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黄色い水仙

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

太宰治『駈込み訴え』

【ある男の証言】
 
なんで殺したかって?
そんなの憎かったからだよ。よくある怨恨ってやつ?
あ、もしかしてこれもニュースで代替的に放送されたりするんかな。
「有名漫画家J、原作者を殺害!動機は怨恨か?!」なんてさ、面白おかしく書かれたりするんかな。ウケる。
まあ、それでもいいよ。あいつのやったことは、世間に暴露されるべきだ。
死んで尚、世の中から非難され、蔑まれ、あいつの墓に誰も寄り付かなくなるほど、嫌われればいい。
そして、この俺を裏切ったことを、もう一度死ねるくらい、後悔すればいい。
それが達成されるなら、今すぐ腹かっさばいて、死ねるね。俺は。
 
…あっちで絶望に打ちひしがれたあいつの顔を見れると思うと、待ちきれないくらいだ。
 
あ?あいつが何をしたかって?
刑事さんも随分、下世話な話が好きなんだな。
いいぜ、話してやるよ。これは、俺の記念すべき壮大な復讐譚だからな。
 
俺とあいつが出会ったのは、中学生のころだ。
あいつも俺も、教室の隅で一人、黙々と本を読んだり、勉強したりしてるような陰気臭いガキだった。まあ、いわゆる陰キャっていうやつだな。
 
俺はその頃の自分が大嫌いだった。クラスで猿みたいに騒ぐ連中を心底鬱陶しいと思いながら、その内では、そいつらにナメられても何も言い返せない自分の弱さに辟易していた。
 
でも、あいつと俺は何かが対照的に違った。
あいつも一人でいる奴だった。積極的に騒がしい奴らと絡む奴じゃなかった。
昼休みの間は一人で本を読んでいたし、運動もあまり得意じゃなかった。
肌なんて女子よりも白くて、まさにもやしみたいな奴だったんだ。
 
でも、あいつは、誰からも一目置かれていた。
別に誰もわざわざ口にしなかったが、クラスのどんな奴も、あいつが纏う青く、深い雰囲気に惹かれていた。
 
そして、俺もその一人だった。
俺と同じように学生生活を謳歌できないはみ出し者でありながら、その実、自ら積極的にそうあろうしているような意思の強さが奴にはあった。
 
俺は自分に付き纏う孤独感が惨めで、屈辱的で、大嫌いだったが、
あいつを見てると、そんな自己嫌悪が少しだけ薄らぐ気がしたんだ。
 
だって、孤独なあいつは本当に美しかったんだぜ。
 
あ?なんだよ、刑事さん。変な顔してんな。
あれ、どこまで話したっけ。えーと、そうだ、美術の時間だ。
そう。俺とあいつが初めて会話した時な。
 
俺はさ、まあ、現職から察される通りっていう感じなんだけど、昔から絵が好きでさ。
娯楽も少ねえド田舎に生まれたからか、暇な学生がすることといったら、まああれだな。
友達と馬鹿やるか、恋人といちゃつくか、ゲームや漫画のエンタメで時間潰すしかなかったんだよ。
 
クソ陰キャにかわいい恋人なんて、異世界に転生でもしない限り、夢のまた夢だね。
それに、俺にはさっき言ったようにダチもいねえ。
だから放課後はいつもレンタルビデオ屋に寄って、漫画を立ち読みしてたんだよ。
んで、漫画を読んでたら、描きたくなるのが少年心ってもんじゃん?
だから、そこから絵を練習し始めてって……ん?
 
レンタルビデオ屋なのに、漫画ってどういうことって…
あーもしかして刑事さん。結構、都会育ちでしょ。
もしかして、東京生まれ、東京育ちとか?
うわ、当たったよ。まあ、そうかなとは思ったよ。
綺麗な標準語話すしね、なんか、育ちもすごい良さそうだもん。
 
いやあ、あのね、東京と地方の差ってもうすげえのよ。
まずエンタメに種類なんてないしね。俺、上京して、びっくりしたもん。こっちには色んな娯楽が飽和するくらい溢れかえってる。
何種類もある本屋、おしゃれな飲食店、小綺麗な格好した人間たち、ファッション、アニメ、音楽、スポーツ、エトセトラエトセトラ。
 
