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覚悟

ずっと、悶々としていました。
仕事のこと、趣味の集まりのこと、自分が始めた活動のこと、家族のこと……今後の生活のこと……

すぎてしまったことを、「あの時こうしていれば」と悩み、
過去のことに囚われて、「きっと次もこんな大変なことをやらかすのでは?」と心配になり、
今までの自分の失敗を考えては、「私には何かを成し遂げる根性も知恵もない」と嘆き、
グルグルグルグル、自己否定の渦と今後の不安が渦巻いていました。

自信が無いのに、やるべきことはどんどん迫ってきて、自分が順調に生きているのかどうか、とても不安になってしまい、やってもやっても、それが実績になっているのかわからない。
むしろ、やらない方が良かったのではないか?
私が絡まない方が、みんな安泰なのではないか?
などと考えてしまいました。

久しぶりに、『うつ』を患っていた頃の感覚が蘇ってきました。
うつには、『治癒』という概念が無くて、『寛解』と表現します。
寛解とは、症状が消えるか、一時的に軽くなる状態であり、治癒とは違って再発する可能性も含んでいる言葉です。
折れた骨がつながり、普通に運動できるようになった状態が治癒なら、骨自体完全に繋がってはいないけど、運動しても構わない。でもその部分が脆くなっているので、ちょっとした負荷で折れやすくなっている状態とでも言えるでしょうか?

脆くなった骨は、元の健全な状態に戻すことは難しいでしょうが、心は、たとえ折れやすくなっていても、折れるたびに自己治癒力が増していくのではないかと、今回のことで思いました。

自分には『覚悟』が足りない。
それがずっと負い目になっています。
もともと心が折れやすいので、危うきに近寄らずという傾向も強い。だから、危うい局面になると、すぐに心が折れてしまい、逃げ出したくなるのです。
逃げているので、耐性が付かず、他の人が、どんと構えて応じられることも、ものすごい負担に感じ、それが自己否定にまでつながって行ってしまうのです。
こういう心の弱さを抱えている限り、『うつ』状態にいつ陥ってもおかしくありません。
『うつ』に治癒が無いというのは、根本的に心が脆い場合には、小康状態を保つのが精一杯だからではないかと思います。

ただ、私はおそらく『うつ病』という病気にはなりません。
それは、自分なりに、自分の傾向を知ることができ、そして今も考え、勉強しているから。
1番大変な時に、自分がどのような状態に陥ってしまうのかが想像できるから。
ただ、発作的に『絶望』が襲ってきて、しばらくそこから抜け出せなくなる時があります。

ふと、全てが軽く感じられる瞬間がありました。
何もできない、と思って、
何もやらないでいたとき(実際には、期が熟していなかったので何もやることがなかった)は、
このまま私は何もやらずに人生を終わるんだ
とまで考えてしまったのですが、
それなりにできることをやっているうちに、
あれ?別にそんな深刻に考えなくても、なるようになるのでは?と気づいたのです。

要するに、うつ傾向を持っていない人と同じように生活しているにも関わらず、自分では、焦って「何かしなくては!」「次はどうしよう?」と、グルグル走り回っているような感覚だったのです。

私には覚悟が足りない
そう思うのも、実は『うつ』が見せている幻覚で、実際には、割とイキイキ、堂々と、いろいろなことにチャレンジしていたりします。
周りから見れば、よく動いているよね、と思われているようです。

『うつ』とは、きちんと人生を歩んでいながら、自分の中では「ちゃんと生きられていない」と思い込んでしまう状態なのでしょう。
だから、どんなに立派なことをしていても、どんなに負担の大きい役割を担っていても、どんなに身を粉にして働いていても、
「自分は何もやっていない」という妄想に囚われてしまうのです。

覚悟するべきは、
「今、できることを、できるだけ、やる」
それだけなのですが……

『うつ』という暴れ馬は、どうどうとなだめていったん大人しくなるものの、いつまた暴れ出すかわからない。
しかしその暴れ馬は自分自身なので、暴れ馬の傾向を知ることは、自分自身にしかできないのです。
心が強くなっていくのは、
その暴れ馬の傾向が、少しずつわかってくるということ。
今回のことで、また一つ、暴れ馬の性格を知ることができました。

心の中から暴れ馬を追い出すことはできない。
ならば、死ぬまでに、こいつを乗りこなせるようになってやろうではないですか!

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