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「あなたの書いているものはエッセイではありません」

3年前の春、ある経営者の出版講演会にスタッフとして参加していた。

講演会の準備は、朝早くから行われた。講演で使用するワークシートや、宣伝用のチラシを袋詰めして机に並べ、会場入り口に本やグッズが買える物販スペースを作る。

その経営者を慕う人々が有志でスタッフをやっていたから、SNSで見かけたことのある人も多かった。それなりに準備は大変だったけれど、大人の文化祭のようで楽しかった。

講演のあいだ、一部のスタッフは特にやることがないので、会場の後ろのほうで話を聞くことができた。と、言っても、遅れて入ってきたお客様の案内や、終了後のお客様のお見送り(あるいは物販コーナーで接客)があるので、まるまる全部聞けるわけではないのだが。

講演会が始まって数分後、下っ端のスタッフだった私は会場に入ることができた。同じようにスタッフをやっていた友人と後方の座席に腰を下ろし、講話に耳を傾ける。

その経営者は、講演会中に「ワーク」「シェア」の時間を頻繁に設けていた。講演会のテーマに関する「問い」を経営者が投げかけ、その「答え」を各自ワークシートに書き込む。これが「ワーク」だ。で、その回答を、近くに座っているお客さんと話して、互いの考えを共有する。これが「シェア」、というわけだ。

私たちスタッフも「ワーク」と「シェア」に参加していた。どんな問いであったのかはもう思い出せないのだけれど、私は回答として「エッセイや小説とか、これからもたくさん文章を書いていきたい」と並んで座った友人に話した。そうしたら、彼女から思いも寄らぬ言葉が返ってきたのだ。

「阿紀さんの書いているものはエッセイではありません」


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私にそう言い放った友人は、出版業界で働いているわけでもなければ、ライターでもなかった。働き方の相談にのったり、プチ起業の支援をしたりしている個人事業主、所謂「起業女子」だ。

昨今の個人事業主にとって、SNSは重要な集客ツールになっている。友人もブログの発信などは行っていたが、他人の文章に対してあーだこーだ言えるほど上手いとは(私は)思えなかった(失礼。ごめんなさい)。

まさか彼女にそんな返答をされると思ってもいなかったので、あからさまに狼狽えてしまった。

「え、あの、どういうことですか?」

「エッセイは日記的なものだと思うんです。阿紀さんの文章は意見が述べられているものが多いから、どちらかと言えばコラムに近いものなんじゃないでしょうか。だから、エッセイではないと思います」

念のため断っておくと、「私の書いているものがエッセイであるかコラムであるか」というのは、講演会のワークとは一切関係ない。ただ私は、「これから先も文章を書き続けたい」と言っただけなのである。将来の展望を語っているのに、急に文章のジャッジをされても困る。そもそもこの講演会はそういう場所じゃない。

彼女に悪気はなかったと思うけれど、なんだか自分の書いているものを否定されたような気がして、正直に言えばあまり良い気がしなかった。

書いた本人が「そうだ」と言っているんだから、それでいいんじゃないの? どうして他人に「これはそう」「これは違う」って判断されなきゃいけないのだろう。

でも、友人だし波風を立たせるのも嫌で、私はその場で「そういう認識もあるかもしれませんね」とだけ述べた。彼女とはそれからも連絡を取り合っていたけれど、遊ぶ約束をすっぽかされて以来お付き合いをやめた。

――だけど、彼女の「阿紀さんの書いているものはエッセイではありません」という言葉は、今でも心にひっかかっている。魚の小骨が喉にひっかかったみたいに。


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当時、ライターとして働いていたにも関わらず、私はエッセイとコラムの違いをよくわかっていなかった。文章を書く仕事をしていた人間として恥ずかしい限りである。彼女の言葉は、私にエッセイとコラムの違いを知るきっかけを与えてくれたのかもしれない。

最初に、辞書を引いた。以下、愛用の電子辞書(高校時代に買ったもの)に収録されている、三省堂の「スーパー大辞林」の引用である。


エッセー
①形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文。また、意の赴くままに感想・見聞などをまとめた文章。随筆。エッセイ。
②ある特定の問題について論じた文。小論。論説。
コラム
①新聞や雑誌で、短い評論などを載せる欄。囲み記事。
②古代ギリシャ・ローマ建築の石の円柱。
③カラム


私にとっても、これがエッセイとコラムの違いだった。私の記事は、いつも個人的な視点で起こった出来事を論じている。それに、新聞や雑誌に掲載されているわけではない。noteにアカウントを作って、私の責任で自分の文章を載せているのだ。だから「コラムではない」と思っていた。

けれど、noteそのものを個人で発行している新聞や雑誌に見立てることも……まあ、できなくはない(いささか乱暴かもしれないが)。となると、コラムと称してもいいような気がしてくる。

では、彼女の言っていた「エッセイは日記的なもので、コラムは意見を述べるもの」のソースは一体どこなのだ?

