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働くとは何か?

昨日の落ち込みの原因は、この問いについて、でした。
私は、いろんな職を経験しました。
それなりに自分の気持ちが向くもの、性質が向くもの、そのための資格を取り、中途半端な小遣い稼ぎでは済まさないように、どの職にも真剣に向き合ってきたつもりです。
でもどれも、長続きしませんでした。
多くの原因が、私が集団の意向に従えないことです。
従えない、というのは、敢えて反抗的にしているわけでなくて、「理解ができない」のです。

例えば、それぞれの職場で、決まったルールがあるとします。
極端な話をしますが、
ある職場の挨拶が、「バカヤロー」だとします。
その会社の業務内容が、自分がどうしてもやりたい仕事であった場合、バカヤロー挨拶なんて、適当に合わせておけば良いじゃない?それで職場が円滑になるんなら、と思って合わせる人が多いと思いますが、私はその理解できない習慣を受け入れることができないんです。
そんな瑣末なことに我慢できないで、社会人としてどうする?という意見もあるかと思います。
でも、どうしてもできない。
すると、それに従っていないことで、職場で浮いてしまい、排除の対象になってしまうこともあります。
でも排除の原因は、集団の中で1人だけ違う方向を向いていた私に原因がある。
だから結局は、こだわりを捨てられない自分の責任となってしまうのです。
わかりやすい原因があればまだしも、そもそも「やりなさい」と言われたことを理解していなくて、やらなかったということもあり、別の無駄な業務に手をつけていて、結局は全体の足を引っ張っていた、ということもありました。
なので、『正職員として』バリバリ仕事をこなすというのは、夢のまた夢なのです。

自分で生活をまかなえなくても、家族の扶養で生きていける私は、幸せ者だと思います。
自活する責任を放棄して、他のボランティア活動に精を出しているのは、もしかして、何か違うのかもしれません。
でも、それでも生きていけるのなら、それで良いと思うのですが、負い目でもあるんですね。

そんな自分の負い目があったからこそ、ある言葉に引っかかってしまいました。
年配の方と、夫婦の在り方について話していた時、その方が言うには、
「よく奥さんが、旦那さんは家事をやらないと不満を言うけど、旦那さんは家族を支えるために、外で我慢して必死に働いていて、たくさんの負担を背負っている。だから、もし奥さんが旦那さんに文句を言うなら、旦那さんを楽にしてあげないと。旦那さんを楽にしてあげるには、やはり自分も旦那さんと同等の収入を得ないと」
すごくすごく、納得感のある話だと思います。
私も概ね同意です。
けれど、夫が苦しいから、妻も苦しむべきなのか?
そもそも、家族の生活を維持するために『働く』ことが、なぜ苦行に耐える設定になってしまうのか?
生活の糧を得る仕事は、なぜ、そんなにも苦しいものばかりなのか?

私は、そんな全く違う次元で、疑問を持っています。
そもそも私が自活できない負い目も、スキルや意欲以前に、なぜかその集団だけに存在する謎ルールに盲目的に従えないことにあるので、本当だったら、ガッツリ『仕事』をして成果を出したいんですね。

そんな時、
『働くとは何か?』
ということを深く追究しているブログに出会いました。
そのブログの著者は、もともと大手企業の会社員で、バリバリ働いていたサラリーマンだったそうですが、ある時、仕事を辞め、世界放浪の旅に出たことで価値観が変わり、生き方について哲学的に考えるようになったという人です。

そのブログは、私がモヤモヤとしていたことに、スッキリと答えをくれるような内容でした。
そもそも、収入を得るために仕事をする。その事業を継続させるために働き続ける。働き続けなければ生きていけない。というシステムになっていることが、本末転倒ではないかと。

以下は、そのブログの内容を受けて、私が勝手に連想したことも含まれますが……。

働くというのは、生きること。
仕事は、対価だけでなく、社会の中で自分の存在を明らかにするために必要なもの。
それは、誰かのために力を貸すことであり、対価はその貸してもらった力に対して、お返しをするものだから、何もお金でなくても良いはずです。

ところが、大量生産して多数の人にサービスを提供することで、多数から金が集まり、その事業の儲けが集中することで、豊かさを手に入れられるという資本主義が主流になってから、富を独占するために、人々が必要か必要でないかわからないものまで、大量生産して売るようになりました。

仕事は、直接自分を活かすものではなく、資本を独占している一部の人間から、生活に必要な給料をもらい受けるために、独占者の意向に沿って行い、それに見合う対価を独占者からもらうものとなりました。

資本主義以前の『仕事』とは、直接顧客に届けて、その対価を受け取るもの、あるいはお互いにそれぞれのできることで助け合うものであったと思いますが、今は顧客と直接契約して、労働力の対価を受け取れるようなシステムは、ほとんど無くなりました。

その分、もちろん、システマティックになることで、出来も良いものが大量に作れ、万人のニーズに応えられるような普遍的なものになるため、誰もが安価で良いものが手に入りやすいという利点もあります。

でも、日本はそういう環境に慣れすぎて、まるで魔法のように欲しいものが(大して欲しくないものも)どこでも手に入ると思っている人が大多数です。

いくら安価なものであっても、必ず『作る人』や製造ラインを回す人がいるわけで、その人たちの労力や限界を考えていないからこそ、物が有り余っているわけです。

東京オリンピックで、ボランティアの弁当を大量生産、大量廃棄した事件がありましたが、その弁当を作った人々は、どう思ったでしょうか?
誰の口にも入らず、捨てられるのがわかっていて、弁当を作る。
それでお給料がもらえても、こんな虚しい仕事はないでしょう。

仕事とは、相手の助けになる、役に立つためのものであり、もし相手がいなかったとしたら、自分自身の助けになる、役に立つものでなくてはなりません。

夫が、虚しい思いをしながら、家族のために我慢して働き、自分の身の回りのことにさえ手が回らなくなる。
夫を思うのなら、妻が今度は我慢して働きに出れば良い。
でも結局妻の労力も仕事に取られたとしたら、家の中はますます、誰も管理できなくなる。

仕事とは本来、我慢大会ではないんです。

ロクな稼ぎが無い私が、こんな主張をしても、「だったら稼いで来いよ!」と、必死に我慢して働いている人からすれば思われるでしょう。
だから、そこを議論するつもりはありません。

ただ、稼いでいるか、いないかで人を判断するのではなく、そもそも『仕事』とは何なのか?仕事をしていて、自分が生きている実感が持てる人がどれほどいるのだろうか?というところに、私の疑問はある。

お金があるか、無いか、
生活が豊かか、そうでないか、

も同じところにたどり着きます。

写真は、今日私が作った昼食。
これも自分を活かすための、大きな『仕事』なんですよね。
少なくとも、食べる人のいないお弁当を作る仕事よりは、本来の仕事だといえると思います。

経営者は、金儲けではなくて、そういうことを考えて従業員を雇ってほしいと思いますし、そこに我慢して巻かれている多くの労働者が、本来の仕事ができるような環境になることを、切に望みます。

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