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ナンシーさんと松尾貴史さん

『信仰の現場~すっとこどっこいにヨロシク~/ナンシー関』は私の頓服的文庫本である。

「よっ」がいかしてる


遂に最後のガラケー所有者になっていた。
当時の職場の昼休憩に誰もがスマホやタブレットでゲームをしたりネットショッピングでポチりあっていたりする中、たった一人のガラケー(自分)は超ハイテク便利機能ワンセグでドラマ『やすらぎの郷』を観ていた。
そうそう、地上波ドラマでタバコ吸ったっていいじゃないか。さすが倉本聰先生。コンプライアンスにひと睨み。加賀まりこさん、お美しい…。常盤貴子さん、この中では若手の位置だ…。などなど。どっぷりはまっていた。
そんなルーティンと化していたドラマも無事最終回を迎えると手持ち無沙汰となってしまった私は鞄に文庫本を携帯するようになった。
国木田独歩の武蔵野は時を経ても読み進められず断念。
やっぱり読み親しんだものを持ち歩こうとMyナンシー関コレクションから迷って選んだのがこの一冊だった。

タイトルの「信仰」というワードにひるまないでいただきたい。

信じてなんら不思議ではない当たり前を前にしたナンシーさんが隙のない観察眼で「ほんとか?」と斬り込む痛快ルポエッセイなのである。

スマホアプリで見逃し配信など存在しなかった時代。テレビを何台も自宅に置きオンタイムで視聴出来なかった番組はビデオ録画して後からチェックするそんな決してお世辞にも健康的な生活ではない生活を送っていたナンシーさん。40歳という若さで逝去された理由もそんな全力で真剣にブラウン管を通した社会と向き合っていたからなのかもしれません。ナンシー関は唯一無二で、何か頼りたくなった時に心で訴えかける「ナンシーさんが生きていたら…どう言葉にするだろう」

この一冊はそんなナンシーさんが珍しく現場に自ら赴いて取材したとてもレアな一冊なのだ。
しかもどの話も捨てるとこなし。あなたもわたしもなんらかのすっとこどっこいに分類されることをいやでも認めさせられる。が、嫌ではない。それはナンシーさんの殺陣が上手いからだと思う。スパッと斬ってくれると痛みを感じないと耳にしたことがある。剣豪で文豪のナンシーさん。大谷翔平選手よりずっとはやくに二刀流だった。

そしてこの本の解説はこれまた多才な松尾貴史さん。
ナンシーさんの解説は竹中直人さんや宮部みゆきさん、リリー・フランキーさんととにかく豪華な著名人ばかり。
そこで松尾さんの解説はとてもナンシーさんに寄り添っていて愛を感じられた。読みやすく散りばめられた小ネタや笑いどころはナンシーイズムを感じてしまう。それがナンシー好きにはたまらなく嬉しいのだ。松尾さんも本当にナンシーさんが好きだったんだと。
私もナンシーさんのような文章が書けたらなと身の程知らずな夢を抱くことがあったし今もまだあったりする。到底無理な話だと逆立ちしたって無理なのは重々承知している。
でも松尾さんはナンシーさんと「近いものでありたい」と感じたのかもしれないと記されている。(207頁参照)
私もそうだとすとんと落ちた。

令和の今流行語に「知らんけど」があったが松尾さんはこの解説でも知らんけど。と、さらっと用いておられる。これは実にナンシーなのだ。トホホとナンシーさんは捨て台詞のように多用した。
そして私も真似、いや、オマージュとしてトホホを使いがち、いや、使わせてもらってる。

ナンシーさんのカラオケの十八番「白い蝶のサンバ」を松尾さんは生で聴いたことがあるのだなーと、なんともうらやましかった。
毒舌だの悪口だので一括りにされていたナンシーさんの批評を芸だと仰ってくださっている松尾さんに激しく共感と親しみを覚えた。

あの頃、職場の昼休憩中、誰もが俯きブルーライトで顔をライトアップしていた。
私は何度もこの本を開いて今日は寅さん神話、今日は宝くじ抽選会…と、頁をめくっていた。
ローテーションで何度も楽しる奇跡の一冊。
どんなに寒い冬もこの一冊が温めてくれた。
どんなに暑い夏もこの一冊が涼を与えてくれた。
そして毎回「でももうナンシーさんはいないんだよな…」とどうしようもない現実にふっと寂しくなるのだった。


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