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【詩小説】人魚の子

私が人魚だった頃
私は海の中を
たったひとりで
泳いでいました。


ハミングが遠のいていく。
いつも同じ声が木霊して。
海月が天に召されるような
あぶくがわきあがる。
私は追いつけないとわかっているのに
海の中を泳いで手を伸ばしている。


ここ最近は毎晩のように同じ夢をみる。
目を覚ますとタオルケットは足に絡まり、扇風機が首を左右に振って回っている。
生ぬるい風が汗で額にくっついた前髪を糊付けする。
手のひらで額の汗を拭う。
時計に目をやればまだ午前3時半にもなっていない時刻。
明日は、といっても日付けはもう既に今日だが、息子の幼稚園のバス遠足の日だ。
私は朝5時に起きて弁当を作り6時には息子を起こし身支度を整えさせバスの酔い止めを飲ませ7時に幼稚園まで送っていかなければならない。
ここ最近の夏は時間が前倒しなのだ。
数十年前なら12時にお昼ご飯の時間を設けてくれていたが、もう今では正午の気温が高すぎてなるべく午前中の比較的過ごしやすい気温の中で昼を済ませてしまいたいという引率の教諭と保護者の要望が合致して朝7時という早い出発時間になったのだ。

人間になって思うのは大人も鬼ごっこをするということだ。
責任という呪いを背負った鬼にタッチされないように血眼で鼻息荒く本気で逃げる。
中には木のてっぺんまで登って隠れる者もいる。
私は木登りが出来ない。
だから地上で右往左往している。

私は人間になってから二足で歩くことを覚え、慣れてくると走る練習をした。
だが、どうしても海での感覚が抜けず片足を交互に出すという繰り返しに頭が追いつけず両足を揃えてしまうことがある。
20歳で人魚から人間になって10年経った今でも克服出来ていない。
幼稚園の運動会で保護者参加のリレーがあった時も案の定、そうなってしまったのだ。
すると、走り幅跳びじゃないのだからと周りのママ友や見ず知らずの大人やこどもらに笑われる始末。
息子は終始俯いていた。
とても恥ずかしい思いをさせてしまったことをなんでもない時に思い出しては心の中で謝罪している。例えばそれは公園のブランコでこんなに勢いよく乗れたよと自慢気に私を呼んだ後の息子の素に戻っていく表情を垣間見た時の一瞬。かまいたちのように目に追えない速さで懺悔の記憶が頭を横切るのだ。

私はしばらく首をゆっくり振る扇風機をぼーっと眺めていた。
そして、隣で寝ている息子をみた。
私より汗だくで蛙が仰向けになった体勢でぐっすり眠っていた。
私は枕に敷いてあったハンドタオルで息子の額や首周りの汗を拭ってやった。

そうこうしているうちに、二度寝は選択肢から外れていった。
寝付ける自信も気力もない。
今日という一日が長くて辛いことになるだろう。
とにかく今はただ、隣で眠る息子を起こさぬように、冷たい水に浸かりたかった。

風呂場の青い蛇口をひねる。
ドドッと勢いよく水が出る。
パチパチと浴槽に当たってはじく水しぶき。
少しずつ上昇してくる水位を眺めながら私は夢のつづきを考えていた。

私は海の中を勢いよく泳いでどこへ行こうとしていたのだろう。何がしたかったのだろう。
私はなぜ、人間になんかなったのだろう…。

人間で賑わう夏の海で人魚だった私は岩影から海岸をみていた。
親からは人間に近づくなと何度も叱られたが、私は一年で決まって人であふれる夏という季節に関心を抱いていた。こぞって肌を露出した人間たちが大人も構わずはしゃいで騒いでいた。人間とは必要以上に着飾る難しい生き物だと教えられていたから尚更夏の露で無防備なその姿に生まれて20年の人魚の私はどんなに叱られようとその様を見ずにはいられなかった。

