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過去の自分に言葉をかけるとするならば――映画『すずめの戸締まり』感想文

「さあ、目を閉じて。

頭の中で、3歳の自分をイメージしてください。その子は、どんな顔をして、どんな髪型をして、どんな服装をしていますか?

その子を膝に乗せて、ぎゅっと抱きしめてあげてください。そして、話しかけてあげてほしいのです。

…………あなたは、3歳の自分に一体どんな言葉をかけてあげますか?」


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新海誠監督の『すずめの戸締まり』を観た。

『君の名は。』『天気の子』も観ているし、次の作品も世間のトレンドに乗っかって観るつもりではあった。でも、そこまで強く興味を持つことはなかった――……金曜ロードショーで冒頭12分が公開されるまでは。

圧倒的な映像美に、私の視線はぐいとテレビに惹き付けられた。鈴芽の声が違和感なくスッと耳に入ってくる。可愛らしさとみずみずしさを兼ね備えた声は、ヒロインにふさわしい。鈴芽が思わず「きれい……」と零してしまう草太の美しさにも、私は感嘆の息をもらした。草太の落ち着いた声音からは、誠実さも感じ取れた。

物語は進み、日常的な場面から鬼気迫るシーンに変わっていく。扉の向こうから飛び出した禍々しい災いを、鈴芽と草太が懸命に封じようとする。ハラハラドキドキしながらも、物語が始まっていく期待に私の胸は膨らんでいた。バタンと扉が閉まって、暗転。ルール―ルルル、と透明感のある歌声が聞こえてくる。画面には『すずめの戸締まり』というタイトルが、清らかな書体でありながらも堂々と映し出された。冒頭だけで、その世界観に引きずり込まれた。

金曜ロードショーでは『すずめの戸締まり』を「少女の冒険譚」と表現していて、私は「そうか、これは冒険物なんだ」と納得した。主人公の鈴芽が「閉じ師」の青年・草太と、災いをもたらす扉を閉めていく物語――……。そんな筋書が、冒頭12分と予告映像から想像できた。

「面白そう」と思った。面白い要素が、ずるいくらいに詰まっている。明るく活発だけど、実は深い悲しみを背負っている少女・鈴芽。麗しい顔を持ち、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせる青年・草太。キュートな瞳が特徴的な白い猫・ダイジン。ダイジンは、マスコット的キャラクターとして人気が出るだろう。グッズの販促まで想定しているに違いない。草太が椅子に変えられてしまうのなら、呪いが解けるまでの間、扉を閉じる役目は鈴芽が担うはずだ。鈴芽と草太は、扉を閉めながら心の距離を縮めていくんだろうな――……。2クールのアニメで放映しても、1話1話楽しめそう。

心を躍らせる一方、どうしてもひっかかることがあった。冒頭12分の映像でも流れた「緊急地震速報」の音。扉から飛び出した災いは、震災だった。警報音は実際のものとは異なるようだが、どうしてもドキリとしてしまう。『すずめの戸締まり』は、単なる冒険譚ではない。震災をテーマにした物語なのだ。それを、私はどれだけ受け止めることができるのだろうか。


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『すずめの戸締まり』は、期待以上の面白さだった。

とにかく映像が美しかった。口を閉じるのを忘れるくらいの美しさだった。空、海、山、陸橋、ビル……。私の住む日本はこんなに綺麗な場所だったのかと、初めて思った。実際の景色はいくらでも見られるのに、アニメーションを通して観た風景でその美しさを知るとは。映像美を堪能するためだけに、もう一度足を運びたい、とも思った。

クスっと笑ってしまう場面も、ところどころにあった。椅子になった草太は、不憫だが愛くるしい。フェリーのデッキで椅子と猫が夕陽を背負いながら対峙している様は、まるで刑事ドラマのようでおかしかった。

鈴芽と草太のコミカルな会話のやりとりも印象的だった。

「ソウタ、明日のてんきは?」
「ソウタ、おんがくかけて?」
「ソウタ、しりとりしよう?」
「ソウタ、今日の株価は?」
 ヘイ、Siri! とばかりに我先にリクエストをし続ける双子に、私は慌てて言う。
「あのっ、ソウタ、そんなに賢くないから!」
「なんだと鈴芽さん!」

『小説 すずめの戸締まり』p123より。
神戸のルミさんのお家で、子守をしているとき。

「草太さん……!」
私はほとんど涙声になりながら訴えた。
「もしかして、富士山過ぎちゃったんじゃない!?」
「ああ、そういえば――」
「なによ、気づいてたなら教えてよぉ!」

