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自己紹介 ~後編①~

Muse Kitchen藤岡亜妃です
さて、昨日の続きです
前半はこちらからどうぞ


§ 父に学費の240万円を返済

短大を卒業し社会人になり、当時の手取りの給料は16万円程度だったと記憶しています。前半の中でちらっと触れましたが、父に学費の費用の返済を求められ、毎月10万円、2年で総額240万円を渡しました。

え?大学の費用を親に返済しているの?とびっくりされることもありましたが、自分が通った費用なのだから自分で支払うことになんの疑問も持ちませんでした。

月給以外のボーナスは好きに使えたので、同じ時期に就職をした妹と年に2回海外へ行き、充実した日々を過ごしました。このときから海外に目覚め、アメリカを横断したり、バックパックひとつ背負って東南アジアをひとりで廻ったり、お金では買うことのできない体験に心惹かれるようになりました。(なぜ旅をするのかと問われたらという記事も人気です)

§ 24歳で結婚、大きな子宮筋腫が発覚

いろんな人とお付き合いしたり別れたりを繰り返し、「この人の子どもが欲しいかも」と初めて思えた夫と24歳のときに結婚しました。夫の赴任先である大阪で新婚生活が始まりました。そして大阪市の非常勤講師として、念願だった小学校の先生を務めることができました。

その後、妊娠がわかり、近所の産婦人科へかかりましたが、「大きな子宮筋腫が産道を塞いでいるからうちの病院では手に負えない」そう言われ、泣きながら診察室を飛び出しました。

当時はインターネットも今ほど普及しておらず、子宮筋腫について調べるためにまずは図書館へ行くことから始まりました。幸いにも近所で評判の良い総合病院にかかることができたので、無事に帝王切開で娘を出産することができました。

ただ、この病院でも子宮ごと筋腫を取らなければ子宮が破裂すると言われ、きょうだいを持つことができないのかと思い、また泣きました。わたしは昔から泣き虫です。納得できる答えを探すために、東京でセカンドオピニオンを求め、病院の門を叩きました。すると、筋腫だけを切除する手術も可能だと言われ、再度開腹による手術にのぞみました。

帝王切開を経験された方はわかると思いますが、くしゃみや咳、笑うたびにお腹の傷口がひきつるような痛みが走りますよね。開腹術も2回目となると体も慣れるもので、その痛みを上手に逃すことができるようになり、人間の体ってすごい!と心から思いました。

§ しんどかった育児からうつに

長女が生まれ、慣れない育児が始まりました。26歳の出産だったこともあり、周りの友達はバリバリと仕事をしていてお給料もがっつり稼いでいる。それに引き換えわたしはマンションから一歩も出ないような毎日を過ごす日々。今日は生協の配達員さんとしか話してない、世の中に置いていかれている・・・と絶望的な気持ちになりました。子育ての合間に宅建の資格試験に挑んだのも、きっと見える形の成果が欲しかったからです。

その後、転勤があり東京へ戻り、親元の近くで子育てができるありがたみを感じましたが、息子も生まれ子どもが2人になると、いよいよしんどさがマックスに・・・。みんな子育てを楽しそうにしているのに楽しいとは思えない自分。体も心もバラバラになり、うつらしき症状にも悩まされました。

「自分のことが好きですか?」とあるときにそう聞かれ、意味がわからず、ただ泣きました。心の琴線に触れたフレーズだからこそ泣いたのですが、当時は自分を好きだという感覚を持つことや自分を大切に扱うこともできず、ただ目の前の育児に格闘するしか手段を知らずにいました。

うだるような熱い真夏の日に鍼灸に行ったところ、「あなたの体は冷えて切っている。毎日お腹と背中にカイロをつけなさい。」と言わる始末。そう言われても今は夏だし冷えってなによ?と真に受けることもせず、自分が冷えていることに実感や関心もなく、自分の体のケアも放置していました。

今から思えば、当時は圧倒的に睡眠の質が悪く、それが原因で心身ともに疲労困憊していたのだと思います。わたしはロングスリーパーなので睡眠が摂れないことは生命にかかわるほど影響があります。もしもイライラしている奥さんがいたら、どうか静かな環境で寝かせてあげてください・・・とパートナーさんにはお願いしたいです。涙

§ 自分探しから体調不良を招く

娘が幼稚園へ通うようになり、少しずつ子どものお世話からも手が離れていき、自分にできる何かをしたくなり、『自分の夢を探しています』そんな名刺を作って、さまざまな場所へ出かけていきました。私の強みはこの家族だ!そう思い立ち『愛され妻』をテーマにしたブログをつづりはじめました。

ひさしぶりに自分の世界が広がっていく感触や手ごたえを感じることができ、充実した日々に思えました。アメブロを皮切りにステップメールや講座開催などやりたいことを実現していくことができました。が、少しずつ少しずつ体は壊れ始めていきました。自分の体は丈夫だからだいじょうぶ、そんな身勝手な思い込みで、たのしいたのしいと交感神経全開アクセル状態で体を酷使してしまいました。健気な体は何度も悲鳴をあげ、メッセージもくれていたというのに、見て見ぬふりをし続けました。