あまりにも夢中になっていた私は岩場の裏から近づいてくる気配に気がつかなかった。

「あ」

背後から若い男の声がした。
私は言葉も出ずゆっくり振り向いた。
私はゴムボートに乗った一人の青年と目が合ってしまった。
沈黙がしばらくつづいた。

彼は私の姿を何度も確かめるようにみた。
「君、もしかして人魚姫?」

意外だった。
あまりにもあっけらかんと淡々としていた。
人魚の私をみて驚かず声もうわずることなく落ち着いた様子で彼は私に尋ねたのだ。
「姫じゃないけど。人魚です」
私は人間と会話をかわしてしまった。
生まれてはじめてのことだった。
両親も祖父母もその祖父母の祖父母だって人間とは話したことはなかった。
私は人間と話せた喜びで両親のお叱りなんぞ忘れてどうでもよくなっていた。
心から楽しかったのだ。
彼もまた、人魚の私に興味を…いや、はじめはほんの少し好奇心はあったのかもしれないが、彼はとても不思議な人で、人魚の私を人間とかわりなく、というよりもあれはもうひとりの人間として接してくれていた。
「明日もここに来てくれる?」
彼は毎回別れ際になると私にこう聞いてきた。
彼は大学で夏の間はゼミがなんとかって、よくわからなかったけど、この海の村に長期滞在しにきていたということだった。
私はそれ以降、彼の滞在中、毎日その岩場で彼と話をした。
彼のスマホも触らせてくれた。
指と指の間の水かきが邪魔で上手く操作出来ずはがゆかったのを今でも覚えている。

夏が終わろうとしていた。
彼もこの海の村から街へ帰る日が迫っていた。

そんな時、両親は私に何か不気味で怪しい匂いがすると言った。
それに水かきが小さくなっていることも、魚の足先が丸みをおびて尾ひれが傷みはじめていることも。
私はその頃なんだか泳ぎにくくなっていたことには気づいていたが、体が段々人間化していることを両親の指摘ではじめて認識させられた。
私には彼しかみえていなかったからだ。
自分の体の変化にさえも気づいてなかった。
両親には正直に全てを話した。
もう隠せないところまできていたから覚悟も何もなかった。
両親は怒りもせず、真っ青になって言葉を失っていた。
母は気絶寸前で父にもたれかかっていた。
父からはもう会うなと言われた。
会わなければまた自然と人魚の体に戻るだろうと。

私は最後のつもりでいつもの岩場へ向かった。
今思えばあの時の私はどんな心境だったのだろう。
最後だなんて、どんな覚悟があったのだろう。
ただ、会いたくて岩場へ向かっただけじゃなかったろうか。
その時は水面に上がるまで相当な時間と体力を要するにようになっていた。
尾ひれはもうどこにもなかった。剥がれ落ちたように。
足先は先端が少し割れて大粒の苺のようになっていた。
その分両腕で必死で水をかいた。
彼のゴムボートの底がみえた。
息が苦しかった。
酸素をうまくとりこめなくなっていた。
目一杯息を吸って口を閉じた。
本能的にもう水中で息継ぎは出来ないと確信した。
私はありったけの力をふりしぼってやっとの思いで水上に顔を出した。
彼がゴムボートから手を伸ばしてくれた。
「掴まって!」
私が溺れたのだと心配してくれたのだそうだ。
私は彼に引き上げられてはじめてゴムボートに乗った。
彼は何度も大丈夫か?と声をかけていた。
人魚が溺れるだなんて、聞いたことがない。
私は次第にこみ上げてくるものに我慢が出来ず腹を抱えて笑った。
ゴムボートの上で体をくねらせて。
彼はきょとんとしていた。
その時、私ははじめて恥ずかしいという感情に苛まれた。
ゴムボートの上の私は何も身につけていない。
人間の女性は夏の海で露出しても水着は身につけていた。
それなのに私は何も着ていない。
裸の自分が恥ずかしくて手で胸を覆い隠してうずくまった。
彼にみられていることに耐えられなかった。
彼はそんな私の気持ちをよそに
「どうしたの?寒いの?」
なんて的外れなことを言う。
違う。全然違うのに。みないでほしいのに。私はこんなに恥ずかしいのに…………!

もう、私は人魚の心を失っていた。
そして、私は人間の心になっていた。

うずくまって震える私を柔らかくてたくましい温もりが包んだ。
彼が私を抱きしめていた。
私の涙は真珠になることもなくゴムボートに落ちてはじいて消えた。
彼は着ていたパーカーを私に羽織らせて一緒に陸に戻ってくれないかと言った。
私はもう悩むことなんてなかった。
この人と人間として生きていこうと決めた。

