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パミール旅行記11 〜ホログ初日・後編 ホログの町を歩く〜

タジキスタン共和国ゴルノ・バダフシャン自治州ホログでの初日、午前中からお昼過ぎにかけては友人のGさんと主な見どころを巡った。午後の後半は一人でぶらぶらとホログの町を歩いてみる予定である。

(前回の話および記事一覧)

対岸のジャマーアト・ハーナ

Gさんと別れた後は、宿でしばらく休み、それから再度ホログの町を歩きに出かけた。まずは宿の前の吊橋を渡ってグント川の南側に移り、それからグント川に沿って上流側へと歩いた。

宿の前の吊橋から東側(ホログ中心部方面)を望む。朝は逆光だったが今は順光。
反対側(西側)のアフガニスタン方面。今度はこちらが逆光。
新しい学校の建設についての看板。欧州連合(EU)とアーガー・ハーン財団の共同プロジェクトのようである。ホログでは私の散策した限りでは見当たらなかったが、別の場所では日本政府とアーガー・ハーン財団の共同プロジェクトも見かけた気がする。この学校は、今改めて看板の日付を見ると私の訪問した時点では既に完成済みのはずだが、実際に完成していたかどうかは失念。

しばらく歩くと、ジャマーアト・ハーナがグント川の対岸に見えてきた。

このルートを選んだのは、他でもない、ジャマーアト・ハーナを川のこちら側から眺めてみたいと思ったからである。イスマーイール派公式のホログのジャマーアト・ハーナ紹介ページに載っている写真に、ジャマーアト・ハーナを南側の少し高い位置から見下ろすように撮ったものがあり、それと同じ角度でジャマーアト・ハーナを見てみたかった。ドローンか何かを使った空撮の可能性もあったが、地図を見た限りでは、対岸の道路からの可能性も高そうだった。

ただし、今歩いている道はグント側沿いのジャマーアト・ハーナとほぼ同じ高さの道であり、イスマーイール派公式にある高い位置からの写真の構図を見るにはもうひとつ山側の道を通る必要がありそうである。

グント川対岸にジャマーアト・ハーナを望む
グント川沿いの道。町を歩く時はいわゆる「見どころ」も良いが、こういう何気ない光景も好き。右側の柱の影に牛がいるが、狙って撮ったのかどうかは忘れた。

グント川沿いを引き続き上流に向けて歩き、次の橋のところで山側の道へと向かった。午前中にチョールボーグから植物公園に行く時にタクシーで通った道である。午前中にタクシーで左側(東側)に曲がった角を、今回は右側(西側)に曲がり、下流方向へと歩いた。

しばらく歩くと、川方向に遮るものの無い箇所に出て、眼下にジャマーアト・ハーナ、さらにはゆるやかに蛇行するグント川とホログの街が見えた。まさに見たいと思っていた光景の場所だった。ホログの街方面の光景は、どこかでこの構図の写真を見たことがある気がしたが、その写真の構図がどこで見えるかは全く考えていなかったので、急に現れたその光景に、ある意味ジャマーアト・ハーナ以上に感動した。

川からひとつ山側の道。夕方の気配が深まってきた。撮影時刻は17時49分の模様。
ジャマーアト・ハーナを少し高い位置から望む。この構図を自分の目で見てみたかった。
ホログの町を望む

アフガニスタンとレーニン像

スマホの地図アプリを見てみると、さらに下流方向(アフガニスタン側)に歩いたところにレーニン像があるらしく、そこまで行ってみることにした。パンジ川の対岸のアフガニスタン側をもっとゆったりと見て見たかったし、レーニン像も微妙に見てみたかった。

対岸の宿の位置をやや通り過ぎたところで宿方面へと下る坂道に入ると、左側(アフガニスタン側)にレーニン像があった。昔は街の中心にあったのがここに移されたのだろうか? アフガニスタンの山々を背景に立つレーニン像に、なんとも言えない何かを感じた。

アフガニスタン方面へと続く道(橋は無いのでアフガニスタンに行けるわけではない)。道端で子どもたちが遊んでいた。
レーニン像(逆光)。旧ソ連にとってアフガニスタンは、ソ連崩壊の原因のひとつとして同国のアフガニスタン侵攻(1979〜1989)が挙げられるなど、因縁の存在である。一方のアフガニスタン側からすれば、今なお続く混乱の直接の原因はソ連の侵攻であり、因縁と言うレベルを遥かに超えた損害を被っている。アフガニスタンの山々を背景に、レーニンは何を想う?
より光線条件の良い角度から。背後の山はタジキスタン側。レーニン像の近くということもあってか、「СССР」(Союз Советских Социалистических Республик=ソビエト社会主義共和国連邦の略)の落書きがしてある。帝政ロシアによる支配以前やソ連崩壊によるタジキスタン独立後にタジク人勢力との間にいろいろあったこともあってか、パミールでの帝政ロシア時代やソ連時代への好感度は相対的に高めな気がする。
グント川の南岸を宿方面の橋のほうへと下る道。正面はアフガニスタンの山々。道はこの先で大きく右に曲がって東向きになり橋の入り口に至る。

