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205号室に暮らした 春編

#鶴田さん


一階に住むその人をなぜ鶴田さんなのか知っているかというと、玄関に名前が掲げられていたからである。表札ではない。立派な筆文字で「鶴田」と書かれた半紙が、玄関のドアの上に貼られていたのである。


鶴田さんはおばあさんで、ひとりでアパートに越してきた。誰かが訪ねてくるのを見た記憶はなかったし、こちらも時折見かけるくらいで、実は彼女のことはあまり覚えていない。しかし、雪が積もった時など、足を滑らせたら大変とお節介にも彼女の部屋の前を雪かきした記憶はある。張り詰めた空気の中でしんと静まり返ったドア。北国の、朝はマイナス10℃にもなる冬を、老いた体で越すのは大変だったろうと今なら思う。


そしてこんなボロアパートなのだ。ドアは薄く、朝は凍り付いて開かないことだってあった。遅刻しそうな時は最終兵器とばかりに薬缶のお湯をかけてドアを開けるのだが、水をすぐに掻き出さないと、あっという間に凍り付いて、今度はドアが閉まらないという地獄を見る。当然、毎晩の水道管の水抜きは必須の作業だ。


ある日のことだった。例のごとく水抜きをしようと、ハンドルを回した時だ。バキッと音がしたと思ったら、なんとそのハンドルが折れた。老朽化、といってしまえばそれで終いだが、こんなことってあるんだろうか。思わず目の前を疑った。錆びた金属製のハンドルは根元から折れて、手の内にある。そして困ったことに、水抜き作業を終えていない。これでは水道管が凍って破裂してしまう。今夜はもう遅いし、修理屋を呼べるはずもないのだから、水を細く垂れ流したまま眠るほか選択肢がなかった。トイレが一番難儀した。レバーを紐で括って、ちょろちょろと水が出る位置で固定しなければいけなかった。


翌日、駆け付けた修理屋に新しいハンドルを取り付けてもらった。ホッとしたのも束の間、「ちょっと見せていただいてもいいですかねえ」と修理屋はアパートの管という管を見回るようにして、「ああ、やっぱり」とひとり納得するようにして、「この家、欠陥住宅ですよ」とあっけらかんと言い放った。「ハンドルは直しましたけどね、引っ越しをご検討された方がいいですねえ。余計なお世話ですが」


長い冬の間、これからどう過ごそうか、そんなことばかりを考えていた。鶴田さんのことはすっかり気に留めなかった。ほんの少し寒さが緩んだ頃、雪がまだ残る駐車場に一台の車が停まり、中から中年の男女が降りてきた。喪服を着ている。管理人が立ち会うようにして、鶴田さんの部屋を開け、中から何かを運び出している。小一時間ほどで作業を追えたのか、何事もなかったようにドアは閉められ、車は立ち去った。後日、清掃業者の車が停まり、何らかの作業をしていたようだ。新しい住人を迎えるために、季節はもう春になろうとしていた。

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