彼は私より二つ年上の大学院生だった。
海が好きで海のことを研究しているのだそうだ。
私は色々話してもらったけど、そのどれもが難しくて言語は理解できても内容はさっぱりだった。
それでも海のはなしをする彼は少年のように無邪気でいきいきしていた。
真夏の白波が太陽に輝いて眩しいくらいの。
彼は大学院生として勉強しながら夜は水族館の清掃やメンテナンスのバイトをしていた。
私は彼に負けないように人間の世界のことを勉強した。
歩くことも。走ることも。
人間が出来て当たり前と思われることは彼が出掛けている間に一人で練習した。
雨の日、傘をさして歩いて出掛けた彼の置いていった自転車に乗って派手に転倒したことがあった。
膝からは真っ赤な血が出た。
人魚だった時は舐めればすぐ傷は消えたけど人間になった今は絆創膏を貼って何日もそのままだった。
傷がゆっくり癒えていくのが愛しかった。



人間になって四年が経っていた。
彼も大学院を卒業してその世界では権威のある有名な海洋研究所で働くことが決まっていた。
私は彼の誕生日と就職のお祝いともうひとつの報告の為にケーキを買ってごちそうを作ってアパートで彼がバイトから帰ってくるのを待っていた。

私のスマホが鳴った。
水かきもない細い指でスマホを手にとった。
彼からだった。
もしもし、どうしたの?と、電話に出ると彼ではない知らない男の声がした。

彼は水族館のモーターにまきこまれて死んでしまった。

さっきまで蝉が鳴いていた。
熱帯夜とテレビでは言っていた。
今は滝のような雨が降っている。
大きな雷が鳴って、アパートが小刻みに震えた。


あれから六年。
あの時、彼に報告出来なかったお腹のこどもは五歳の幼稚園児に成長して汗だくになって眠っている。目が覚めたら待っている楽しいバス遠足を夢にみているのかもしれない。

浴槽の水がいつの間にかあふれていた。
私は慌てて水を止めた。
随分あふれたままで時間が過ぎていたようだ。
浴室は水道水の匂いで少しつんとひんやりしていた。
消毒の匂いにも慣れて、今では海がこわいくらいだ。
一度入ったら吸い込まれてしまうのではないだろうか。
黙って去った私を恨んでいるかもしれない両親が私を引っ張っていくかもしれない。息子も一緒に…。
だから私は五歳の息子を海へ連れていくことがまだ出来ずにいた。

私はほどよく冷えた水風呂に全身をうずめた。
目をあけるとぼやっとした線で二本の足がみえた。

私の両足。

人間になったのは私が望んだこと。
怪しい魔女の力を借りたわけでもない。
自然に体が心に従って人間へと姿を変えたのだ。
それも彼といたかったから。
一緒にいたかった。
ただ、それだけの理由。
それを不思議な話と他人が思うかはどうでもよかった。

人間になって映える(ばえる)ことなんて…
記憶にはない。
ママ友が誘ってくれていたランチも今では誘われもしなくなった。
私は働かなくてはいけないから。
そういえば私は彼がいなくなるまでずっと待ってばかりだった。
今は私が待たせている。
寂しい思いをさせている。
息子は我慢しているだろう。

水風呂からあがり、全身をタオルで拭く。
扇風機の回る寝室に戻るとムッとした空気がこもっていた。
私は洗濯した服に着替えて布団の上に座った。
息子はさっきと変わらず夢の中にいる。
息子の汗を少し冷えたバスタオルで拭いながら頭でぼんやり弁当の献立を考えていた。
保冷剤だけじゃ心配だから冷凍食品をおかずに一品足しておこう、とか。
すっかり私も人間だなぁと可笑しくなった。

映える(ばえる)ことなんてなくていい。
たまに送られてくるママ友のケーキバイキングの写真も色とりどりのネイルの手がいくつも並んだ写真も。
私はいらない。
人魚の血は不死の薬でも私が人間になれなければこの子は隣で眠っていない。
だから彼を助けられたのではないかなんてこと考えるだけ無駄なことなんだ。

息子の顔をみる。
彼に似ている。
今の私には人魚より不思議な力がある。
ひとりの人間としての強い力がある。
私はずっと息子をみつめていた。

目覚まし時計が鳴った。
三分間を告げるタイマーアラームに息子のヒーローの掛け声。
私は咄嗟に時計を止めようとしたが、体勢を元に戻した。
この子が自分で止めるのを見てみたくなったのだ。
これもはじめての気持ちだった。

背伸びして目を覚ました息子は私の顔をみて大きく瞬きをして思い出したように目覚ましのアラームを止めた。
そして勢いよく起き上がってカーテンをあけた。
静かに晴天が色づきだす真夏の早朝5時。
長い一日がはじまる。

(おわり)

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