父の生き方を考える①
かなりシビアな内容です。
精神状態の安定しない人は、お読みにならない方が良いかもしれません。
私の父は、不思議な人でした。
学者・教育者であった祖父と、保育士をしていた祖母の間に、10人兄弟の7番目として生まれ、幼少期に兄を1人病気で亡くしています。
明るくてふざけた人で、子どもの私たちにときどき本気で賭け事をふっかけて、見事に負けて子どもに借金を背負う、なんて変な遊びをするような人でした。
父の兄弟が多いので、従兄弟の数も多く、親戚が集まると、学校の1クラスができるような数でした。
すると、子どもたちに自分が考案した変なゲームを披露して、みんなを楽しませてくれました。
本人は、別に子どもを楽しませようとしてやっているのではなく、自分が楽しいからやっている感じなので、まるで悪ガキ大将。自分が負けると本気で文句を言ったりしていました。
でも子どもたちには、それが楽しくて仕方なかったんですよね。
晩年、「お父さんは、子ども関係の仕事をしたら良かったのに」などと話したことがあります。
そんな表面的には明るい父でしたが、深刻な劣等感を抱えていました。
いつもいつも、自分の兄弟たちと、自分を比較し、自分は出来の悪い人間だ、自分だけ不幸だ、とボヤいていました。
それも当然。ほかの兄弟たちは、それなりに名のある職業に就いていたからです。
父も、伯父が経営する会社の重役だったのですが、父にとってそれは自立しているのではなく、兄(伯父)の情けで会社に居させてもらっているという感覚だったのでしょう。
本来なら共同経営者として大きな顔ができるはずなのに、父の性格上、それができなかったようです。
重役ではなく、営業マンのような仕事をしていました。
経費を無駄遣いして叱られた、なんてことも話していたことがあります。
父にとって、最もトラウマとなっていたのは、幼少期に亡くなった兄(伯父)のこと。両親(祖父母)がこの兄のことを「神童」と言って期待を寄せていたのに、早逝してしまった。
「出来の良い子は早死にして、俺のような出来の悪い子が長生きするんだ」
と、子どもの私たちに、いつもぼやいていたくらいです。
何かにつけて、他の兄弟と比較しては、自分がいちばん出来が悪いんだと、笑い話として私たちに語っていました。
子どもの私たちは、単なる笑い話で、父が深刻に悩んでいるという感じには受け取っていませんでした。
本当は職場でも居候のような肩身の狭い立場に置かれていたのかもしれません。
家でも、気の強い母から注意されること多々。
母の怒る気持ちがわからないでもないほど、だらしない生活を送っていたのでした。
私にとっては、一緒になって遊んでくれる楽しい父だったのですが、大人の男性としては、あまりにも純粋で幼稚だったのかもしれません。
そんな父が晩年、一念発起して、会社を独立させ、経営者になりました。
伯父の会社で担当していた顧客がそのまま顧客となり、会社の営業自体はうまく回っていました。
ただ、父は人をうまく使うことができなかったのです。
仕事はあるのに、それをまかなう人材をうまく配置できない。采配を振るう度量がなかったのだと思います。
加えて、従業員から足元を見られることが多くなり、常に生活面で注意を受ける出来の悪い子どものように、見下されてしまいました。
これでは社長として尊敬しようという人はいません。
従業員は、陰でやりたい放題だったようです。
結局、経営も軌道に乗り、これからという時に、父は、自ら命を経ってしまったのです。
私はずっと、父の死の原因を、会社の経営が傾いて、と思っていました。思おうとしていました。
自死を肯定するわけではありませんが、多くの人が経済的な苦しさや孤立が原因でどうしようもなくなってという理由が多いのに、経営も順調で、協力者や理解者もたくさんいて、なぜ父が死を選ばなくてはならなかったのか?
そこには、大きな落とし穴があり、それはそのまま、私の身にも起こりうることなので、認めたくはなかったのかもしれません。
父の死後何年かは、そんな原因どころか、父のことを考えることすらも避けていました。
でも、父の死、いや父の生き方を俯瞰することは、私の今後にとって、とても大きな意味を持つことになるのではないかと思い始めています。
冷静に振り返ることができる今だからこそ、しっかりと分析してみたいと思ったのです。
つづく
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