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自己紹介 ~後編②~

Muse Kitchen藤岡亜妃です
後編が長くなってしまっているため、二部構成にしました
39歳から現在の自分までの道のりです

§ 大阪で自分を取り戻す日々

東京に12年住んだのち、自宅を建設中に内示が出て家族で大阪へ行くことになりました。(自宅を持つと転勤になるというジンクスは転勤族あるあるです)

なんにも誰も知らない未知の土地で過ごすこと。それは不安なこともたくさんありますが、新しい環境からもう一度すべてをやり直すチャンスをもらえます。夫も私も親が転勤族だったので、子どもたちに転校を経験させることに抵抗がありませんでした。彼らが初めて経験する転校、このとき娘は中1、息子は小4でした。

大阪市でも南に位置する場所に社宅があり、関西でも特に濃度の高め(!)のエリアに住みました。息子はなかなか新天地になじむことができずに、東京へ帰りたいと口を開けば言っていました。クラスの子たちにとって当たり前のボケとツッコミの会話が、息子にとっては暴力的な会話あるいは喧嘩していると感じたようで、彼が学校になじむまで毎日一緒に登校しました。小学校の図書ボランティアにも登録し、週に一度、図書室からも見守り続けました。

娘のほうは気丈にふるまいながら、新しい環境に慣れていこうと奮闘していました。息子とは対照的に関西弁を早々にマスターしたようで、出身の小学校が新宿区と言ったときにクラスメイトに驚かれたようです。

ある日、あべのハルカス(天王寺にある日本一高い建物)に出かけたときのことです。滅多に泣かない娘が涙ながらに心情を吐露し始めました。「きっと卒業するときには大阪を離れたくない!そう思える友達もたくさんできるはずだよ。」わたしはそう娘に伝え励ましました。イヤだと気持ちを伝えることのできる息子に気を取られ、娘のケアができずにいたことを猛省しました。

§ 2度目の入院生活

ようやく秋になるころには息子も学校へ楽しく通えるようになり、生活も落ち着き始めました。と同時にそれまでの気苦労から解放されたからなのか、自覚症状なくわたしの病状が悪化。またもや入院を宣告されました。運動会だけはこの目で見たいと先生に懇願し、10日ほど入院を遅らせてもらいましたが、ここからまた2カ月の入院生活が始まりました。

そもそも引っ越した当初、病気が難病だったこともあり、受け入れ先の病院を見つけること自体も苦労し、大きな病院へ片っ端から電話をして見つけたのが大阪赤十字病院でした。どんな病人も受け入れるという精神に感銘を受けたことを思い出します。こうして思い返すと、大阪以外の地方都市にはそもそも住めなかったのかもしれません。

前回の入院とは違い、体の違和感なども少なく、ようやくすべてが順調に流れていっていた矢先になぜまた?という悲しい思いでした。けれども、わたしには変わっていかないといけないことやクリアしていかないといけない課題がまだ残っていたのです。

入院先では不思議な出会いも多く、自分が大いなるものに生かされているのだと気がつくキッカケをもらえました。無事に退院し、これからは自分をトリートするために時間やエネルギーを注ごう、そう決意しました。

§  逆単身赴任を選択

3年限定で大阪に住む決断をしたわたしたち家族でしたが、2年で東京へ戻される辞令が出されました。人生なかなか思い通りにはいきませんね。息子は喜ぶかと思ったら、今度は東京に戻りたくない!と言い出しました。この2年で大阪の地に根をはれたのです。

3年だけ大阪に住むよ、そう言ってふたりを連れていったのですから約束は果たしたい、家族で相談した結果、子どもたちとわたしで大阪に残留することに決めました。夫は東京に戻るのでまさかの『逆単身赴任』生活です。受験生を2人抱える生活でしたが、正直な気持ちを打ち明けると3人暮らしは最高に楽しかったです!!笑