『小説 すずめの戸締まり』p166より。
東京へ向かう新幹線で。
このあと、「ごめんごめん」と感情のない声で謝る草太さんが面白い。


宮崎から愛媛、愛媛から神戸、神戸から東京へ。鈴芽と椅子になった草太は、呪いを解く鍵となるダイジンを追って北上していく。鈴芽たちは様々な人と出会い、助けられながら、災いをもたらす扉を閉めていく。

「やったな、鈴芽さん。君は地震を防いだんだ!」
「え……」
地震を防いだ。私が?
「ほんとに……?」
暑い波のような感情がお腹から湧き上ってきて、私の口元を笑顔にしていく。
「嘘みたい! やった、出来たっ、やったあっ!」
草太さんも笑っている。私の服も、きっと顔も、泥だらけだ。それが何かの証しみたいで、こんなことまでも誇らしくて嬉しくて楽しい。
「ねぇ、私たちって凄くない?」

『小説 すずめの戸締まり』p90より。
愛媛で開いた扉を閉めたあとの二人の会話。

鈴芽と草太が様々な地域、国に赴き、戸締まりの旅をする物語が見てみたくなった。この冒険がずっと続いたらいいなと思うほどだった。


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しかしながら、『すずめの戸締まり』を手放しで賞賛できるかと言われれば、それはそれで難しかった。その理由は、やはり“震災”にある。

物語の中盤から後半、明らかに「東日本大震災」のことが語られている(映画ではその名が登場することはなかったように思う)。鈴芽は、その震災で母と家を失っていた。

劇中では、地震は「扉から出てきたミミズが地上に倒れたときに起こる」とされている。ミミズが倒れる前に扉を閉めれば、地震を防げるらしい。ただ、数百年に一度のような巨大な災害となると、扉だけでは抑えきれず、要石で封じる必要があるそうだ。……我々の世界の地震の原理とは、あまりにも異なる。ファンタジックな設定なので、私もきちんと理解できている自信がない。

「どうして、あのときの震災は防げなかったの?」
「閉じ師たちは何をしていたの?」
「お母さんを返して!」

私が鈴芽なら、草太さんに掴みかかってしまうかもしれない。もちろん、草太を責めることはお門違いであるのもわかっている。閉じ師は、アンサングヒーローのような職業なのだ。でも、地震を食い止める術があり、それを彼らが知っていたのだとしたら、恨んでしまいそうなのだ。どうして止められなかったのだ、と。

物語と現実を混同しすぎてはいけないことも、わかっている。それはそれ、これはこれ、だ。でも、「被災された方は『すずめの戸締まり』を観て、どう感じるのだろう」とも思った。東日本大震災で失ったものは、あまりにも大きい。震災が起こらなかったら。もし本当に、それを止める方法があったのだとしたら。現時点では、その方法はない。だからこそ、我々は日々防災に努めている。地震の起こる前提が物語と現実とでこうも違うと、「実際に起こった震災をこの文脈で語るのはどうなんだろうか……」と思ってしまう。


以前、東北出身の読者の方から、震災の話を聞いたことがある。彼女はすさまじい体験を語りながら、「私よりももっと大変な思いをしている人がいるから、私は全然平気です」と言った。

私は、その話になんて返していいのか、本当にわからなかった。今も、正直に言えばわからない。返答に正解などないとは思うのだけれど、それでも自分の浅はかな言葉で彼女を傷つけることだけは、避けたかった。でも、黙りこんでしまったことが正解だとも、到底思えない。

「東日本大震災」を物語として語ること(とりわけ、エンターテインメントの分野で)は、難しい。でも、「難しいから沈黙を貫くべきだ」ということではない、とも思う。それでは、風化してしまう。物語の力を使えば、後世に渡って色褪せずに紡がれていくはずだ。

私は、震災の物語としては『すずめの戸締まり』を手放しで賞賛できない。宣伝方法や表現の仕方において、もっと心を配る必要があったと思うからだ。

けれど、「東日本大震災」を扱うことへの挑戦そのものには、意味があったようにも、思う。これから先、「東日本大震災」をテーマにした作品はきっと増えていくだろう。未来のクリエイターたちが「東日本大震災」をどのように語るのか。できる限りこの目で追い、ともに考えていきたいと思う。私だって、物語を紡ぐ、一人のクリエイターなのだから。


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『すずめの戸締まり』で私が特に印象に残ったのは、鈴芽が4歳の自分自身に声をかける場面だった。

