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すべてがパロディに見える時代に
今、すべてがパロディに見える。
何が?
だから書いてるように、すべてが。字義通り、すべて。
何の?
今より前のすべて。今の社会のすべてが、前時代のすべての本物をもとにしたパロディに見える。
SNSも記事もメディアも、パロディ
まず、SNSは井戸端会議のパロディだ。
そしてnoteの記事は本物の作家や本物のライター、ジャーナリストたちの随筆やコラムのパロディだ。
いまニュースと名乗るのは広告であり、いまメディアと名乗るのは広告であり、本物のマスメディアのパロディだ。
いま記事と名乗るのは広告であり、本当の取材記事のパロディだ。
いまライターと名乗るのはかつての週刊誌取材記者や各分野の本物のライター、ノンフィクションライターたちのパロディだ。
専門家も講師もサロンもパロディ
いま動画と名乗るのはテレビのパロディだし、いま講師と名乗るのは前時代の本物の講師たちのパロディだ。
いま専門家と名乗るのは名誉教授たちのパロディだし、いまビジネスと名乗るのはかつての実業のパロディでしかない。
いまパパと名乗って女を買うのは本物の父親のパロディだし、いま邦ロックと名乗るのは本物のロックのパロディだ。いまmetooを名乗る独白は本物のレイプ被害者の手記のパロディですらある。
いまサロンを名乗るものは本物の芸術家たちが集ったサロンのパロディでしかない。いま愛国をさけぶものは本物の愛国のパロディだし、いま芸人を名乗るものは本当に芸があった時代の芸人のパロディにすぎない。
お前、誰?
すべてがパロディだ。
すべてがくだらない、だけならまだいい。何か全く新しいものが次々生まれ、その大半がくだらない、という話ならまだいい。しかし、タチの悪いことに、くだらないだけではない。
すべては、前時代にあった「本物」の威光や威厳…言い換えれば先人たちの努力を前提に、その肩書きや外枠、ガワだけ借りてきている。そして、そのパロディをやっているのだ。新しいものなど全く生まれていない。
何ら専門教育を受けていない専門家、何ら取材をしていないニュースメディア、何らまともなものを書いていないライターや作家が、それを名乗る。
まともに取材したり、芸術を結晶させたりしてきた前時代の本物たちがいたからこそ、その肩書には威光がある。だから、今の呆れた連中は、そのガワだけ借りてくる。
講師とは偉大だったし、専門家は論文やまともな著書を重ねてこそ専門家だった。それを借りてきて、何もないやつが、講師や専門家を名乗る。
わりーけどな。
お前、誰だよ?
はっきり言おう。日本語空間のインターネットにはびこるこいつらは、文化や社会の穀潰しである。こいつらは社会になにも貢献しないパチモンだ。貢献しないだけでなく、社会が生み出してきた成果、重ねてきた蓄積、大いなる人類の遺産を、不適切な形で使い潰す穀潰しである。害悪だ。そして、そんなもんをありがたがってる奴らも同じだ。
本物がある場所は、たったニつだけ
すべてがパロディにしか見えない時代になってしまった。するとおそらく、本物は次の二つの場所にしか、ほとんど存在しなくなった。
アンダーグラウンド、そしてアーカイブ。
そこにしか本物は存在しなくなってしまった。
それに気付いたやつだけが天国いけるよ。僕たちだけでも、きちんと見極めて生きよ。
peace。
すべてがパロディに見える、という感覚はこの1年くらい日に日に強まっているので、もう少し考えを深めていきたい次第です。
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