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親孝行は誰のため?


私と母の間には大きな隔たりがあった。

母はいつも家には居らず、彷徨うように夜の街に出掛けては呑んだくれて、明け方帰っては怒鳴り散らした。

まだ7、8才の頃、両親は自営業で水商売を始めた。
それからというもの元旦以外の364日両親が夜、家にいることはなかった。

熱を出しても自分でタオルをしぼってひたいに乗せて、悪夢を見て泣き叫んだ。
鼻血を出しながら夜中吐いても誰も助けてくれない。
もちろん母に看病してもらった記憶もない。

母は私を娘としてではなく、自分の母の姿を私に求めていた。

だから、母にとって私は紛い物でしかなかった。

どんなに追っかけても、どんなに近づこうとしても、私は母の思うような理想の娘にはなれなかった。

カフェのガラス越しの母娘を見た。

銀座で買い物をして、お茶をして…

穏やかな風景に憧れて、いつも想像していた。

けれど、そんな風景は訪れることはないままなぜ、普通な関係すら築けないのだろうと苛立ちを感じて焦った。

ある日、レジでお会計を待つ母の後ろ姿がとても小さく感じた。
背骨がくっきりわかるほど、丸く曲がった背中に痩せっぽっちの肩。
赤いカーディガン姿は私の目線の遥か下でドキリとした。

あんなに強かった母が老いてしまった。現実が突き刺さる。

描いた母娘になりたいだけなのに関係をうまく築けないまま最悪な事態に陥るんじゃないかと畏れた。

そしてざわついた予感は的中してしまった。

ある日、母が脳内出血で倒れたのだ。

集中治療室のけたたましい電子音の中、管に繋がれた蝋人形のような母がベッドに横たわる。

医師はスニーカーにジーンズのラフな格好で

「脳幹ギリギリの部分まで出血が広がっています。お母さま、助からないか、助かっても寝たきりですね」と淡々と告げる。

まだ何も解決できてないのに?

勝手に死ぬなんて許さない。死なれてたまるか。

ちゃんと向き合って。

私はずっと苦しかったんだからちゃんと、
ちゃんと…


母から受けた仕打ちはほんとうに酷かった。

油まみれの町中華で生意気だとビンタを食らってビールをぶっかけられた。

嘘をつかれてお酒と新興宗教に学費を遣われていたこと。

ブスと言われ続けたこと。

女として張り合われたこと。

突然見ず知らずの男性の家に連れていかれてここに住めと言われたこと…

食事をしている時に突然、知らない人から「アンタ、随分自分勝手な悪い娘みたいだな」と突っかかられたこともあった。

母は思い通りにならないとどんなウソでもついた。

母とは呼べないたくさんのことがあったのに私は「死なれてたまるか」と思った。

まだ終わってないじゃない。
まだ何も母らしいことしてもらってないじゃない。

母が倒れてからの私は、平日はフルタイムで働き、帰路とは反対方向の病院へ面会に向かった。

一命を取り留めて、転院した最初の病院は最悪だった。

拘束は禁止されているのにベッドの鉄柵にキツく手足を拘束されている中年女性。

薄暗い明かりに殺風景な病室。

お金も盗まれた。

ある日、面会に行くと介護士の男性が
「ホラ、喰えよっ」と大きなカレースプーンで母の口に無理矢理押し込んでいるのを目撃してしまう。

母の口には入りきらなかった流動食が口から胸までべっとりと汚し母は怯え震えていた。

なのに、何故かざまあみろと思えなかった。

母の口元をティッシュで必死に拭いながら涙が止まらなかった。

それ以来、母は食べる意欲を失ってしまった。あんなに食にうるさかった人だったのに…

ぜったい転院させる。
急いで転院できる病院を探す。
母の状態から転院が可能か?考えて方法を探る。

医師との話し合いの席、医師はカルテすら見ていないのか、胃瘻を造る話を始める。
胃瘻?胃もないのに?
最低最悪な病院。サイテーな医者。

一通り胃瘻の話が終わったところで切りだす。

「母は胃がないのですが胃がない患者にどうやって胃瘻を造るのですか?」

医師は狼狽えていた。

「患者のカルテもまともに見ないような病院に置いておけません。転院させます」

そう云いながら私も震えていた。

あと1日遅かったら転院できなかった。
ギリギリのところだった。

転院先の病院でリハビリをしたら母は元の母に戻るんじゃないか、そうなったらもうお酒は飲まないで
理想の母娘になれるはずと信じて疑わなかった。

なのに私は、こどもの大学の学費の為に仕事はやめられない。

平日の仕事、家事、お弁当をつくって…週末は出勤と同じ時間に起きて往復4時間掛けて病院へ通った。

あの頃の私はどうやって時間を作っていたのだろう。

ただ母を助けたい一心だった。
それは私の中の何かを救い出したかったのかもしれない。

母が経管栄養の管を引き抜いてしまう。

病院は「誤嚥性肺炎にならないように引き抜かないようにしてください」という。

どうしたら引き抜かない?

手袋にマスコットをつけたものを縫ってみた。

会社のお昼休み、帰宅して、電車が出発する間際までとにかく縫った。

手作りのマスコットはスナップで取り外しができるように、手袋はすぐ汚れてしまうから、替えの分と飽きないようにとマスコットを考える。

その手袋をしてから「管を抜かなくなりました」と言ってもらえた。

日中、母は手袋のマスコットを眺めて過ごしているのだという。

そんな時間を四年弱過ごした。

母が亡くなって、私は少しおかしくなった。

もし、もっと早くにリハビリが始められていたら…

無理してでも仕事を辞めていれば…

タラレバのオンパレードで脳が埋め尽くされる。

母の死を受け入れられなくて、母が生きているのか死んでしまったのかわからなくなってパニックに陥った。

突然泣き出したり、何も解決出来なかった辛さにもうどうにもできない絶望感に苛まれた。

母の死後三年がたったある日、
「親孝行ってのはさ、自分のためにするもんなんだよ」と耳に飛び込んできた。
TVだったのか、ドラマか何か、
私は振り返った。

「そうか…私親孝行は充分すぎるくらいしてきた。親孝行に後悔は一つもない」

瞬間にしてわだかまりがスーッと消えた。

私たち母娘は、銀座でお茶することはなかったし、私はいつも母のお母さんだった。

母にとって私は紛い物の母親。
永遠に満たすことのない代替品。

私は私でずっと認めてほしかった。
娘として、「あなたが選んだ道だからお母さん応援するわ」と言ってほしかった。

娘として、ただ抱きしめてほしかった。

いまその叶わなかった感情は11歳下の夫が埋めてくれている。

夫は無条件に愛されて育ってきた。

夫は自分を信じてる。

夫は良くも悪くも自分を優先できる人。

ひとつずつ愛情のピースを埋めてゆく。

どれだけ時間が掛かるかわからないけど、
ひとりで娘をやり直してる。

充分すぎるくらいやって、私はもう介護することもない。

あなたがもし親孝行したいと思った時には、存分に自分のためにしてほしい。

逆にしたくなければ、どんなに憎まれようとしないほうがいいと思う。恨みながらのお別れなんてずっと後悔しかないと思う。

義務とか世間とか関係ない。

母というひとりのひとと向き合って、
愛憎入り交じっていたけれど今の私は後悔がひとつもない。





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