自己紹介 ~前編~
Muse Kitchenの藤岡亜妃です。
あらためて私の自己紹介をしようと思います。
47年分のボリュームが詰まっていますので笑
目次を立ててお伝えします。
§ 抑圧されていた幼少期
私は水瓶座のB型、生まれは大阪池田、育ちは関東を転々と移り住んだ三姉妹の長女で5人家族です。両親も姉妹もみな全員B型というなんとも恐ろしい一家です。
ちなみに今の家族は全型揃っています。(夫A型、娘O型、息子AB型)
O型の娘が生まれたときに自分はBBではなくBOなのだとわかり、なぜかほっと胸をなでおろしました(笑)
わたしたち姉妹は3年の間に3人が生まれているのでほぼ年子のような状態でした。父や祖父母はおそらく男子の誕生を望んでいたので、幼少期から思春期にかけ丸みをおびていく自分の身体に嫌悪を感じ、そんな自分を許せなかった時期も経験しました。どうやら女に生まれたことに対して、知らず知らずのうちに罪悪感を植え付けられていたようです。
§ 絶対的な存在の父と世間知らずの母
我が家において父は絶対的な存在で、わたしたち姉妹は『服従と恐怖、ときどき愛情』そんな関係だったように思います。これがしたい、これはイヤ、わたしたちには感じたことを言う当たり前の自己表現が許されない、そんな環境で育ちました。
母は若くして3人の娘を生んだこともあり、母というよりも4姉妹の末っ子のようなポジションでした。母が娘たちを守るというよりもわたしたち姉妹が盾となり、母を守っていたのかもしれないなぁと大人になってから思います。
父は借金してでもお金を作れることが実力だという考えの持ち主だったので、バブルが崩壊したあとに借金取りからの鳴り響く電話も本当に恐ろしく苦い思い出です。
母はお金に関してはノータッチ、決まった生活費だけもらって生活していたようです。わたしが社会人になってからは、大学の費用返済という面目で毎月10万円を父に手渡していました。
§ 服従心から100万円のお祝い金も…
象徴的な出来事があります。それは結婚するときに両親から持たせてもらった100万のお祝い金です。一旦はありがとうと言って受け取りました。が、直後に父から母のいないところで、100万円をそのまま返すようにと言われ、言われるままに父に渡しました。
その100万円は、両親が半々で準備したものだったと後から知りました。きっと母も一生懸命に作ったお金だったはずです。そんなことも知らずにそのまま父に何の抵抗もなく渡してしまったこと、そしてこのことを夫にも話せない自分をしばらく責めていました。
子どものころから持ち続けていた服従心から、この歪んだ現状をありのままに見ることができずに、自己嫌悪で満ちあふれさせていたのです。
ちなみにこの100万円ですが、10数年経って父から返済されました。お金に色はないはずなのに、わたしは自分のお金とは思えず、家族とふたりの姉妹と一緒に沖縄へ行く費用に充てました。
§ 不本意な2回の転校から得たもの
『孟母三遷』子どもの教育に適した環境を選んで居場所を3度変えたという故事、これが父の子育ての持論のひとつでした。ゆえに引っ越しも多く、突然父に宣告されて、その1か月後には違う土地へ行くこともたびたびありました。子どものためにというのは半分、もしかしたら残りの半分は借金取りとも関係があったのかもしれません。なぜ引っ越すのか?そんな疑問を投げかけることすらできない父との関係でした。
転校も2回ほど経験しました。友達と別れるさみしさやつらさもありましたが、転校することで新しい友達も増えるし、悪いことばかりではありませんでした。こんな環境下だったからこそ、コミュニケーション能力が培われ、それが私の強みのひとつでもあるからです。
少し脱線しますが、幼い頃に強烈なインパクトがあった出来事があります。それは小学生の低学年だった頃のエピソードです。
わたしは誰かが誰かを嫌いになるなんて世界線を知らずに生きていました。ある日、仲のいい友達がほかの子の悪口を言っているのを耳にしてひどく驚きました。つまり、わたしも誰かから嫌われる可能性があるのだという気づきです。いまだにガーンという衝撃音ともに鮮明に覚えています。我ながらなかなかのナチュラルっぷりです。笑
§ 暗黒の中学時代
私の人生の中でもっともやり直したくない時期を挙げるとしたらこの中学時代でした。なにもかもがうまくいかず、それでいていつも気持ちが荒ぶっていて、もうおかしくなりそうでした。これもホルモンのバランスによる影響だったのだろうと今はわかります。
中2の秋にも転校したのですが、レギュラーで活躍していたバスケも新しい学校ではスタメンになれず、悔しい思いをしました。女バスのみんなはなぜかショートカット。聞けば試合に負けてカットしたというではないですか。当時ロングヘアーだったのですが、バスケ部の一員と認めてもらうために人生初のショートカットにしました。
口の悪い副キャプテンに「後ろから見たらゴキブリみたい!」って言われたことを思い出します。超のつくほどつやつやな黒髪だったので、黒光りする後ろ姿がそう見えたのでしょうね・・・。
ここでネタにできたから無事に昇華です。笑
§ 楽しかった高校生活もまた一変
高校は学力相応の学校を選び、電車で通学しました。比較的自由な学校で、部活やバイトをエンジョイしました。自分で稼いだバイト代で好きな洋服を買える幸せや自分で選択できる自由をかみしめました。
楽しかった高校生活ですが、またもや父から引っ越しの宣告があり、都立の学校へ転校しました。都立の学校は私服でチャリ通。さぞオシャレな子がいっぱいいるのだろうと胸をときめかせましたが、なんてことはない、いつもトレーナーにデニムのような子だらけ。よっぽど、前の学校の子たちのほうがおしゃれだし、クラスを超えて男女仲良かったし楽しかったな、と転校したことを後悔しました。
でもね、この数年後に転校前の学校の友達と都立の学校の友達が結婚することになるのです。わたしが転校したからこそふたりは出会い、子どもたちもこの世に誕生しました。そう思うと、意味のない出来事などなにひとつないのだとつくづく思います。
§ 大嫌いだった短大と縁故での就職
進学先は父の助言や希望もあり、短大にしました。小学校の先生になりたいということもあり、初等教育の学べる女子大へ進学しましたが、この学校がまったく私に合わない・・・。
短大を辞めて再受験をしたいと生まれて初めて意を決して、自分の希望を父に伝えました。が、あえなく却下。当時のわたしは自力でなんとかしようという気力も持てず、自分ならなんとかできる!と思うこともできず、父がダメならダメだと諦めて、そのまま大嫌いだった短大を卒業し、父の縁故で就職しました。
学校の先生になりたかったはずなのに、超氷河期ということもあってチャレンジすることすら放棄し諦める自分。進学先といい就職先といい、こうして父の期待に添うようにしか生きていけなかった自分・・・。自分が自分の人生を選択できるのだと知るのはまだ先でした。
§
いかがだったでしょうか?
わたしの人生の約半分になります。
親の庇護のもとで育っていく自我ですが、
かなりコントロールされていたなぁと思います。
本来、自由を愛する水瓶座なのに不自由なイバラの道でしたね。。
後半は・・・
◉24歳で結婚、大きな子宮筋腫発覚
◉しんどかった育児からうつへ
◉自分探しから難病発症
◉自分を取り戻す日々
◉転職はすでに手の中にあった
こんな内容でお伝えします
また明日♪
今夜はミュージカル観てきます♡
普段はこんなことをつづっています↓
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