最初は鼻詰まりがひどく呼吸がしにくくなりました。次第にあちこちの関節が痛むようになりました。夜になると微熱が出るようになりました。歯を磨くだけで歯茎から出血し止まらなくなりました。体のいたるところに覚えのない紫斑ができるようになりました。

あるときから羽毛布団が重く感じました。あるときから寝返りが打てなくなりました。あるときからベッドから起き上がることができなくなりました。そのころには昼間に微熱が出るようになり、夜には高熱が出るようになっていました。

地元の耳鼻科へ行きましたが、副鼻腔炎だろうとそれ以上取り合ってもらえません。日々体調が悪化し続けるので、怖くなって血液検査をしてもらえる病院へも行きました。結果はPCRが高いくらいで微熱の原因はわからないと言われ、途方に暮れました。

ふと、子どもたちがお世話になっていた小児病院の先生が大学病院の担当医であることを思い出し、藁にもすがる思いで先生のところへ行きました。これはおかしいからすぐに大学病院へ行くように、と紹介状を書いてくれました。これで助かった!と思いましたが、まだこの先には続きがありました。

§ 国の難病指定の病気と宣告される

紹介状を抱えて大学病院に行きましたが、詳細な血液検査の結果がわからないと受け入れはできないと言われ、処方されたのはカロナール(鎮痛剤)のみ。体中が痛むので鎮痛剤を絶え間なく飲み続け、待つこと1週間・・・。

寝たきりのこの1週間がどれほど長く感じたことか。当時の娘は小4、息子は小1。毎朝ベッドから「いってらっしゃい」と言い、うとうとしていたらもう夕方になり「おかえり」とまたベッドから声をかける日々。一体、自分はどうなってしまうのか、ぼ~っと天井を仰ぎ見ながら不安な気持ちで過ごしました。

いよいよ大学病院へ検査結果を聞きに行く日は歩くこともままならず、夫に抱えてもらいながら向かいました。病院で告げられたのは『膠原病』(自己免疫疾患)でした。中でも私は『多発性血管炎』という難病指定されている病気だったのです。そのままその日に即入院。病院のベッドで自宅とは違う天井を見上げたときに思ったことはただひとつ。

あぁ家族を残して死なずに済む

ベッドに横たわると大量のプレドニンを摂取し、病状に効果のありそうな点滴を探りながら打ち続ける・・・まるで実験台に張り付けられたラットのような気分でした。プレドニンの副作用でテンションも妙に高く、夜通し寝つくことができない日々。ふと夜中に思い立ち、ひさしぶりに自分の体をさすったとき、自分の体にちゃんと触れたのはいつぶりなのだろう・・・?これまで何度もメッセージを送ってくれていた自分の体をまったく顧みず、突っ走ってしまった自分を思い返し、また涙が流れました。

約2カ月にわたる入院生活で、なぜ病気になったのか、大切にしなくてはいけないもの、手放さなくてはいけないもの、そしてこれからの自分の生き方について考え続けました。入院生活で手にしたのは『当たり前に思えるような些細な日常が幸せだったのだ』と気づきでした。

お風呂にすら1カ月ほど入れず、クリスマスの日に湯船に浸かったときには体が溶けてしまいそうなほどの気持ちよさでした。お風呂に入れるという圧倒的な幸せ!!!!!!!ものすごい量の垢が湯船にふわふわと浮いていたあの光景は内緒にしておきたいホラーです笑。こんなふうに、幸せの感度があがったことで今日もこうして生きている、それだけでもう十分与えられているのだという感謝の気持ちに包まれるようになりました。

晩秋から入院し、年越しも年明けも病院で過ごしましたが、37回目の自分の誕生日に退院することが叶いました。退院後は失った体力を取り戻すことで精一杯だったはずなのに、自宅に戻るやいなや家事やブログもなんとかしよう、なんとかしないといけない、そんな脅迫めいた思いに囚われ、またもや過酷な生活や選択を自分に課してしまいました。そのころに今はなき『とくダネ』のTV取材も受け、体もまだおぼつかない状態なのに、通常モードに一気に舵を切ろうとした自分。もちろん、やることなすことうまくいきませんでした。

今までと同じことを続けていくのはもう限界なのだ、ようやく腑に落ちて、アメブロをはじめとして数年かけて築いてきたネットワークもすべて断ち切りました。何かを始めることよりも終わらせることのほうが勇気も気力もいります。が、もう私に迷いは微塵もありませんでした。だって自分に大切なものは自分とそして家族ですから。

そんな折に大阪への転勤が決まり、転地療養も兼ねて引っ越しを決意しました。実は自宅を建設中だったので夫は単身赴任すると言っていたのですが、この機会を逃すと家族一緒に地方で暮らすチャンスはもう二度とないと判断し、みんなで大阪に住むことにしました。


長くなってしまいましたので続きは後編②へ!


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