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「0組の机にポエム書いてるの私です。」第8話

 16時19分、新幹線は予定通り金沢駅に到着した。

 悠日はInstagramのDMを開いた。夏目先生からのメッセージが届いている。

「兼六園口の鼓門の下にいます」

 いよいよ、2年ぶりに央と夏目先生が再会を果たす。悠日ですら口から心臓が飛び出そうなほど緊張しているのだから、央の緊張はいかほどのものだろう。横目で央の様子をうかがう。しかし、いつものツンとした表情からは、残念ながら何も読み取ることができなかった。

 歩きながら、頭上を仰ぐ。幾何学模様のガラス天井から、オレンジ色の夕陽がしっとりと降り注いでいた。正面には巨大な鼓門。ワッフルのような四角いマスのついた木の屋根に、細い柱を何本も組み合わせてできた太い足。繊細さを兼ね備えながらも、重厚感を抱かせる壮大なゲートだ。鼓門を目の前にすると、「金沢にいる」という現実がはっきりと押し寄せてきた。

 鼓門の足下には、観光客なのかビジネスマンなのか、ちらほらと人影が見えた。その中で、膝が隠れるほどの長さの黒いダウンを羽織った男性が、真っ直ぐ悠日たちに視線を送っていた。一瞬、央が足を止める。悠日も足を止めた。央は、真っ直ぐ彼を見つめ返していた。

「……先生」

 消え入りそうな声で央が呟く。あの人が夏目先生? 悠日は央にそう尋ねようとしたけれど、それよりも先に、

「先生!」

 と、央は一目散に駆け出していった。

「中原!」

 その男性も、央を呼んだ。やっぱり、彼が央の恋した夏目先生だったのだ。央はぼすっと勢いよく彼の胸に飛びこんだ。夏目先生もしっかりと抱きとめる。鼓門の下、柔らかな夕陽に照らされながら抱き合う二人は、まるで映画のワンシーンのように美しかった。二人のことは二人にしかわからないが、悠日の胸にもグッとくるものがある。悠日は数歩うしろで、静かに二人の様子を見守った。

「先生、ごめんなさい、私のせいで……!」

 夏目先生の胸の中から、くぐもった央の声が辛うじて悠日の耳にも聞こえてくる。央は泣いているのかもしれない。蚊帳の外にいる自分が少しだけ歯がゆい。

「大丈夫、大丈夫だから。よく来たな。遠かっただろう」

 夏目先生は央の頭を撫でた。父親が娘にするような、優しく、愛情深い手つきだった。凜々しい眉、バチッとした二重、シュッと通った鼻筋、色黒の肌。ダウンの上からでもわかるほどがっしりとした身体付きは、国語の先生というより体育の先生のようだった。悠日にはない男らしさと懐の深さ。夏目先生を超える包容力を手にするには、あと20年くらいかかりそうである。

「君が、一緒に来てくれたお友達?」

 央を胸に抱きとめたまま、夏目先生は悠日に目を向けた。穏やかでありながら、熱い眼差しだった。

「……はい。浅海 悠日っていいます。Instagramでやりとりしていたのは自分です」
「浅海くんだね、ありがとう」

 心地いい重低音の声の響き。初対面なのに、夏目先生に対してすがりつきたくなるような安心感を覚えた。

「ここだと寒いから、よかったらうちで話そう。帰りの新幹線に間に合うように送るから」



 酒造『夏目屋』は、夏目先生のInstagramに書いてある通り、金沢駅から車で20分ほどの場所にあった。悠日は後部座席に腰を下ろし、運転する夏目先生の姿をこっそり観察した。父も母も兄も車を運転できるけれど、夏目先生には家族からは感じたことのない大人の色気が漂っていた。18歳になったら、免許を取ろうと思った。

 夏目先生は、悠日たちを酒造の裏にある実家へ案内してくれた。酒造は車で通り過ぎたときにしか見えなかったけれど、やや古めかしい木造の建物だった。白塗りの壁には、紫紺の垂れ幕がぶら下がっている。白い筆文字で『夏目屋』と書かれていた。夏目先生のInstagramのアイコンは、これだったのか。