期間限定の大阪でしたが、かけがえのない友人を持てたのは子どもだけではなく、私も同じでした。大好きな友達と出会えたことは貴重な財産です。大阪と東京は言葉が違うだけではなく、文化や風習もかなり違うこと、ふたりとも身をもって経験できたと思います。そして、同じように新しい環境に慣れない子がいたときに自分と重ねることで、きっとその子にやさしく接することができるはずです。間違いなくふたりにとって必要な経験だったのだと思います。

§ 天職はすでに手の中にあった

東京に戻り、GWも過ぎた頃、真ん中の妹に「お姉ちゃんヒマでしょ、時給払うからうちで作りおきよろしく!」とオファーされました。そのころ、志麻さんやマコさんがテレビなどで取り上げられ、冷蔵庫にあるものでごはんを作っている姿を見ながら、コレってわたしにもできるな~と思っていた矢先でした。妹の薦めもあって調べてみると、とあるマッチングサイトがヒット。そのまま、登録をして家事代行という仕事をスタートしました。

家事が仕事として成り立ち、しかも喜ばれること、〇〇がおいしかった!などうれしい感想や感謝の気持ちを直接受け取れること。これまでのわたしのキャリアがそのまま活かされることが最大の驚きでした。

得意なのは料理だけれど、作業していて充実感を味わえるのは『整理収納』でした。片付けを進めていくと依頼者さんにバチンとスイッチが入る瞬間があります。そこから好転していき、人生が変わっていく姿を目の当たりにするにつけ、片付けにはものすごいパワーと可能性が秘められていると感じました。

現在はフリーで活動しており、家事代行のほかにパルシステムなどで片付けの講師も務めています。片付けに秘められた可能性を言語化することで、必要としている方の元へ届けたいと思っています。だって、片付けから人生が開花しちゃうのだもの!生きづらさもしんどさも自分が作り出しているだけ!
そこに気がつけるようなプロセスを伝えたいと日々noteにつづっています。

§ 最後に

無病息災という言葉がありますが、わたしの場合は一病息災。これがわたしの人生の一部ですから、それを謹んで受け入れ生きていきます。大いなるものに生かされている自分を実感できたときに、なんのコントロールも必要がなく、ただ自分が在るだけでいいのだとわかりました。わたしはわたしのお役目を果たすだけです。

父との関係も歪んでいたんだぁなと気づくことから視界がクリアになっていきました。父にとって良い子ども(父に好かれる自分)を演じる必要はもうないのだとわかり、自分の手で自分の人生を取り戻すことができました。

誰かのせいや環境のせいにすることはたやすいことです。けれどもすべては自分事なのだと理解ができれば世界が変わっていきます。言うことを聞かない子どもも、機嫌の悪い夫も、話の通じない部下も、悪口ばかり言うママ友も全部自分が作り出したものなのです。

そして、ご縁のあった方にはご縁があるのです。今、目の前にいる人、これから先に出会う人、再会する人、きっとお互いに必要としているからこそ、出会っているのです。自分の生きたい世界を歩めば同じような世界で暮らす人たちと出会っていきます。

あ、推し活もわたしを彩る大切なピースです♡昔の自分だったらいい歳してやば~!って思っていたと思いますが、胸を張って楽しもうと思います。
長い長~い自己紹介にお目通しいただきありがとうございました。
いつかどこかのタイミングでご縁があったらお目にかかりましょうね!!

最後になりますが、今月末に成人する息子を見るにつけ、子宮ごと摘出するしかないと言われるがままに子宮を摘出していたら、今の息子には出会えなかったのだと誕生日が近づくたびに思います。

自分が納得できる選択や体験をすること
毎日を生ききること
そして生きていることを実感し感謝すること

この積み重ねがわたしの人生そのものです。
いつ命が果てても生ききったぞ~と思えるように今日も過ごしていきます♡
一日一生。
 
お読みくださり、ありがとうございました。

2023年5月7日
 

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