を見つけることができます。

通常、身体や意識のほとんどは、環境条件(特に急な変化)への反射的な対応に忙しいのですが、意図的に静寂に向けられた意識の一部だけは、静寂の中にいられるのです。

そして、静寂とはつまり、これまでの習慣や文脈とは違った、新しいものが現われてくる可能性です。習慣的な反応に忙しいとき、新しいものが生まれるスペースはありません。一度立ち止まり、スペースを創ることで、出現したがっているものが姿を現す可能性が生まれます。ぼくらは、その可能性を自分の内側に作ることができるのです。

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