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ウクライナ侵攻と現在のジェンダー観

ロシアがウクライナに侵攻しました。ある国が自国の主権や領土が侵されていないにも関わらず、他国に対して実力行使することはあらゆる観点から全面的に否定されるべきことであり、それが世界に誇る軍事大国かつ核保有国であり国連安保理常任理事国のロシアが、第三次世界大戦にもつながりかねない大規模な軍事行動を起こしたとなれば、ウクライナやその近隣国にとどまらず人類的な危機といっても過言ではありません。

私は国際的な政治や軍事に明るいわけではありませんので、今日はそのことを書くつもりはありません。でも、とても気になることが2点ほどあるので、少し意見を書いてみたいと思います。



素人なりの疑問ですが、なぜプーチン大統領はあらゆる観点から考えてあまりに愚かすぎる戦争に踏み切ったのでしょうか。ウクライナのNATO加盟をめぐる国際政治上の駆け引きやロシア国内の経済などをめぐる内部事情など、背景は多面的・複合的だと思います。

その上で、2つのことを思います。ロシアが、まさに世界に誇る軍事大国であったこと。そして、リーダーは(男らしく)戦わなければならないというある種の規範。この2つの前提に、プーチンという歴史的にも独特の個性を持つ権力者が掛け合わさることによって、今回のような惨事が引き起こされてしまった。かなり乱暴な意見ですが、このような感想を持ちます。

ロシアが世界第4位の軍事大国でなかったら今回のような事態にならなかったという仮説は、あまりにも乱暴です。でも、もっとウクライナとの軍事力が拮抗していたならば、少なくともある種の“独裁者”の判断にあたっての抑止力にはなったと思います。体格にめぐまれた屈強な人が無敵を誇るような武器を手にしたら、思わずそれを披露する機会を得たくなる。そんな心理的影響は、可能性としては否定できないでしょう。

そして、強いリーダー=男らしいという規範。豊かな国民生活への責任はもちろん国際的な秩序や環境問題などにも一定の責任を担う主要国のリーダーには、並外れた人格とリーダーシップが必要なのはいうまでもないと思います。それは、精神的なタフさや決断力、実行力もそうですが、同時に人間愛や人類愛ともいうべき高度な感受性が求められるはずです。

ところが、悲しいことに歴史は多くの場面でリーダーに「男らしさ」を求めてきました。現在においては必ずしも男性が勇ましく好戦的とは限らず、女性が平和的で友好的とばかりは限らないことが知られますが、少なくとも国のリーダーに求められるリーダシップという次元に理念化されると、いわゆる男らしさが、戦う姿勢や意思を貫く精神といった直線的な発想に凝縮される傾向が強いようです。

第二次世界大戦において日本が開戦に踏み切り総動員体制を敷いた経緯の中には、「男性性」が大きく作用していたという研究も多数ありますし、アメリアのブッシュ大統領がイラク戦争の開戦に踏み切った理由の一つは、リーダーとして「男らしく」ありたいと考えたからとする見解もあります。戦争に結びつくかもしれない極限状況においては、リーダーが男らしくありたいと思う精神構造は、必ずしも平和で友好的な姿勢を貫く方向に作用するとは限らないようです。

今は各国における軍隊や国連の平和維持軍などでも女性が多数所属しており、平均的な体格や身体特性における差異はともかく、そうした組織における役割に男女差はなくなりつつあります。職務における責任感や判断力にもちろん根本的な男女差はなく、女性が使命感や戦う姿勢を持つことは極めて当然と受け止められています。これが一国のリーダーであればどうなのでしょうか。

今ではさまざまな主権国家で女性が国家元首や首相になっていますが、女性リーダーが開戦に踏み切ったという事例は、少なくとも近代以降の歴史においてはほとんど共有されていません。リーダーでありながら、いやリーダーだからこそ、男らしさから解放され、男らしさから距離を置く。そうすることで、従来のリーダーの規範の限界や呪縛から進化し、明るい未来に向けた何か新たな手掛かりが得られるのでは・・・。このような仮説は、必ずしもふざけた不真面目な議論とも限らないように思います。



もう一点。今回のウクライナの事態を受けて、日本でも国防や軍事をめぐるさまざまな意見が飛び交っています。ウクライナに起こっていることは決して別の世界のことではなく、日本も近隣諸国との間で有事のリスクを抱えている以上は、それはある意味では当然のことだと思います。

そんな中で、「憲法9条は役に立たない」「日本も核武装すべき」という意見もあります。ウクライナの現実を目の当たりにして、これらの意見についても、心情的には理解できないことはありません。ただ、最終的に同意見とは思わないのは、日本が9条を改憲して国軍を持って、核保有国の仲間入りをした後の見取り図が、必ずしも平和を目指す姿勢としてリアルとは思えないからです。

祖国を侵略する勢力に対して徹底抗戦するウクライナの人たちを称賛する声が多数あります。私も同感に思います。ウクライナがもっと軍備拡大をして、核武装していたら、あるいはプーチンは軍事行動を起こさなかったかもしれません。あまりにも悲しい惨状を目にすると、そのような“力”を持たなかったゆえの現実だと、私も目頭が熱くなります。

その上で、そのような世界観の限界も同時に脳裏を襲います。軍備拡大に次ぐ拡大、核保有とさらなる拡大・・・。あえて不謹慎を覚悟で絵に例えるならば、鍛え上げられたマッチョな大男が、最新兵器を帯びて完全武装して、街じゅうのあちらこちらを闊歩するような光景です。そして、高性能な戦闘機やミサイル、さらには核兵器を維持・拡大するために、国家予算の多くが向けられ、医療や年金や教育の水準は切り捨てられ、文字通り強者が弱者を食うような社会。

私は政治的には必ずしも大きな政府が良いとは考えず、思想的にはむしろ保守主義に人類の叡智が込められていると考えるので、理念的にただちに改憲反対とか防衛費抑制を信条とするものではありません。現実的な政策判断には幅があり、最終的には国民の意思を受けた立法裁量が広範に認められると考えます。

ただ、これだけ「男らしさ」の有害さや限界がいたるところで飛び交っている時代にあって、ウクライナのような事態が起こったことをもって、やっぱり「男らしさ」は(全面的に)肯定されると構えることには、心から違和感を感じざるを得ません。むしろ、社会における男性性と女性性の揺らぎや相補性について、真剣に議論してそれぞれの立場や意見の違いを乗り越えて、見識を高め合う必要があると思います。



幼少期の男児が友達と身体を張ってじゃれ合ったり、戦車や戦闘機のおもちゃに興味を持つことを否定することはないと思います。でも、すべての男の子がそうとは限らないし、そうした興味関心にも必ず盲点があることを大人と共有していく姿勢が大切だと思います。

強い男性が弱い女性を守るという古典的な構図。これは一つのスタンダードなモデルではあっても普遍的なものとは限らず、ある社会変動によって密度が高まると思わぬ副作用をもたらすものでもあります。

物理的な力を超えた力を持つことによって、愛すべき人や子どもたちを守り、それぞれの違いを認め合うことによって、みんなで幸せな社会を実現させるよう、日々を真剣に生きていきたいものです。

こんな私は、平和ボケしていて、世界から取り残されるのでしょうか。。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。