「いらっしゃい! 寒かったでしょう!」

 悠日たちを出迎えてくれたのは、夏目先生の奥さんの「容子ようこさん」という人だった。セミロングの髪を右耳の下で一つに結んでいる。30代前半くらいだろうか。化粧っ気はなかったけれど、雪国の人らしい白い肌には、シミや毛穴一つない。パステルイエローのエプロンが、大きなお腹を覆っていた。この人が、夏目先生の奥さん。ちらりと央の表情を盗み見る。央は、鼓門で泣き腫らした顔のまま、余所行きの微笑を浮かべていた。

 住居のほうも、酒造と同様に古い建物なのだろうと想像していたら、小ぎれいな新築2階建ての一軒家だった。家の中はよく暖房が効いていて、ホッとするようなぬくもりを感じる。車から降りて玄関へ向かうまでの間も、「ビュオオオ」と文字に表したくなるほどの冷たい風が吹き荒んでいた。さすが北陸地方。夕暮れ時ということもあって、寒さが一層身に染みた。勢いで学校を飛び出してきたせいで、教室にコートを置いてきてしまったことが悔やまれる(スクールバッグも置いてきた)。ブレザーだけで耐え得る寒さではなかった。

 居間には、昔ながらの掘りごたつがあった。夏目先生曰く、古い家を建て替える際に、「掘りごたつはそのまま活かしてほしい」と施工業者へ頼んだらしい。子どもの頃から使ってきた愛着のあるものだから、残しておきたかったのだと言う。掘りごたつの上には、ほかほかと湯気を立てている料理がこぢんまりと並んでいた。

「昨日の晩ご飯の余り物なんだけど、よかったら食べていって」

 容子さんは申し訳なさそうに言った。ぶり大根に豚汁、炊き込みご飯……。品数は少ないが、突然の来客のために慌てて用意してくれたのだろう。「ありがとうございます」とお礼を言いながら、掘りごたつに足を入れる。冷え切った足先から、じわじわと身体がほどけていった。

 悠日のお腹が、「ぐ~」と小さく鳴った。考えてみれば、学校を抜け出してきてから食事を摂っていない。緊張でお腹が空いている感覚なんてなかったけれど、食べ物を目の前にすると、身体が空腹であることを思い出し始めた。「いただきます!」と元気よく両手を合わせて、輪島塗の箸に手を伸ばす。央も、おずおずと遠慮がちに「いただきます」と手を合わせて、悠日に続いた。

「遠いところ、本当にありがとうなあ」

 夏目先生が央の向かいに座った。その横に、容子さんもお腹を気遣いながら腰を下ろす。悠日はずずっと豚汁を啜った。豚汁には、じゃがいもではなくサツマイモが入っている。空っぽの胃袋に、温かい豚汁が優しく沁み渡った。

「あなたが、中原さん?」

 容子さんが央に尋ねた。央は持っていた茶碗をテーブルに戻してうなずいた。

「一度会ってみたいと思ってたの。夫から素敵な詩を書く子がいるって聞いてたから」
「いや、私の詩なんて全然……」
「そんなことないぞ。自信持て、中原。Instagramだって、もう200人もフォロワーがいるじゃないか。画像だってセンスあるし……。あ、画像は、浅海くんがつくってくれてるんだよな」

 央の謙遜を、夏目先生が否定する。急に話を振られて、悠日はぶり大根を頬張りながらうなずいた。ぶりの旨味が口いっぱいに広がる。

 夏目先生の自宅へ向かう車中で、『桂冠高校2年0組』のアカウントの話になった。Instagramは悠日が勝手につくったこと、画像は仲間たちの手を借りながら制作していることなどの裏事情を、夏目先生は興味深そうに聞いてくれた。

