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24-7 to heaven #2

 コンソールゲームのクリエイターである『僕』と、そのアシスタントで不思議な女の子の『彼女』。そして、もういない『君』。「いっそ海外とかどうです?」なんて『彼女』の言葉が、どうにも『僕』は気になって。


***


 「器用なくせに不器用だよね。意味わかんない、」

 そう言って笑う君がいない、レイニー・チューズデー。雨音が心地いい。


 彼女のせい、とは言わないけれど。あれ以来、トラベル雑誌によく目が留まる。ニューヨーク。パリ。ロンドン。リゾートにアウトドア。歴史景観に自然遺産。煌びやかな写真に目が眩む。もちろん、安月給の僕にそんな余裕はない。会社帰りに立ち寄ったツタヤで、小さなため息をつく。本棚にトラベル雑誌を戻して、隣にある雑誌を適当に取る。パラパラとめくると『人生のリスタート』という記事が目に入った。肩を並べて笑い合う老夫婦。脱サラ後、豆腐屋に転身したらしい。

「なんでバルセロナで豆腐屋……」

 僕の呟きが聞こえたのか、隣のサラリーマンが訝しげにこちらを見た。ごまかすようにイヤフォンをはめて、乱暴にスマホを操作する。流れ始めた音楽は予想外の大音量。情けなくなるほど大きく肩が揺れた。雨音にかき消されないよう音量を上げていたのをすっかり忘れていた。慌てふためく僕の耳元には、アリシア・キーズがニューヨークと叫び続けている。その珍しい選曲に、僕ははたと気づいた。

 案外、僕は本気で考えているのかもしれない。ここではないどこかで暮らしてみたい、違う空気を吸ってみたい──なんて。

 恐らく、僕は思っていた以上に飽き飽きしていたのだ。君のいない日常を憂鬱に過ごす自分に。暗い部屋にうずくまるだけが、できることの全てだと思い込もうとしている自分に。いたずらに孤独に耽ろうとすることは、多分、本当の意味での孤独を選ぶことじゃない。進んで孤立して、自分を哀れんで、適度にかわいそうな自分を可愛がる小さな愉悦。明るい場所で戦うこともなく、きらめく笑顔と自分のひどい顔を見比べることもない安堵。そして、こんな哲学的思考をめぐらせる自分に酔うナルシシズム。

「やば……何こじらせてんの、」

 長いため息がこぼれた。どうにも調子が狂う。彼女の影響を受けすぎた。思いの外、僕は明るい場所に立っているらしい。彼女の立ち居振る舞いや言葉が、僕を光の下に引きずり出したのだ。本当にやめてほしい。こういうことは気づいてしまえば、もう引き返せない。閉ざされた扉の隙間から、光が差し込む感覚に似ている。暗闇に慣れた目には僅かな光でも眩しい。眼球が破裂しそうだ。ずくん、と鈍い疼きが瞳の奥を締めつける。いつもどおりに動けなくなる。いつもどおりの顔が崩れる。僕が僕でなくなる。

 ──ああ。そわそわする。浮き足立っているのがわかる。

 結局、人間も蛾と同じだ。根本の部分では、どうしたって光に引き寄せられる。それを理屈や後悔で覆い隠しても、光を求める本能だけは隠しきれない。感傷なんて捨て置けと本能が告げるのだ。生きるための本能が。

 アリシア・キーズの声がやみ、ジェイ・ジーのラップが耳に届く頃、僕はどうしようもなくなってついに吹き出した。彼女の『楽しいフリ』にあてられたのかもしれない。久しぶりの感情に胸が熱くなっているのがわかった。僕はわくわくしている。この先、永遠に続くと信じていた決まり切った日常が、唐突に歪み始めたのだから。それも、僕自身が『いつもどおり』でいられなくなったせいで。綺麗に貼り続けていた壁紙の、最後の数センチで馬鹿馬鹿しい失敗をするように。完成間近の絵画を予想外の絵の具で汚すように。僕の織り上げた灰色のリズムは、突如現れた得体の知れない女の子にあっけなく壊された。

「ニューヨーク……」

 小さく歌って、笑みを嚙み殺す。ニューヨークを『可能性の街』と歌い上げる曲に陶酔する自分。なんだかむず痒い。

 ようやく、彼女の言葉を理解した気がした。

 彼女は、こうして周りの人間を『楽しい』気持ちにすることで、自分が生きやすい場所を作り出しているのだ。自ら働きかけて、取り巻く環境を変えていくのだろう。それは利己的であると同時に利他的。彼女は、なかなか出来た人間なのかもしれない。

 でも、タイプの違う僕は、そんなに器用に振る舞えない。

 だから、僕は──自分自身が変わるしかないのだろう。


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