私はインターネットで「エッセイ コラム 違い」を検索しまくった。それぞれの違いを論じているページはたくさんあったけれど、おおむね辞書に書いてあるようなことが述べられている。

しかし、疑い深く、完璧主義な私は、誰が書いているかわからないものをやすやすと鵜呑みにできなかった。


えーい、餅は餅屋だ!!


以前主催していたイベントにお越しくださった編集者さんに、「エッセイとコラムの違いを教えてください」と、そのまんまの不躾なメッセージを送ってみた。

編集者さんは快く「いいですよ!」とお返事をくださり、まずはご自身のブログで細やかな回答を書いてくださった。以下、編集者さんのブログを一部引用いたします。


確かにコラムとエッセイって、結構にてるものでして。。
そして、もしかしたら…ですが、編集者や研究されている方によっても見解の多少のずれはあるかもな…というイメージもなきにしもあらずですが。。。
ひとまずは「出版界で編集者をやっている私」の視点からお伝えしますね。

コラム…社会的な事象や背景をネタに、個人的見解や分析から発信された「意見」や「評論」・「提言」などが含まれている文章

エッセイ…日々の身近な生活レベルで、見たり・聞いたり・感じたり・体験したり、本を読んだり…等して得たことから、思ったことや伝えたいこと、書きたいことを形式にこだわることなく気楽かつ散文的に書いた文章


コラムの方が、「啓発性」「伝達性」が高いとおもいます。読み手に訴求する力や、読み手の心、ひいては社会を動かす力を持った文章。

エッセイは、読む人のため、というより「自分のため」に書いている!感が強いとおもいますね。だから、日記とかはまさに「エッセイ」の部類。たとえエッセイに「私はこう思う!」という意見が入っていたとしても、コラムに比べると、伝播力は薄めだとおもいます。

あと、コラムはとても「ジャーナリスティック」な性質も多分に含まれる文章になっていることが多いですね。そもそもコラムって「新聞」「週刊誌」「雑誌」など、かなり社会性・ジャーナリズム性が強い媒体での連載が多いから、よりそういった内容が強く出やすいとおもいます。

いっぽうでエッセイは「プライベート」性が濃い内容になっていたりもしますよね。「日常感」というか、敷居が低く・狭い情報に終始している文でしめられているとおもいます。

(中略)

どこか、エッセイ以上にコラムのほうが社会や人に対する明確で強烈な提言やメッセージ、意見が強くあらわれているようにおもいます。その意味で、コラムはエッセイ以上に人および社会的に影響を与えやすい文章かなあ、ととらえますね。

『エッセイとコラムの違い。』2018/09/06 渡邉理香(書籍編集者・プロデューサー)さんのブログより引用・一部抜粋)


編集者さんは私の書いているものについても、個別で返信をくださった。


「阿紀さんが書いていらっしゃる文章は、私もコラムだと思います。わりと社会性の強いネタをもってきて、ご自身の見解を述べていらっしゃるでしょう?

お天気がどーのとか、草木がどーのとか、そういう生活感レベルより、時事的なテーマをキャッチアップして分析しつつ、自分の意見をのべているので、エッセイよりはコラムよりかなあ。

そしてnoteのツールそのものが、どちらかといえばコラム的要素が強いものが多いかなあと思いますね。アメブロはエッセイに近いですね。編集者やクリエイターがnoteで書いているのも、その性質が強いからではないでしょうか」


編集者さんの話を聞くことで、ようやく自分の書いているものが「エッセイではない」と認められた。「阿紀さんの書いているものはエッセイではありません」とばっさり言ってきたあの友人の見解は、おおむねこの編集者さんと同じであるような気がする。

編集者の言ってることは信じるけど、起業女子の言っていることは信じないという私のいやらしい人間性がまざまざと浮き彫りになった。


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私が意識的に「エッセイ」という言葉を使うようになったのは、2018年に入ってからだった。


2016年から約2年間、私は「起業女子」という村のなかで細々とセミナー個人セッションを行っていた。冒頭に登場した経営者も、友人も、「起業女子」として活動をする中で出会った人々だった。起業女子の世界では、自分の得意なこと・好きなことでセミナーや個人セッションをする人が多く、周りがやっているならやってみようと、私も軽い気持ちでサービスを始めた。

私の文章を読んで会いに来てくださる方がいるのは、お金を払ってサービスを受けてくださる方がいるのは、ものすごく、ものすごく、うれしいことだったし、このうえない誉れだった。

でも、本心を言うと、私のやりたいことは「文章を書くこと」だけだった。セミナーや個人セッションにあまり時間を割くと、文章を書く時間がなくなってしまう。なぜだか(ありがたいことに)申し込みも後が立たなくて、ご予約は2ヶ月先まで埋まっていた。