「うちの酒造もSNSに力を入れたくて、今、寺子屋の生徒の高校生にInstagramを教えてもらってるんだ。

 それで、その子たちが『おもしろいアカウントを見つけた』って『桂冠高校2年0組』を教えてくれたんだよ。昔、中原のノートで見た詩と同じものが投稿されていたから、もしかして、これを書いているのは中原なんじゃないかって思って」

 夏目先生は、『桂冠高校2年0組』をフォローした経緯を話してくれた。アカウントの存在を知り、それを夏目先生に教えてくれた寺子屋の高校生に、悠日は心の中で感謝した。この巡り合わせがなければ、央と夏目先生は再会できなかった。

 それにしても、数年前に読んだ央の詩を今も覚えているなんて。夏目先生の記憶力に、思わず感嘆の溜息が出る。それだけ、教育熱心で生徒思いの先生だったのだろう。

「だから、浅海くんからDMをもらったときは、本当にびっくりしたよ。ありがとう、連絡をくれて」

 夏目先生が悠日に視線を向けた。目をそらさず、相手の瞳を真っ直ぐ見つめるところが央と似ている。熱い眼差しを向けられると、どこか気恥ずかしくなって、悠日は小さく首を横に振った。

「心残りだった。当時の生徒たちにも、何も言わずにこっちに帰ることになっちゃったから。特に中原は、変な誤解をされてツラかっただろう。先生のせいで、申し訳ない」

「先生は何も悪くありません!」

 夏目先生が頭を下げると、すかさず央が声を上げた。

「私が、周りの人たちに先生とのことを誤解させてしまったんです」

 央は箸を置いた。食事にはほとんど手をつけていない。悠日はもうすぐ食べ終えるところだったが、空気を読んで一旦箸を置いた。

「先生は、問題になるようなことを何もしていません。でも、私が先生のことを好きだったのは本当だから。それが原因で、先生が学校から追い出される羽目になった。全部私のせいです」

 央は、奥さんの前にもかかわらず、夏目先生への恋心をストレートに告げた。ひょっとして、これは修羅場なんじゃないのか。悠日は今更だがドキドキしてきた。怖くて、容子さんの顔が見られない。

 夏目先生は頭を上げた。黒い目には強い意志が宿っている。

「中原のせいじゃない。先生が軽率だったんだよ」

「違います。私が先生の優しさにつけこんだんですよ。私に居場所がないって知ってたから、先生は優しくするしかなかった」

「そんなこと言うなよ。中原はつけこんだりしてない。先生が、教師として正しくなかった。それだけだよ」

 夏目先生は、きっぱりと強い口調で言い切った。

「中原の気持ちや家庭のことをわかっていながら、何もできなかった。周囲に誤解をさせたのは、中原じゃない。先生だよ。何ができるのかを考えて、然るべき行動を取らなくちゃいけなかった。先生が力不足だっただけだ。本当に申し訳ない」

 潔い夏目先生の言葉は、カッコ良かった。「好きにならないほうが無理」と言っていた央の気持ちが、悔しいけれどわかってしまう。子どもからすれば、大人であるだけでいつも正しく感じる。大人だって、子どもの前では正しくあらねばと振る舞っているのだろう。だからこそ、素直に非を認められる大人は少ない。

 央は「でも……」とこたつの上に視線を落とした。「もういいから」と夏目先生が手を伸ばす。央の頭をぐりぐりと激し目に撫でた。うつむきながらも、央の口角はかすかに上がっていた。

「おうちの人とは、どう?」

 夏目先生の問いかけに、央は顔を上げた。少しだけ、表情が柔らかくなったように見える。

「今は叔母さんの家で暮らしてるの」
「そっか。進路はどうするんだ? やっぱり、大学?」
「うん。それはそのつもり」
「そっか。親御さんも大学に行かせたいって面談で言ってたもんな」
「でも、親が決めた大学じゃなくて、自分で選んだ大学に行きたいなって」
「うん。先生もそれがいいと思う」
「文章表現の勉強がしたくて、どんな大学があるか探してるとこなの」
「中原は賢いから、きっと第一志望の大学に行けるよ。勉強、頑張れよ」