ああ、ここには例え一人でも一人だと感じさせないような賑やかさがあると思ったよ。
でもさ、俺の地元で漫画を読めるっていったら、さびれたレンタルビデオ屋のレンタル漫画しかないわけ。
 
サブスクリプション全盛期だろ?みんな、段々レンタルビデオ屋なんて使わなくなってきてる。でも、文化発展が遅れまくってるクソ田舎の地元には、細々とこうしたレンタルビデオ屋が残ってて、なんならレンタル漫画とか始めてて、それが俺らの娯楽を支えてんだよ。
 
一回、〇〇県の〇〇ってとこ行ってみなよ。
しょぼくれたジジババしかいないからさ。
おい、そんな顔すんなよ。まさか、今の言葉が気に障ったのか?
はは、刑事さん。あんた、本当に育ちがいいんだな。
 
…大切に育てられたんだろうなあ。
このなんでもある東京で、刑事として活躍できる教育を受けて、親に愛されて育った善人って感じがするよ。
 
はっ、分かるよ。腹が立つんだろ。
家族から愛されることが、自由に生きることが、生まれた時から当たり前の権利だったなら思うよな。
家族をなんだと思っているんだ、誰に育ててもらったと思っているんだって。
…さながらそんな感じか?
 
でも、だめなんだよ。あれは、洗脳と一緒だ。
「ちゃんとした人間になれ」「地元の大学に行け」「周りの人と仲良くしろ」
まるで、そこから外れた人間は、その中で生きていくことが許されないみたいだった。
みんな忠実にそのルールに従って、その道から外れることを恐れている。
 
––––『まるで呪いだ。あんな言葉を信じるな。』
––––『二人で逃げ出そう。この地獄から。』
––––『大丈夫。二人一緒なら、どこだって生きていけるよ。』
 

まあ、俺もあれが“呪い”だったって気づいたのは、あいつに言われてからだけどな。
…ん?なんか、すげえ話、脱線したな。
そうそう、美術の時間!そこで、あいつが、俺に話しかけてきてさ。
 
『綺麗な絵だね』って。
俺が書いた黄色い水仙の絵を見て、そう言ったんだよ。
 
今でこそ、こんなナリだし?まあ、一応、有名漫画家だし?
俺のことを馬鹿にする奴なんて一人もいないけど、あの頃の俺は黒髪眼鏡っ子なわけ。
自分で俯瞰して見ても、ちょーーオタク君なわけよ。
 
まず、普通の神経を持ってる奴なら話しかけないね。
だって嫌じゃん?こんなキモオタと同類だと思われるの。
特に中学生よ?逃れられない義務教育の期間内で、平穏無事に学生生活を送るためには、リスクは避けていくのは無難。触らぬ疫病神に祟りなしってね。
 
………だけど、あいつは俺に話しかけたんだよ。
「綺麗な絵だね」って、本当に、ただ、それだけ言うために。
 
今でも覚えているよ。そう言ったあいつの表情を。
俺の絵を物珍しそうに覗き込んで、微笑んだあいつの笑顔を。
嫌になるくらい、鮮明に覚えてる。
 
 

そこからは、もうトントン拍子に仲良くなっていったなあ。
俺は漫画が好きだったし、漫画を描くのも好きだった。
あいつは小説が好きで、小説を描くのも好きだった。
 
となれば、原作者と作画者の2人で1人の漫画家だろ?
あいつの提案に、俺がそっこーでのって、そこからの学生生活はもうずっと漫画ばっか。
 
学校から帰ったら2人で缶詰なって、話の構成練って、漫画描いて。
あーでもない、こーでもないとか言い合って、たまに喧嘩もしたな。
でも、やっぱり2人じゃないと、いい作品が作れないのが分かってるからさ、どちらともなく仲直りして。
 
あいつさ、すげえ綺麗な文章書くんだよ。
もう、文字全部がキラキラ光って、心臓ぐわっと鷲掴みにしてきてるんじゃないかっていうくらい。それくらい、あいつは人の芯に迫るような文を書くのに長けていた。
 