ああ、このままでは、「セミナーをする人」「セッションをする人」になってしまう。「文章を書く人」からどんどん遠ざかってしまうことに恐怖を感じていた。

ちゃんと、「文章を書く人」になろう。
「イベントをする人」じゃなくて、「書いて、表現する人」になりたい。

そんな思いから、個人セッションの募集を停止し、セミナーの企画をやめた。2017年暮れの決断だった。


「文章を書く人」になるために、自分の経験を綴った文章をたくさんnoteに書いた。その一つひとつを、私は「作品」と呼んでいる。それらを読まれるために使ったのが「エッセイ」というハッシュタグだった。

今でこそnoteの「エッセイ」ジャンルは大人気コンテンツだけど、当時はそれほどの人気ではなかったような気がする。じわじわとエッセイジャンルの人気が高まり始めたのが、(私の体感では)2017年~2018年頃だった。

正直に言うと、それまで一度も「エッセイ」なんて言葉を使ったことがなかった。「エッセイ」というお洒落なカタカナがどうにも性に合わない。それに、書店で本を購入する時も、小説ばかりを選んできた。エッセイと呼ばれるジャンルを好んで読んだことはない。読了したエッセイをあげるとすれば、朝井リョウ氏の『時をかけるゆとり』だけだ。たいして読んだこともないのだから、「エッセイ」が何であるかわかるはずもなかった。滑稽である。

――それなのに、「エッセイ」という言葉を使った。

私は、「エッセイ」という便利な言葉に頼ってしまっていたのだ。だって、みんな使っているし、流行っているし、そうしたほうがカッコイイかなって。わかりやすい記号として、使っていたんだと思う。ずる賢く、計算高い私がそうした。

ハッシュタグをつける時、「これは本当にエッセイなのか……?」と、不安に思っていたのは事実だ。エッセイだけでなく「コラム」のハッシュタグも使った。あと「日記」「ブログ」もよくつけた。

内心、「エッセイじゃない」と思うことのほうが多かった。「コラム」でも「日記」でも「ブログ」でもない。私は、自分の書いているものを「コレ」だと明確に定義する言葉を持ち合わせていなかった。


私の書いているものって、一体、何??


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私は「自分語り」という言葉をよく使う。noteで最初に作ったマガジンにも「自分語り」という単語をいれた。


noteの書き手の多くが、爽やかな風が吹き抜けるような、キラキラとみずみずしい、情景の浮かぶ清らかな文章を書いているというのに、私の文章は、どこか泥臭い。底辺を這いつくばって、泥の中でたまたま見つけた、磨けば少しはキレイになるんじゃないかというを、必死に掬いあげて文章を書いている。私だって、水面に反射する「キラキラ」みたいな文章が書きたかったよ。書けるなら。

世間的には、前者の美しい言葉の並びを「エッセイ」というのだろう。泥の中から生まれた文章に、「エッセイ」という高貴な言葉はふさわしくない。だから私は、揶揄として使われることの多い「自分語り」を多用するようになったのだ。これくらいが、私にはお似合いなのかもしれない。私の文章は、「エッセイ」にはならない。「エッセイ」として認められない。


でも、書いているものに「自分語り」という名前をつけてから、泥まみれの最下層にやわらかなが差し込んだような心地がした。「エッセイ」には、なんとなくキレイなことを、なんとなく聞こえの良いことを書かなきゃいけないような気がしていたけど、「自分語り」ならどこまでも本音をさらけ出せる。それがどんなに醜くても、汚くても、弱々しかったとしても構わない。だって「自分語り」だから。


5年間、noteで「自分語り」を繰り広げてきた。読んでくれた人から「心が揺さぶられた」「考えさせられた」とご感想をいただけることが増え、ようやく「自分語り」でも読んでもらえると手応えを感じるようになってきた。これから、「自分語り」というジャンルをもっと確立していきたいと考えている。私は、文章における「自分語り」の第一人者になりたい。

「エッセイ」は書けなくても、「自分語り」なら書ける人がたくさんいると思う。世界は、なんでも「エッセイ」になるような美しく尊いことばかりではない。そんな世界があるなら行ってみたい。嘘くさくて秒で逃げ帰ると思うけど。

「自分語り」に明確なルールはない。でも、ポイントとしてひとつ挙げるとすれば、「どこまで本音をさらけ出せるか」なのかもしれない。「自分語り」を通して吐きだしてきた私の本音は、どれも泥の中から掬いあげた譲れないものばかり。それは、ガラス玉のようにキラキラと光り輝いているはずだ。だって、嘘や建前や見栄えや虚勢がないから。泥に隠された真実にも、美しい光が宿るのかもしれない。



エッセイやコラムの定義には様々な見解があります。いろいろ書いてしまいましたが、私は、書いた本人が「エッセイ」だと言うなら「エッセイ」でいいんじゃないかと思っています。しかし、出版されて本屋さんの棚に並ぶなど、「個人の活動の範囲」を超えていくような時には、他者のジャッジも必要になるのではないでしょうか。
もう三年前の出来事ですが、編集者さんに丁寧に教えていただき、自分の書いているものがどう見えるのか、客観的に知れてよかったと感じています。改めて、この場を借りてお礼をお伝えさせてください。ありがとうございました!

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