 二人の会話が弾む。悠日はとなりでそれを聞きながら、心がぽかぽかと温かくなっていくのを感じた。止まってしまった二人の時間が、2年の歳月を経てようやく動き始めた。今は、誰にも邪魔されない、二人だけの時間だ。央の苦しみは、少しでも癒やされただろうか。周囲の誤解は、二度と解けないかもしれない。でも、二人の心が通い合っていることが大切なのだ。央も夏目先生も、もう自分自身を責めることがなければいいと願う。

「おかわり、持ってくるね」

 悠日にコソッと耳打ちをして、容子さんが掘りごたつから立ち上がった。容子さんは、何も怒っている気配がなかった。それどころか、聖母のような穏やかな微笑を浮かべている。もしかしたら、容子さんも、夏目先生と央のことをずっと心配してくれていたのかもしれない。

「手伝います」と、悠日は彼女のあとを追った。



 夏目先生は、予定より一本早い新幹線に乗れるように車を出してくれた。「ご家族も心配だろうから、少しでも早く帰れたほうが」と、気を遣ってくれた。央と夏目先生が顔を合わせたのは、わずか一時間程度。もっと話をさせてあげたいのはやまやまだけれど、直子との約束は絶対に守らなければならない。央を無事に直子の元へ送り届けるまでが、悠日の任務だ。

 悠日と央は鼓門の下で足を止め、夏目先生に別れの挨拶をした。濃紺の夜の帳が下りた鼓門は、紫色にライトアップされて、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「先生、”お父さん”になるの?」

 央は夏目先生に尋ねた。突然の問いかけに、悠日は違和感を覚える。

「うん。年明けには」
「……そっか」

 夏目先生は短く答えた。央の相づちが空に消える。

「先生、私のせいで、本当にごめんなさい」

 最後にもう一度、央は夏目先生に深く頭を下げた。

「中原、もう謝らないでくれ。謝るのは先生のほうだから。ごめんな。たくさんイヤな思いをさせて。いくら謝っても謝りきれないけど」

 央は頭を上げて、黙って首を左右に振った。真っ直ぐ夏目先生の瞳を見上げる。

「私、先生に詩を褒めてもらえたことが何よりもうれしかった。これからもずっと、書き続けるつもりです」

 夏目先生はうなずいた。

「私、今、すごく楽しくて。高校で友達もできたし、毎日笑って学校に行けています。お父さんとお母さんとはまだ話せていないけど、叔母さんもいてくれるし、もう平気です。先生が心配するようなことは、一つも残っていません。

 先生がいなくても、私はもう大丈夫です」

 央の言葉ははっきりとしていたけれど、どこか震えているようにも聞こえた。瞳の中で、涙がキラッと輝く。夏目先生は穏やかに微笑んで、もう一度力強くうなずいた。

「大人になったら、また来なさい。そのときはこの辺も案内するし、一緒にうちの酒を飲もう」
「はい、ありがとうございます」

「――って! 浅海くんブレザーだけ?! 寒くない!?」

 夏目先生は、出会ったときには気づかなかったらしい悠日の格好に仰天した。二人の別れを邪魔してはいけないと黙っていたが、凍てつくような風に悠日の身体はガタガタと震えていた。

「ででででも、もう新幹線乗るんで……」
「東京でも夜は冷えるでしょ! これ、着ていきな!」

 夏目先生は慌てて黒いダウンを脱いで、悠日の肩に羽織らせた。彼のぬくもりをダイレクトに感じる。あったかい。まるで太陽に包まれているかのようだ。これが夏目先生の包容力。悠日の涙腺がゆるんだ。