俺はそんなあいつの才能を尊敬していたし、惚れ込んでた。
だから、いつだか、お前の文章そのままに活かせる小説家として生きたほうが、大成できるんじゃないかって俺があいつに言った時があって。
 
でも、あいつは、あの時みたいに。
俺の絵を見て微笑んだ時みたいに、俺の目を見て、ふっと顔を綻ばせて言ったんだよ。
 
『僕は、君の絵に惚れ込んでるんだ。
だから、僕の文章は、君の絵の中で語られたい。』
 
絵を描く人間からしたら、最悪の殺し文句だよ。
どんな無茶な要望言われても、応えると覚悟を決めたのはあの瞬間だ。
あいつの頭ん中にある世界観を余すことなく表現してやる、と誓ったんだ。
 
そう。それで、大学生の時な。
何回目かの漫画コンテンストで運良く引っかかって、そこそこの賞をもらって。大手のでっかい出版社の大人から、期待してます的な言葉をもらった。
 
もう、その時は、有頂天という言葉は今の俺らを見て作られたんじゃないかってくらい、浮かれたよ。
連載も決まってないのに、コンビニに駆け込んで、酒を買い込んで、朝まで飲み明かした。
酒の味もわからないまま、アルコールを身体の中に流し込んで、へべれけになって、意味もなくあいつと爆笑し合って。
 
んで、そこからはお互いもっと漫画にのめり込んで、勉強そっちのけで漫画描いてた。
大学の単位なんて落としまくりでさ。
俺はなんだかんだ要領がいいタイプだったから、卒業はなんなくクリアしたんだけど、あいつは本当にギリギリ。4年の時の成績発表なんて、2人でパソコンの前で、正座よ?
まじ、どんだけ切羽詰まってんだって。
 
ただなあ、あいつはなんか、こう…策士というかなんというか。
なんだかんだ、最後はうまいことやるタイプなんだよなあ。
ほっとけないっていうか、人たらしっていうか…授業全然出てないくせに、過去問とかはちゃっかり持っててさ。
それ、どうしたん?って言うと、「学科の友達がくれたんだ」って笑う。
 
いつも1人でいる陰気野郎なくせに、時折、奴を熱っぽい視線で見ている人間がいることに俺は気づいていた。
 
男だろうが、女だろうが、そんなのは大差ないことだ。
みんな、あいつを好きになる。
単純な色恋ならまだいい。
厄介なのは、羨望、崇拝。そうした類の眼差しであいつを見ている奴らだ。
 
本当に馬鹿な奴らだ。
あいつがどれだけ残酷で、どうしようもない奴かも知らずに。
……知らずに近づいて、瞬きする間に焼け焦げる。
光に群がって、その熱に浮かされて死ぬ。蛾と一緒だ。
 
いわゆるあいつは、クズ男だった。
近づいてくる人間を手当たり次第に手篭めにして、そいつが最も欲しているであろう言葉を囁く。そしたら、もうダメなんだ。誰も彼も、あいつから離れられなくなる。
 
1人、5人、10人。
あいつの犠牲者が増える度に、俺は心からそいつらを憐れんでいた。
–––––「ああ、可哀想に」
 
だって、そうだろ。
たとえ、どんなに奴らが、あいつに焦がれたとしても、あいつがその想いに応えることは絶対にない。絶対にだ。
何故なら、奴らはあいつがどんな人間であるかなんて、まるで理解していないし、理解しようともしていないからだよ。
 
あいつがどれだけ、どうしようもない人間か。
あいつがどれだけ、最低最悪な奴か。
あいつが…どれだけ…どれだけ、壊れ易い人間かなんて…奴らは微塵も分かってなかった。
 
結局、奴らはあいつを利用していただけだ。
あいつの優しさを、美しさを、都合よく搾取して、悲劇のヒロインを気取りやがって。
気色悪い。この世で一番タチの悪い自慰行為だと思ったね。
 
それがどれほど、あいつを苦しめていたか。
……どれほど、あいつが追い詰められていたか…!
 
いや…違う。追い詰めたのはあいつのほうだ。
俺は、あいつを理解していた…!俺は、奴らとは違う!!
あいつは本当に愚かで、どうしようもないクズだった…!
 
