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“今ここ”にいない人にエネルギーを注がなくていい

先日あった取材・撮影のときのこと。
よろしくお願いしま〜すの挨拶もそこそこに、取材先の広報さんはすぐにパソコンに向き合った。急ぎの用事だったのかもしれない。でも目の前で大事な自分の会社の商品の撮影が行われているのだが。違和感を覚えながらも撮影を開始した。 

だいぶ撮影が進んだ頃、その人は思いついたように撮影していた商品を見て「レタスの位置がちょっと…」と言って直し始めた。さっき別の商品でも同じようにレタスが配置されていたけど、そっちはいいのか? ディレクター的にOKな配置で画面に収まっていたから、あえてそのことについて触れずに撮影を終えた。一言でいうと、流した。


取材撮影で多くの人に会うが、本当に色んな人がいる。以前は取材を円滑に終えたくて、場を和やかな雰囲気にしていたくて、私はその場にいる人すべてに気を遣っていた。たとえその人がその場に集中していなかったり、ちょっと不機嫌そうな顔をしていたら、気になって、なんとかしようとしていた。ありったけのエネルギーを注いで、帰りの電車は立ち上がれないくらいグッタリした。

仕事などで家から離れているときには家族を思い、どうしているか心配していた。編集した映像データを送ってそれを観るであろう上司の顔色が気になって、連絡が来るまでそわそわしていた。SNS投稿の反応に一喜一憂してしていた。

なんであんなに「今ここ」にいない人のことを気にしていたんだろう。



電車に乗っていて、そこにいる人たちは確かに目の前のスクリーンに映ってはいるが、それぞれの意識はスマホの中だったりして「今ここ」にはいない。つまり私に何の影響ももたらさない。

仕事場でそれぞれがそれぞれのことをやっていて、そのときどんな表情をしていようが、どんな態度でいようが、それはその人のものであって、自分には関係ない。

出張などで家族と離れていて、その間、彼らがどんな状態で、どんなことを思って過ごしていたとしても、それは彼らのものであって、私が気にすることではない。どんなに思いを馳せようが、そこは彼らそれぞれのマルチバース(一人一人の認識宇宙)だ。いま私のスクリーンに映っていないなら、「今ここ」の私には必要がないから映っていないだけなのだ。


人のマルチバースに気をとらわれるのはエネルギーの浪費。人生の無駄づかい。

このことを覚えて「疲れ果てる」ということがなくなったから、一つの正解なのかなと思っている。



もし今、かつての私のように疲れ果てている人がいたら、あるいは人のマルチバースを気にし過ぎている側面があるかもしれない。そういう目線で日々を見つめてみてはどうだろう。

少なくとも私は生きるのが楽になった。


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