「い、いいんですか、ありがとうございます……! 宅配便で送り返しますね……!」
「いいよ、返さなくて。そのまま使って」

 ありがたさの余り泣き出しそうになる悠日に、央は苦笑していた。

「じゃあ、先生、私たち、もう行くね」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう」

 悠日と央は夏目先生に背を向けて歩き出した。鼓門を抜け、ガラス天井のドームの中に入る。少しだけ、風が和らいだ。

「頑張れよーーっ!!」

 うしろから、夏目先生の絶叫が聞こえた。悠日と央は顔を見合わせて振り返った。白いニットを着た夏目先生が、大きく手を振っている。直子が「爽やかなのに熱血教師」と表現した理由が、ようやく腑に落ちた。

「はいっ!」

 央は大きな声で返事をして、精一杯手を振り返した。

 


 17時56分発の新幹線は、金沢が始発だ。

 悠日と央は、金沢の地との別れを惜しむように、ゆっくりとホームを歩いていた。線路上には雪がチラチラと舞っている。風通しのいいホームは凍えそうなほど寒かった。きっと、サンタクロースのトナカイよろしく、鼻先が赤くなっていることだろう。吐息がくっきりと白く現れては、消える。早く新幹線の中に入りたい。夏目先生からコートを借りられて、本当によかった。

 思ったより、ホームには人が多い。明日は土曜日だ。夜のうちに金沢を出発して、土日を東京で過ごす人が多いのかしもしれない。自由席、座れるかな……。先頭車両まで行けば大丈夫だろうか……。

「央ちゃん、先頭まで行ってもいい?」

 悠日は振り返りざまに尋ねた。しかし、うしろを歩いているはずの央がいない。彼女は少し向こうで足を止め、その場に立ち尽くしていた。

「央ちゃん?! どうしたの?!」

 大急ぎで央の元へ駆け戻る。央は肩を落とし、黙ってうつむいていた。

「央ちゃん?」

 不安になって顔を覗く。ぎょっとして息を呑んだ。央の大きな瞳から、大量の涙があふれていた。楕円系の縁なし眼鏡が一生懸命それを受け止めているが、受け止めきれなかったぶんがぼろぼろと零れ落ちていく。

「大丈夫?! どっか具合――」
「悔しいの!!」

 央は勢いよく顔を上げた。赤くなった頬を涙が伝う。ブスっと、悠日の心に鋭いガラス片のようなものが突き刺さった感じがした。

「わかってたけど、いざ目の前にすると悔しくてたまらないの!」

 央の悲痛な声がホームに響く。彼女は悠日の両腕を強く掴むと、彼の身体を揺さぶりながら叫び続けた。

「きれいな奥さんがいて、年明けには子どもだって生まれるんだよ! 最初から、どこにも私の入る余地なんてなかった!」

「え、」

「先生にとって私は! 今も昔もただの生徒でしかなかったんだよ!!」

「なか」

「たったの一度だって、恋愛対象にさせてもらえなかった!」

「央ちゃん」

「教師として正しくなくたっていい! 私はそれくらい先生のことが好きだったの! 先生の”一番”になりたかった!!」

 央は「うわーん!」と子どものように泣き声を上げて、ドンっと激しく悠日の胸にぶつかってきた。彼女の腕がぎゅうっと悠日の腰を締めつける。痛い。華奢な身体付きをした央に、こんなに締めつける力があるなんて思っていなかった。痛くて、折れそうだった。でも、央の心のほうが、もっと痛くて、折れそうに決まっている。

 わーわー泣き喚く央の頭を、そっと撫でてみようと試みた。夏目先生の愛情深い手つきを、懸命に思い出す。……できない。できるわけがない。あんなふうに優しく、央に触れられる気がしなかった。

 これが、「人を好きになる」ということなんだ。
「恋をする」ということなんだ。

 号泣する央のつむじを見下ろしながら、気づく。好きな人に気持ちが届かなかったときに、泣いて悔しがれたことが今までにあっただろうか。いや、ない。だから、「悠日は全然私のことなんて好きじゃなかった」と言われたのだ。

 ホームを吹き抜ける風が、鋭く襲いかかる。夏目先生のダウンは、もうちっとも温かくなかった。

 ああ、俺は、今まで誰のことも、本当に好きになったことなんてなかったんだ。


(つづく)

↓第9話


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