人の心配をよそに、すぐ面倒ごとに首を突っ込む奴だった!
弱っている相手の懐に入り込んで、甘ったるい言葉を吐いて、その場だけの愛に溺れて…!
 
そのくせ、相手の都合のいい時に、都合のいいように使われて、搾取されて…
消耗して、ボロボロになっている自分にも気づかない…!
 
本当に、本当に…大馬鹿野郎だ…。
クソ野郎だ。…だから……俺は…っ!!!
 
––––『これ、△△くんが書いたの?……すごい…すごく綺麗な絵だね。』
––––『僕は君の絵に惚れ込んでいるんだ』
––––『…ねえ、△△。僕さ、最近思うんだ。蜷帙↓蜃コ騾「縺医◆縺薙→縺後?∝ 』
 
 
……っ、ああ、いや悪い。
なんでもない。ただの眩暈だ。
 
…少し、取り乱した。
話を戻そう。とにかく、あいつは本当に愚かな人間なんだよ。
 
今の話でわかったろ?
自分大好きなクソオナニー野郎だって。
 
まあ、プロの漫画家としてデビューしてからは、少し落ち着いたけどな。
いや、あの頃は、とにかくボロボロになりながら漫画を描いてたから、そんな暇なかったっていうのが正直なところか。
 
締め切りに追われて、何日も寝られなかったんだけどさ。
どんなに追い込まれて、もうダメだ、さすがにもう指1本動かせねえーーーってなっても、
あいつが完成させるストーリーは毎回毎回、息を呑むほど美しかった。
物語として最高の出来だった。
 
たった一節で、人生を変えるような文章が世界中にあるとして。
それら全てを凡夫が作り出した駄文だと思えるくらいには、あいつの紡ぐ言葉は、その一つ一つが、いっとう輝いていた。
 
だから、描いた。
描くしかなかった。あいつの理由になりたかったから。
 
あれほど愚かで、耽美な存在を俺は見たことがない。
きっと、世界のどこにも存在しない。
 
その美しさ故に、この世の穢れを受け入れられず、
己自身に刃を向け続けるあいつを、この世界に繋ぎ止める理由になりたかった。
 
溜まりに溜まった厭世感を吐き出すかのように、あいつは言葉を紡ぎ、物語を書き続けた。
俺は、それを描き続けた。
 
飛ぶ鳥も落とす勢いとは、まさにこのことだと思ったよ。
プロとしてデビューしてから、俺らはあっという間に、大人気漫画家として世間に名を馳せた。

誇らしかった。
世の中の愚図共に、あいつの正しさを伝えられたと思った。
大金が入って、大きなトロフィーを貰って、老若男女が俺とあいつを称賛した。
あいつは隣で、変わらず微笑んでいた。
 
そう。
あの時、確かに、俺らは互いを必要としていた。
俺にとってはあいつが、あいつにとっては俺が、この世界で生きていくための心臓であり、脳であり、血肉だった。
 
あの女が現れるまでは。
 


–––––『ねえ、△△。僕さ、思うんだ。君とコ騾「縺医◆縺薙→縺後?∝ヵ縺ョって。』
 
 
暴力的な才能だと思った。
あの女を、その絵を、初めて見た時、ぱーーんっと何かが痛烈に弾ける音がした。
 
その女とは、出版社での打ち合わせ中に出会った。
「ファンなんです!」と鼻息荒く、向かいのブースから駆け込んできた女は、○●と名乗った。
 
聞けば、出版社に持ち込みに来たド新人だという。
–––––「私、ずっと…憧れてて!あの漫画を読んだ瞬間、生きる意味見つけたー!って思ったんです!!!」
–––––「あの…恐れ多いことを言ってるのは分かってるんですけど、一度私の漫画読んでもらえませんか…?さっき、すっごいダメ出しくらっちゃったんですけど、自分としては、この編集者の目が節穴としか思えなくて…!」
 
編集者の人間が大慌てで、その女を部屋から引きずり出そうとしたのを、あいつが諌めた。問題ない、とか、いいですよ、とかそんなことを言ってたような気がする。
あいつは、変わらず、微笑んでいた。
 
