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コインパーキングは喫煙所として正式に開放すべき

 今年はじめ、ある著名な哲学者の講演を聞いた。全体的には団塊世代の説教じみていて快くなかったが、さすが「空き地」についての持論には引き込まれた。

 曰く、戦後の日本には「ドラえもん」に出てくるような空き地があちこちにあり、事実上の公共スペースだったと。

 しかし前回の東京五輪に向けた街の浄化/再開発を機に、私有地として囲い込みが始まる。柵が建ち、立ち入り禁止の看板が掲げられる。これには、幼心に「公」が「私」に回収されていく感覚があったと。そして囲い込みの行き着く先が、新自由主義者による「民営化」ブームなのだろう、という話だった。

 この論旨の全てが正しいかはさておいても、なにか重要なことを指摘していると感じた。

 登壇者の言うように、ジャイアンと子分たちの溜まり場だった「空き地」はどこかへ消えてしまったのだろう。しかし、はて、本当にそうだったろうか?と引っかかった。普段歩いている近所の街並みを思い浮かべてみると、やはり一つ、この人が見逃している新しい「空き地」があるぢゃないかと閃いた。バブル崩壊後、地主たちが土地の有効利用のために、余った空間をどれもこれも似たような形で整備しているぢゃないか。

 そう、コインパーキングだ。

 僕たちには、コインパーキングというオルタナティブな空き地があるーーそれに気づいた途端に胸のすく思いがした。ミレニアルズの自分としてはこのおじさんから学ぶことはもう何もない、僕はタバコが吸いたい、と感じたので、講演会場から退出した。そして煙をくゆらせながら、思い出した。そういえば僕は、コインパーキングでタバコを吸うのが習慣になっているではないか。全てつながった。そこでタイトルになる。

頭の狂ったタバコ弾圧

 日本国内の喫煙をめぐる状況は今、正気の沙汰でない。

 前回とは違い(前々回と同じく)実現しなかった今回の東京五輪を口実として、日本国政府および東京都は近年、喫煙者に対して頭の狂った弾圧政策を推し進めてきた。

 2002年代の東京都千代田区条例を皮切りに、「路上喫煙を禁じる」という憲法違反っぽさにあふれた条例が全国で次々誕生した。罰則に濃淡あるものの、いつの間にか都市部では、路上で喫煙するという普通の行為が監視や取締りの対象になった。

 そういう条例ができると、すぐに洗脳される自警団みたいな一般人が「注意」と称して接近し口撃を仕掛けてくるようになった。のみならず、ほとんど自警団でしかないような何の権限もない一般のシルバー世代を非常勤で雇って現場を見回りさせる、という姑息な行政のやり口が常態化していった。

 まんをじして国と東京都は今年4月、飲食店内を原則禁煙とする旨を盛り込んだ改正法・条例を施行。このようにまず路上で一切吸えなくした上で、飲食店内からも締め出すというインチキじみた順序で弾圧を進めた。

 連中はこれで、なし崩し的にタバコを社会から”排除”したつもりだろうか?

自由の戦士たちは、動いていた

 ふざけるな、僕たちにはコインパーキングがある。

 自由の戦士たちは、こうなることを早めに察知していた。路上喫煙禁止条例が増えてからというもの、戦士たちは路上で変な連中に絡まれないように、路上から一歩、私有地に入る方策を採っていた。

 もちろん路上喫煙自体が普遍的な人権の範疇だと思うので本来、遠慮の必要はない。しかし、誰しも面倒ごとは避けたい。僕たちはタバコを楽しみたいだけだ。そこで私有地に入るのだった。私有地は路上ではないので、役所の人間に文句を言われる筋合いはない。あり得るとすれば、まずは「民・民」の争いであり、お前らの介入を受ける気はない。そういう顔つきで私有地にいれば、変な人がいきり立って近づいてくることもなかった。

 しかし私有地と言っても、明らかに人家の庭などで吸ったり、吸い殻を捨てたりはしない。喫煙者には道徳的な人間が多いので、そういうふうに個人の生活をおびやかすことはしたがらない。また子どもたちが多くいるような場所も好まない。

 そこで、レジスタンスたる自由の戦士たちの定番喫煙スポットとしてひそかに定着してきたのが、街のあちこちにあるコインパーキングだ。コインパーキングであれば、土地のオーナーこそいるだろうものの、基本的には財閥系企業などが管理している。そういった強者に迷惑がどうとか気を遣う必要なんて無い。

 戦士たちは大抵、アルファードの陰などに空きスペースを見つけ出す。ダチョウのように注意深く周囲を見回し、うるさそうな奴がいないことを確認した上で、ささやかな喜びの時間を始めるのだった。

