見出し画像

棺の蓋

父方の祖母が死んだ。95歳であった。涙は出なかったが、やはり悲しい気持ちになった。

遺体が焼かれる前、顔を見る最後の時だと告げられ、棺桶の蓋が閉められる。祖母の顔を見ていたので、その時に父がどういった顔をしていたかは知らない。

火葬場に運ばれて一時間半後、祖母は骨になった。


その人をその人だと認識するとき、我々は顔を見ているのだと思う。

もちろん、その人の声、しぐさ、におい、雰囲気なども含まれるが、それらはすべて骨になった瞬間に消えてなくなる。専門家など特殊な能力がない限り、骨をみて「その人」だとは認識できなくなるのだ。

火葬して骨になったとき、「あぁ本当にその人はこの世からいなくなったのだな」と、私はいつも感じている。そして、「もっと顔を見ておけばよかった」と蓋を閉める瞬間を思い出すのだ。


生き物は須らく死ぬ。これは自然の摂理であり、納得している。

53歳で義母が亡くなったとき、とても悲しい気持ちになった。
悲しい気持ちになった理由は、若くして亡くなったからだと思っていた。「50代なんて、まだまだ人生を楽しめる年齢ではないか」と思っていたからである。

彼女を入れた棺桶に蓋が閉められるとき、義父以上に義理の祖母が難色を示した。娘の顔を見る最後の時を、どうしても認めたくなかったのだ。

「いずれ人は死ぬ」「長生きする人もいれば、短くして亡くなる人もいる」
言葉では分かっているつもりだ。

それでも、「親より長く生きたい」と心に強く思う瞬間であった。


葬式後はどうしても妻と死について話すことが多くなる。

彼女が亡くなったとき、はたして蓋を閉めることはできるだろうか。最後の時だと分かって、認めることはできるだろうか。

不幸にしてその時をむかえた人は多く存在する。イメージしただけで張り裂けそうな気分になる私にとって、その方々の胸中は計り知れない。

あぁ、しかし。なぜ人の死はこうも悲しいのか。
全ての人が満足して天寿を全うすることはできないのだろうか。

心残りなく、蓋を閉めれる死に方はできないだろうか。

もう少し生きながら、考えてみようと思う。


記事:アカ ヨシロウ
================================
ジャンルも切り口もなんでもアリ、10名以上のライターが平日(ほぼ)毎日更新しているマガジンはこちら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?