タジキスタン料理店

グント川南岸を歩いている途中、別の知人のNさんから連絡があり、1時間ほど後にチョールボーグで会えることになった。

ホログのモスク

いったん宿に戻り、チョールボーグへ向け出発。私のほうが若干早めに着いたようで、Nさんがいないか少しあたりを探したが、間もなくNさんから「今モスクの近くにいる」との連絡があった。

「モスク? ホログにもモスクがあるのか?」

と思ったが、Nさんから送られてきた現在地の写真で、モスクとはジャマーアト・ハーナのことだと分かった。ジャマーアト・ハーナとは要するにイスマーイール派におけるモスクのようなものなので、そのままモスクと呼ぶこともあるのかも知れない。あるいは、外国人の私にも分かりやすいように「モスク」と言い換えてくれていたのだろうか。

写真の場所はチョールボーグ内の具体的にどこだろう、と考えているうちに、私の名前を呼ぶ声が聞こえ、娘さんを連れたNさん夫妻に会うことができた。

Nさんにシュグニー語と英語で挨拶をし、英語を話せない夫氏とはシュグニー語(一部ロシア語)とNさんの通訳とで挨拶と簡単なやりとりをした。まだ幼い娘さんは、私の目からは元気そうに見えたが、ドゥシャンベからホログに来た際に病気になり、げっそり痩せてしまったという。ドゥシャンベでお世話になったAさんといい、なんだか病人が多い。私も、タジキスタンに到着して以来どうも体調不良である。

チョールボーグの入り口にあった「Roof of the World Festival」の案内。気になったが、開催初日には既にホログを離れている予定なので今回は参加不可。

タジキスタン料理店にて

Nさん夫妻とはレストランで夕食をすることになった。私がタジキスタンの料理をまだあまり食べていないので、タジキスタン料理が食べられるところに行くことにした。

チョールボーグすぐ近くにレストランがあるとのことだったが、そこは既に閉じていたので少し離れた別のお店に入った。お店では、私はおそらく「オシ」を食べたことが無いのでそれを食べたい、と希望したが、出てきたのはドゥシャンベでも食べたプラウ(中央アジア風ピラフ)だった。Nさんによると、タジクで「プラウ」というものをパミールでは「オシ」と言うとのこと。私は語感的に勝手にスープのようなものを想像してしまっていた(何語の語感だろうか?)。

予想とは違ったとはいえ、オシをおいしくいただいた(但し食欲はあまり無い状態だった)。私は日本を出国して以来、日本の家族(親)に連絡をしていなかったので、Nさんの勧めもあって日本にLINEでメッセージを送った。日本時間で0時過ぎ頃だったが、返信があり何度かやりとりをした。

食堂のテレビでは、アラビア文字表記のペルシア語のエンターテインメント系番組が流れていた。発音がイラン音っぽかったのと、CMの時に「トマン」との通貨単位でやたらと桁数の多い数値が表示されていたので、おそらく在外イラン人がイラン国内向けに流している番組なのだろう。

タジキスタン料理店にて。「オシ」あるいは「プラウ」。
タジキスタン料理店にて、Nさん夫妻と(娘さんは店の奥でダンス中)。上のほうにマルコポーロ羊(パミールアルガリ)の角が飾ってある。

バーザール(閉鎖中)

食後、Nさん夫妻が宿まで見送ってくれた。

Nさんは、ホログでは多くのお店が午後5時で閉じ、さらに週末は多くのお店が閉まる、と言った。以前にイランに旅行に行った時のことを思い出し、イランでも週末の金曜日はバーザールが閉まっていた、と言うと、まさにそれと同じ、とのことだった。一方で24時間営業のお店もいくつかあり、私の宿の前にあるカフェもその一つだった。24時間営業のお店があるのはとても便利、と話し合った。

中心部のバーザールの前を通った時(それまでにもこの場所を複数回通ったはずだが、バーザールだと意識していなかった)、バーザールは5月の件で損傷しており、別の場所で開かれている、と教えてもらった。Nさんからこの話を聞いて、ようやく私もこの件をネット上のニュースで見ていたことを思い出し、昼間にGさんが街外れのバーザールを紹介したのもそういうことだったのか、と合点がいった。

宿の前でNさん夫妻にお礼を言って別れ、宿の階段を登ると、宿の入り口で宿の人に「もう外に出ないのか」と聞かれた。まだ飲み物を買う必要があったので件の24時間カフェにいったん行き、飲み物を買って再度宿に戻った。

(続き)


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