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『トランスジェンダー問題』を読んで。

いま話題になっている『トランスジェンダー問題』(ショーン・フェイ著、高井ゆと里訳)を読了しました。400ページ以上ある大著ですが、高井ゆと里さんのとても分かりやすい和訳で流れるように読めました。すべての章が示唆と学びに満ちていますが、最終章である「第7章フェミニズムの中のトランスたち」の内容は本当に圧巻でした。トランス当事者はもちろん問題意識のある人は、この章だけでも絶対読むべきだと思います。私が特に気になった箇所に触れてみたいと思います。

女性とは全世界的な「性別の階級」なのである。その階級を構成するのは、女性の生物学を共有する全ての人たちであり、同じように少女として育てられ、それゆえシス男性やトランス女性など、もう一方の支配的な「性別の階級」へと生まれた人々には決して近づけない特有の経験を共通に持っている人たち全員である。

女性という存在が「性別の階級」だとする認識が本書の底流に流れています。この場合の女性とは、「女性の生物学を共有する全ての人たち」であり、あくまで性自認のいかんにかかわらず、「同じように少女として育てられ」、その経験が男性とはまったく相容れない役割や存在感を帯びさせることになります。家父長的な男女差別の構造は、このような女性に共通する「特有の経験」に裏打ちされているのです。

男性の女性に対する優位という、ヒエラルキーを伴う男女の厳格なジェンダー二元論の押し付けは、それ自体が植民地支配のメカニズムだった。(略)植民地以前の多くの社会や、先住民の人々は、ジェンダーを二元的なものとはみなしていなかった。私たちがすでに見てきたように、2つ以上のジェンダーがあった社会も存在し、そこでは家族や子育てをめぐる社会的な役割も、大きく異なっていた。

性別二元論の構造は、歴史的には植民地支配のたくみなメカニズムに由来しています。私たちはともすれば二元論は決して揺るがない人間の本来の気質だと考えがちですが、政治的・経済的な植民地支配が施される以前の社会のあり方は多元的であり、男女以外のジェンダーが存在することも珍しくはありませんでした。歴史的な強者による弱者の支配・統治という仕組みが、構造的なジェンダー差別を形成してきた事実を正確に認識する必要があるといえるでしょう。

こうした植民地支配についての説明が示すのは、社会そのものの変化に応じて、どれほど急速にジェンダーについての社会の理解が変わり得るのかということである。それらの例がはっきり示しているのは、女性であることや男性であることの意味は、固定され安定した存在者ではなく、むしろ時間とともに移り変わり得る生物学的、政治的、経済的、文化的要素の複雑な配置だということである。

男性はもともとにおいて稼得労働や対外的な活動が向いていたとされていたわけではなく、女性はもともとにおいて育児や家事といったケア労働が向いていたとされていたわけではないのです。これらはあくまで社会の変化の中で産み落とされてた構造や意識に過ぎないといえます。このような前提に立つならば、大切なのは現に世の中においてどのようなジェンダー規範が存在しているかということ以上に、そのような規範はそもそもどのような歴史的な経緯の中で形成されてきたものであり、これからの社会が向かう先においてはどのように変化することが想像されるかということではないでしょうか。

私たち全員は、幼いころから眼に見えている生物学的な性別の特徴と振る舞いとを結びつけるよう教えられるが、そうして教えられたやり方は、他者についての私たちの直観を形作るにあたって極めて力を持つことがある。こうした解釈のプロセスと、私たちがどのように他者とかかわりまた振る舞うのか、ということにその解釈が及ぼす仕方は、私たちがジェンダーと呼ぶシステムの一部である。

だれが男に生まれ、女に生まれるかはまったくの偶然だといえます。でも私たちは、そうした生物学的な性別と、行動や考え方を紐付けて生きていくように、幼い頃から常に教えられています。このような経験は、無意識のうちの人間としての感性や思考を頭脳の奥底から更新するほどの影響力を持つと考えられます。その結果、私たちが他人とかかわるときは、無条件のうちに相手が男であるか女であるかによって、まったく対峙の仕方が異なるように習慣化されていくようになります。そもそも男と女は異なるものだという実態以上に、むしろこうしたプロセスによってジェンダーという規範がシステム化されているといえるでしょう。

女性たちはその本性から、他者を誘惑し、欺くものであるというミソジニスト的な修辞は、『創世記』以来、私たちの文化に影響を与え続けている。トランス女性に関しては、「トランスたちの身体はそれ自体で人を騙すものである」という発想と、その修辞は非常に簡単に結びつく。

キリスト教の教えに特有のミソジニ―的な男女二元論は、宗教的な教義や信仰が支配する範囲を超えて、広く西欧化された世界の文化全般に強い影響を与えています。男性が優越し女性が劣後するという構造においては、あえて男性から女性を志向するトランス女性的な発想は、「それ自体で人を騙すもの」であり、社会の規範自体に根底から挑戦する悪しきものであり、シス女性以上に下位に位置づけられる存在と見なされるのです。

多くの家父長的な男性にとって、トランス女性は恐怖(ホラー)である。女性として存在するということのために、家父長制の下で男性であることに伴う高いステータスを放棄する「選択をした」と考えられるからである。これこそ、私が本書で示してきたようにトランス女性が世界中で過酷な身体的暴力や性的暴力にさらされている重要な理由の1つである。

ある組織において長を占める男性がすべてを支配する家父長制的な考え方に立てば、男に生まれた者は経験を積み年輪を刻むことで長としての権限を帯びる可能性がある存在であり、それは女に生まれた者にはない明らかな「特権」を含んでいると認識されています。そのような発想においては、男性から女性を志向することは通常では考えられない愚かな決断であり、家父長制的な秩序それ自体を破壊しかねない危険な存在として、無理解や偏見だけでなく、あらゆる圧力や暴力、社会的な無力化にさらされることになるのです。

家父長制は、女性一般を処罰するために鍛え上げたのと同じ武器で、トランス女性を警察的に取り締まり、処罰する。そのことを理解することが、フェミニズムが成功するためになぜトランス女性の経験が必要なのかについての理解の鍵を握っている。

家父長制は、男性を社会の重要な構成員として重要視し、女性をその外縁に位置する無力な存在として支配しますが、このような仕組みは男性が女性に優越することを意識面でも行動面でも実現させる「武器」を持つことで成り立っています。フェミニズムの実践は、得体の知れない「武器」の正当性と歴史的な力の大きな壁に阻まれて、そうそうのことでは社会全体の変革を期待するだけの力を持ちえないのです。男に生まれ社会的に男性の経験を持ちながら、ありのままに女性を志向したトランス女性の存在は、男社会の構成員には目の上のたんこぶであっても、フェミニズムが成功するために今まで欠けていた経験の一部を十分に補充する可能性を秘めているのかもしれません。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。