 そうして僕たちは、コインパーキングという新しい空き地に、人知れず居場所を見出してきたのだ。弾圧が当たり前になったこの時代に、僕たちは一人ひとりがいわば無自覚なシチュアシオニスト(状況派)の芸術家として振る舞った。都市にある無数のヴォイド(空虚)を転用(デトゥルヌマン)し、いつしか、僕たちによる僕たちのための憩いの場として再定義していたのである。

メリットしかない

 社会情勢を鑑みると、コインパーキングほど喫煙に適している場所はない。

 まず、日本の都心から旧来の「空き地」がなくなったことは先述の通りだ。また政治的な理由で「広場」もほとんどない。そんな中、コインパーキングは唯一と言っていいほど余裕のある都心の空間である。

 運転の切り返しやバックのためには、どうしてもある程度のスペースが必要になるのだろう。「眠った土地の活用」という動機も相まって、あまり神経質にならずにゆとりを持って作られているパーキングが多い。喫煙所として開放するにはうってつけだ。

 次に、コインパーキングには気軽に入りやすい、という点も大きなメリットだ。本来の利用者が歩行で出入りする関係上、また無駄な設備投資をオーナーや管理者がしたくない事情からして、セキュリティなどあってないようなケースがほとんどだ。多くの場合、堅牢な柵は設けられず、道路からスッと一歩で立ち入ることができる異世界。

 加えて、実は、コインパーキングを現状のまま放置すると効率が悪く、喫煙所にした方がかえって効率が良くなるという研究結果を最近、ノルウェーの研究グループが発表した。コインパーキングというだけあって時折は車が出入りするものの、それ以外の時間は車がおいてあるだけ。特に使われていないし、誰もいない。いわば開けた場所にある「青空倉庫」のようなもので、都心の土地利用効率や社会貢献という点からすると、もったいないと結論せざるを得ないだろう。

 こうした自然の摂理に後押しされ、既に「コインパーキングで喫煙しよう」(略称「コイスパ」)という運動が盛んになってきているようだ。何を隠そう僕もコインパーキングでの喫煙(略称「コイスパ」)を習慣としているのだが、同じようなたくらみの喫煙者と出会ってしまうことも少なくない。お互い気まずそうに違う方向を見つめながら火を着けるわけだが、なぜか一抹の連帯感というか、安心感を覚えるのも確かである。

 かくして、実態としては都心のコインパーキングは現在ほぼ喫煙所としても利用されており、公共的な役割を帯び始めているのだ。これはコンビニのゴミ箱事情にも似た現象とイメージしてもらいたい。行政がゴミ箱を撤去したあおりで、コンビニがゴミ捨て場として一定の公共性を背負わされている現状に通ずるものがある。

経済効果も無限大

 機運も高まった今、表題を提案したい。

 この際、コインパーキングを正式な喫煙所に位置付けてはいかがだろうか?

 そんなに手間はかからない。すべての弾圧条例や法律に「ただしコインパーキングはのぞく」と一文、適用除外の旨を加えるだけで済むことである。

 実現した場合を想像してみよう。コインパーキングはどこにでもあるので、喫煙者としては思いついたときに近くで悠々とコイスパできる。素晴らしい。

 また、タバコが嫌いな人々にとっても悪い話ではない。普段、用もなくコインパーキングに出入りする機会は少ないはずだ。すなわち喫煙者と近づく機会も減り、すみ分けが成立するのだ。コインパーキングを本来の目的で利用する人については、しょせん短時間のことなので大勢に影響はないだろう。

 ポイ捨てが心配なら掃除夫を雇えば雇用創出にもなり経済効果はgotoトラベルキャンペーンを超えるであろう公算のgotoコインパーキング事業。灰皿を置けば灰皿を生産する町工場が潤いはじめ、下町に活気が戻って、ロケットやボブスレーも再発明されるだろう。

 これは、広く市民の利益を追求する政策だ。そのため与野党関係なく超党派の議員連盟を設けて実現すべきだが、千里の道も一歩からというもの。まずは賄賂が必要になるので、そのためにクラウドファンディングをしようと思う。その集まった金でとりあえず焼肉をお腹いっぱい食べて、食後の一服を近くのコインパーキングで楽しんでから、落ち着いた頭で今日書いたことを再度考え直すべきだろう。それでも成立すると確信できれば、僕は本気で動く。同志たちも心の準備をしておいてほしい。

おっと、どうやらニコチンが足りなくなってきたので、これにて。

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