【エッセイ】さよなら、A面至上主義
なんでこの曲をA面にしなかったのか…
この聞き覚えのある台詞はドラマや映画ではなく日常生活で古来より用いられていた。(大袈裟)
この台詞の持つ意味は意外と単純ではない。
なんでこの曲をA面にしなかったのか発言が起こる状況とは…
まずシンプルにB面の方が出来がよく魅力的だと発言者本人とその他大多数の意見が一致する時。
他にはA面では売れなかったがアルバム収録された後B面に火が点いて時間差でヒットする場合。
等々…
と、まぁ、聴衆はやんややんやと騒ぐのだが…ここで一言
おこがましい
のである。
楽曲制作にはコンセプトというものが本来ならあって然るべきという前提のもと、クリエイター側の譲れない世界が込められているはずなのだ。
だが、全てが一言で説明できるようなことではないことも想像できる人にはできるのだ。
たがいを高め合う対の存在が表面、裏面、すなわちA面、B面という概念にたどりつく。
例えば中森明菜さんの「DESIRE−情熱−」
直前まではB面の「LA BOHEME」が元々はA面で制作側で話は進んでいたそうだ。
それを最後の最後で明菜さんが「DESIRE」をA面に変更しようと働きかけたという話は有名である。
着物で歌う為には「DESIRE」だった。深読みはいくつかあれど、明菜さんの純粋な希望だった、それだけのことなのだと思う。
そして「DESIRE」は86年のレコード大賞を受賞。女性としては初の2年連続レコード大賞受賞という前代未聞の記録を残した。
だが、「LA BOHEME」もそのクオリティーの高さに聴くものは驚嘆し大絶賛を浴びた良曲であった。
個人的にどちらであってもレコード大賞は受賞できていたと思う。
素人がこっちがA面だろ、とか、いやB面で正解だったとか、虚しい水掛け論である。
当時は歌番組が沢山あったので明菜さんはA面の「DESIRE」ではなく、このB面の「LA BOHEME」も色んな番組で歌っていた。
そのどちらもおかっぱウィッグで衣装は使い分けて歌っていた。(自分は当時3才だったので記憶にはないが…)
まだ、当時は歌う曲を選べる余裕があったと思う。今は歌番組自体が壊滅的に少ない。アーティストはこれを!という推したい新曲しか選択肢がない。
もっと幅のあるアーティストの顔を見てみたいのにそれも叶わない令和の歌番組事情。
歌い分ける一枚のレコードの世界観。
今ではそんな楽しませ方のできる場さえ歌手に与えられない寂しい時代になってしまった…。
また例えに明菜さんを出させてもらうが「難破船」のB面「恋路」
この恋路は悲しみの最果てで海の底へ沈めてしまいたいA面とは違い距離は遠く離れていても心の距離はいつも繋がって変わらないという願いのこもった歌(それでも危うくて切ない恋の歌)である。
前奏から感情の底から湧き上がる想いが海辺の輝く砂のように美しい。
でも、どちらも波の音をイメージしてしまう。
果てしなくつづく水平線。海だ。
これは難破船に続いて聴く歌として世界線が自然に移行できる。
A面とB面の存在意義と関係性が如実に表れた一枚であった。
アルバムが長編小説ならシングルは短編小説みたいなものなのかもしれない。
A面至上主義と表現したが、結局は中森明菜さんの曲作り、歌に対する姿勢、向き合い方、ファンへ、聴く人への真摯さを軸にそもそもA面って何だよと考えたかっただけなのだ。
これで清々しくさよならできる。
今まで縛られてきた負う必要などなかったB面への負い目と。
さよなら、A面至上主義。