私は、このシーンを自分でも体験したことがあるような気がしていた。いや、実際にはあるわけがないのだけれど……。様々な記憶を掘り起こす。そうだ、数年前に参加した講演会だ。そこで、「3歳の自分に何を語りかけるか」というワークが行われたのだった。


「さあ、目を閉じて」

登壇者の指示に従い、私は瞼を下ろす。まるで深い森の奥にいるかのように、会場が静寂に包まれた。「3歳の自分をイメージしてください」と、登壇者が続ける。物心つく前の記憶なんてないのだが、私は写真で見た3歳前後の自分を懸命にイメージした。

「その子を膝に乗せて、ぎゅっと抱きしめてあげてください」

子どもを膝に乗せた経験がないので、想像なのに戸惑う。子どもの頃、母に膝の上に乗せてもらったことを思い出しながら、3歳の私をひょいっと膝に乗せた。

「その子に話しかけてあげてほしいのです。あなたは、3歳の自分に、一体どんな言葉をかけてあげますか?」

問いかけられた途端、どういうわけかわからないけれど、涙があふれでてきてきて止まらなかった。

たしかに、精神的に参っていた。ライターになって半年が経ち、初めて自分が担当したパンフレットが校了した頃だった。緊張性頭痛がひどくなり、後頭部をバットで殴られているかのようなパコーンとした痛みに悩まされていた。パソコンやスマホの画面を見るのがしんどくて、書きたいのに書けない。書かなかったら、社会や友達に置いていかれるんじゃないか。読者に忘れ去れるんじゃないか。そんな不安で胸がいっぱいになっていた。

泣いているのは、私だけではなかった。嗚咽や鼻をすする音が耳に届く。3歳の自分を抱きしめながら、いい歳した大人たちが、みんな泣いていたのだった。


「ねえ、すずめ――。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る」
時が早送りをしているように、星空が目に見える速度で回っていた。
「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんてできない。この先に何が起きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんてできないの。」
幾筋もの流れ星が空に瞬き、やがて草原の向こうの空がピンクに染まりはじめた。朝だ。私は朝日に照らされていくすずめを見つめながら、もう一度繰り返した。
「あなたは、光の中で大人になっていく」

『小説 すずめの戸締まり』p356より。
常世にて、17歳の鈴芽が4歳の鈴芽に語りかける。


鈴芽の言葉を聞きながら、涙があふれた。

ここまで鈴芽の冒険を見つめてきた、私は知っている。

母の代わりに鈴芽を育ててくれた椿芽さん。昼休みに一緒にお弁当を食べるほど仲良しの、絢とマミ。愛媛で出会い、何も聞かずとも鈴芽の旅を応援してくれた千果。車に乗せて神戸へ連れて行ってくれたルミさん。ルミさんは、夜中にいなくなった鈴芽を本気で心配してくれた。椿芽の同僚の稔さんだって、ずっと鈴芽のことを案じていた。鈴芽の故郷まで車を走らせてくれた芹澤さんや、鈴芽に助言をくれた草太の祖父・羊朗のことも、忘れてはいけない。

鈴芽がたくさんの人に愛され、助けられてきたのを知っている。映画を観ながら、私は鈴芽のことを「なんて人に恵まれた子なんだろう!」と思ったのだった。そして、私自身も、鈴芽のように素直でひたむきで、一生懸命な子がいたら、手を貸したくなると思った。鈴芽は人に愛される才能がある。ここまで道を切り開いて来られたのは、鈴芽自身の力だ。その事実は、何よりも代えがたい自信になるだろう。

「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの」

これまでの人生で得てきたものを自覚し、幼い自分に「大丈夫だ」と言い切る。私には、鈴芽の強さが眩しかった。


講演会のワークで、私は3歳の自分を目の前に、「あなたは光の中で大人になっていく」とは言ってあげられなかった。ただただ、泣いて、「ごめんね」と言った。「ごめんね、私はあなたのことを傷つけてしまう。たくさん辛い思いをさせてしまう。本当にごめんね」と謝った。3歳の私は、キョトンとしていた。

今、私が3歳の自分に声をかけるなら、何を伝えるだろう。あの頃と同じように、泣いて謝るような気がする。私はまだ、自分の歩んできた道に自信を持てていない。「明るい未来が待っている」と言ってあげることは、できない。私は私に、嘘をつくことも、きっとできない。

それならもう、やることは一つだ。数年後の私が、3歳の自分に「大丈夫だよ」と声をかけてあげられるように、今の私が頑張るしかない。あふれた涙をぬぐう。3歳の私の、曇りなき瞳を見つめた。

「お願い。もう少しだけ、未来の自分を信じて待ってて」



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