俺らに、自身の作品を見てもらえると分かった女は、目をキラキラとさせ、大急ぎで自分の原稿を持ってきた。
 
これが間違いだった。
その女を容赦なく部屋から叩き出すか、目の前で原稿を破り捨ててやるべきだった。
 
なんとしてでも、あいつとあの女を引き合わせるのを阻止するべきだった。
 
圧巻だった。
作画、コマ割り、展開のテンポの良さ、魅力的なキャラ、セリフセンス。
どれをとっても、圧倒的だった。
例えるなら、そう、爆発的な生命力のようなものが宿っていた。

たった1ページ、人生を変えるような1シーンがあるとして。
俺は、その日、人生を変えられた人間の顔を見た。

あいつは、笑っていなかった。
頬が真っ赤に蒸気し、瞳孔は極限までに開き、呆然とするあいつの顔。

その顔を見た瞬間、業火に身を焼き尽くされるような感覚を覚えた。
腹の底から湧き上がるような妬み、嫉み、羨望、そして、絶望。
およそ人間が一生で一回、抱くか否かの激情が、自身を包んでいくのが分かった。

高揚している人間の顔が、こんなにも憎々しく思えるなんて、俺だって知りたくなかった。
あいつはあの女の絵に、希望を見ていた。
 
ストーリーこそ、よくあるヒーローバトル漫画の二番煎じだったが、
キャラの表情、心理描写、精緻で美麗な背景、その全てが、作者の溢れんばかりの才を示していた。
 
あいつは興奮気味に女の作品を絶賛し、絶対に漫画家になるべきだと言った。
実力が足りないのであれば、自分が面倒を見て、育てるとも。
およそ見たことがないくらいに目を爛々と輝かせるあいつと、そんなあいつに若干引いている女。
 
俺は、その光景を呆然と見ていた。
 
ああ、俺は、あいつの理由ではなくなったのだ、と。
…いや、違うな。はなから理由になんざなれていなかったのだ、と。
 
煮えたぎる感情とは裏腹に、やけに冷え冷えとした頭が、そう告げていた。
 
死刑宣告の日は早かったよ。
あの女と出会ってから半月が経った時だった。
 
あの女と連載を組むことになった、と。
あいつは、うっすらと蒸気した頬で、そう笑って言った。
 
––––『ここ最近、△△、ずっと体調が悪いだろ。隠しても分かるよ。だから、少し休載して、ゆっくり休もう。連載に穴を開けるのが心苦しいけど、その間は、俺と◯●さんで組んで、何回か読み切りを出そうと思っているんだ。だから、お金のことは心配しなくていい。』
––––『ずっと、△△に負担をかけて申し訳なかった。僕のあの時の言葉が、君に重荷を背負わせた。』
––––『君はずっと僕の言葉を、僕を美しいと言ってくれていたよね。でも、僕は、たとえ君が絵を描かなくたって、』
 
何を言われたのか、よく思い出せない。
体の震えが止まらなくて、耳鳴りがうるさくて、聞けたもんじゃなかった。
 
そしたら、あいつが、俺を置いて、部屋から出ていこうとするから、
もう一度話し合いたくて、あいつの手を強く、強く握ったんだ。
 
俺を捨てるのか俺の絵に惚れ込んだって言ったじゃないか俺の絵を綺麗だってあれは嘘だったのか俺を裏切るのかエトセトラエトセトラ
 
俺はあいつを説得しなきゃいけなかったのに、誰かがずっと泣き喚いていて、俺の声はすぐにかき消されてしまって。
待ってくれ。一旦、話し合おう。
そう言いたかったのに、声が届かない。
 
