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今だからこそ、振り返りたい想い。

 この文は、一年前に書いた文です。
「やってみよう!」と素直に思える大人の能力、そしてその視点は自分の感覚はもちろん、第三者の視点や信頼関係などいろんな要素が相まって成り立っていて、その積み重ねで今がある。
忙しさで忘れていた思いを今だからこそ大切にしたい。

HEKACHIMAKKACHI 保育に関わる人のための(だけじゃない)マガジン



「子どものため」ということばに縛られていた

環境整備を始めてから、私たちはいったい何パターンの環境を試行錯誤してきたのか。プレイルーム内はまるでパズルみたいで、完成させるのにかなりの労力を使う。ベンチ1つもそうだ。「どこに置いたら子どもたちが遊び込めるだろうか。」初めは”子どものため”という考えのもと、子どもたちが座りやすい場所や製作コーナー・ままごとコーナーの近くに配置することが多かった。でもしっくりこない。”子どものために”と配置したはずなのに、そのうちだんだんと部屋の隅に追いやられていったベンチは、座られることも少なくなりジャンプ台となり、物置化していった。プレイルーム内の落ち着かない現状に頭を抱える日々。”子どものために”という考えが、かえって私たちを苦しめた。
そんな中、研修で言われたことばがあった。「いつもならその感覚あるのに、どうしちゃったの?」そのことばをヒントに、走り回る子が多くいるプレイルームを見渡すと、保育士も誰一人座っていない光景が目に入った。そして気付く。もしかして私は勘違いしていたのかもしれない。モノさえ整えば子どもは落ち着くのだと。”子どものために”日々試行錯誤してきたはずの環境で落ち着かないのは、子どもたちに原因があるのではないかとさえ思ってしまいそうだった。でも目の前の光景を見ると、落ち着かない原因は子どもたちのせいだけではなかったことが明確だった。明らかに私たち保育士の落ち着く場所がない。大人が座っていないし、ここにいたいって思う場所が1つもない気がした。そしてただ保育士が「大変大変」と動き回っている。それなのに”子どものため”ということばに縛られ、子どもには落ち着いた生活を求めていた自分がいた。


「自分だったら…」から生まれた心地よさ

「どうしちゃったの?」の意味も初めはわからなかった。ただ目の前のことに追われながら、自分なりに工夫してきたつもりだったから。「私だって頑張っている。」その一言で終わることも出来た。でも、そのことばが妙に引っかかったのは、自分の感覚を知っていたからだろう。ただ、忘れていただけ。「とりあえずやってみよう!」いちいち許可をとったり伺いを立てなくても、以上児チームとして複数人でクラス運営している私が素直にこう思えるのは、私の感覚を信じて任せてくれるチームのメンバーがいて、大人のやってみたいを叶えてくれる園長先生や主任先生がいるから。
「自分だったらどこに座りたいのだろう。」「自分だったらどこが落ち着くのだろう。」今度は”自分だったら”という発想に切り替えた試行錯誤が始まった。大人も座ってホッとひと息つけるような落ち着く場所を作ろう。そんな思いで廊下に置かれたベンチは、賑やかなプレイルームを一枚隔てて落ち着いた空間になった。朝は登園後の子どもたちのホッとする場になり、日中は本を読む子どもで溢れる。もちろん保育士のホッとひと息できる場所でもある。”子どものために”と考えていた時には誰も座らなかったベンチが、”自分だったら”と発想を変えたり、第三者からの視点やみんなとの信頼関係など様々な要素が相まって、絶妙な役割を果たす素敵な場所になったのだ。
”子どもたちのために”と子どもを分析するだけでは限界が来る。自分だったらどうしたいのか。自分の感覚を知っていくことで見えてくることがある。自分の感覚をこれからも大事にしよう。自分だったら何が心地よくて、何を嫌だと感じるのか。これからも自分に問いかけ続けていきたい。


保育士歴17年目・環境整備歴5年目 南澤


次回は、8月22日(火)「主任の思い」です。