あいつは、また微笑んだ。
いつもより、少しだけ、悲しげな笑みだった。
 
–––––『ごめんな。△△』
 
気づくと、俺の手の中であいつは息絶えていた。
俺が強く握りしめていたのは、手ではなく、あいつの首だった。
白い首に、残る、くっきりとした、赤い手跡。
 
どこからか、また誰かの泣き叫ぶ声が聞こえた。
咆哮のような、慟哭のような、そんな泣き声が、いつまでもいつまでも部屋に響き渡っていた。
 
 
……これが事件の全貌だ。
原作作家に見捨てられた、哀れな男の復讐譚。
どうだ、いい話題になりそうだろ。
 
好きに言えばいい。好きなだけ笑えばいい。
こんな荒唐無稽な話、中々ない。
 
…はは、困った顔だな、刑事さん。それに、怯えた顔だ。
怖いか?俺が。
 
まあ、怖いよな。
それが正当な感情だよ。刑事さんは正しく、生きている。
大切な……仲間を手に掛けるなんて、狂ってるよな。
 
……でもな、無理なんだよ。
生きていけない。

俺にとって、あいつは心臓だった。脳だった。生きていくための、全てだった。
あの日、俺の絵を綺麗だと言ったあいつの笑顔を見た時、生きる意味を知ったんだ。
 
だから、なりたかった。
俺に生きる意味を与えながら、その実、いつ死んでもおかしくないような危うさを持つあいつの、生きる理由になりたかった。
 
でも、あいつにとって俺はそうじゃなかった。
唯一無二だと思っていた相手の、唯一無二に俺はなれなかった。
…そんなの、もう、生きている意味ないだろ。
 
あの女はきっと、それこそ主人公のように、あいつの抱える闇を拭っていくんだろう。
晴れやかな世界に、あいつを連れていくことができるのだろう。
 
…そんなの、絶えられない。どうしたって、許せない。
だから、せめて、あいつの中に俺の残像があるうちに、終わらせようと思った。
いつか分つ道なのであれば、俺の手で、引き裂いてやりたかった。
 
……ところで、刑事さん。
俺の罪は何になりそうだ?少なくとも、死刑にはなれそうか?
 
まあ微妙なところだよな。
でもなあ、俺はそんな曖昧なものに、身を預けるほど、気は長くねえ。
 
それでだ。知ってるか?
水仙には毒があるんだ。人間の致死量は10g。
服毒後、30分から半日で、吐き気、発汗、下痢、頭痛に始まり、最悪死に至る。
 
ギャンブルに近かったが、どうやら、俺は我慢強いタイプらしい。
おかげで昔話ができたよ。
 
捕まったのが、今朝。摂取したのが、捕まる直前。
もう十分だろう。
実は随分前から、酷い悪寒と、吐き気がしているんだ。
もう、指1本だって動かせない。
 
…やめろ。そんなに慌てたって、もう助からない。
いいんだ。もう意味がない。
あいつのいない世界なんて、ただ汚いだけだ。
 
…声が震えてきた。もう喋れるのも、僅かだな。
じゃあな。刑事さん。話を聞いてくれて、どうもありがとう。
 
…そんな、大声で叫ばないでくれ。それに、そっちの名前は捨てたんだ。
俺の名は△△。ああ、覚えておいてくれ。愚かで、惨めな、漫画家の名だ。
 
 


ゴルゴタの丘で、天邪鬼は笑う


–––––『ペンネームを決めよう。そうだなあ。君は、△△とかいいんじゃないか?』
–––––『すごいなあ。僕ら有名人だ。なあ、△△』
–––––『ほらな、僕の言った通りになっただろ。2人なら、絶対成功できるって。』
 
…違うよ。お前は、二人一緒なら生きていけるって言ったんだ。
…皮肉だな。
結局、二人一緒だったから、お前は死んだ。他でもない、俺に殺されたんだ。
せいぜい恨めばいい。
 
出逢わなければよかった。
関わらない方がよかった。
あの日、俺なんかに声をかけなければよかった。そう心の底から後悔すればいい。
 
–––––『ねえ、僕さ、思うんだ。君と出逢えたことが、僕の人生最大の幸福だって。』
 
そう言ったことだって、覚えていないんだろう。
全部お前が撒いた種だ、ざまあみろ。
 
俺だって、お前になんか出会いたくなかった。
何の気なしに、そんな言葉を吐けるお前が嫌いだ。
そんな言葉に、救われたような気持ちになった浅はかな自分が大嫌いだ。
 
だから、まさか、俺がお前を好きだったとか、ましてや、愛していたとか、
そんなことは絶対にないんだ。



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