アカツキ

心を扱う分野を知り、自分と向き合うことの大切さを知って人生が激変! 思考、心、体。 どこかに偏りすぎると、他が悲鳴をあげます。 問題も、困りごとも、悲鳴が形を変えて起きているのかもしれません。

アカツキ

心を扱う分野を知り、自分と向き合うことの大切さを知って人生が激変! 思考、心、体。 どこかに偏りすぎると、他が悲鳴をあげます。 問題も、困りごとも、悲鳴が形を変えて起きているのかもしれません。

最近の記事

古いものは新しいものに置き換わる時代の中で、変えられない自分を掴んでいく。

古いものは新しいものに置き換わる。 私達は成長する生き物だし、 良くも悪くも 社会構造的に成長しなければならない、 みたいな空気感がある。 今とは異なる時代の名残。遺産。 だから、 ときが流れ、技術が進むことで、 古きものは姿を消し、新しいものが登場する、 というのは、当然のこととも言える。 けれど、それでも変わらないものもある。 変えようとおもっても変えられない、 置き換えようとしても置き換えられない、 そんな何か。 建造物、伝統、習慣、しきたり

    • しっかり悩んで、ちゃんと迷う。自分で迷路の難易度をあげない

      頭がクリアになる。 明確になる、ということ。 ハッキリするから、 しっかり考えられるし、 しっかり悩めるし、 しっかり迷える。 なんだかよくわからない感じに、 考えたり、悩んだり、迷ったりするのは、 ひじょーーに、疲れる。 今、何について悩んでいるのか。 今、何と何と何で迷っているのか。 そこらへんハッキリせず、 「あれがこうで、これがあれで、そしたらあれが…」 私もよくやらかすので、 こうやって書いていて心が痛いけれども(笑)、 気づけば止めら

      • 幾つかの選択肢から、望むものを選べる力

        どこへでも行ける! 何でも出来る! そればかりが自由ではなくて。 限られた選択肢の中から、 望むもの、あるいは近いものを選べる、 それも自由のひとつの形。 それに、その方が馴染みある自由だったりする。 「自由に行きたい!」と望みつつも、 夢を描く先は、 壁一面の模造紙ではなく、 小さなキャンバスを求める。 ある程度の制限が無ければ、「自由」こそが難しくなる。 無限の選択肢から導き出せるほど、 私達は自分の本音を知らないのだ。 だから、 日常のひと

        • 真ん中は中庸に非ず

          目の前が暗いと、 周囲が暗いと、 不安になりやすかったり、 考え方がネガティブに寄ってしまう。 それは明るい世界を知っているから。 陰と陽。 どちらも大切で、 どちらも在るからこそ。 偏るのは当たり前。 一方向だけに偏り続けるから、 不具合が起きる。 ならば真ん中がベストで、 それは一般的に中庸という言葉で説明される。 けれど、 中庸というポジションは無いように思う。 居続けられる[中庸という席]は無くて、 偏る時に、ふと立ち寄る通過点。 立

          目先の誘惑と本当の気持ち

          日々が辛いと、 心が安心出来る方を望む。 それは真っ当なことで、当然の願望。 けれど、 日々が辛すぎて、 辛いことすら分からないほどに、 感覚が麻痺していると、 求めるものが[物理的豊かさ]に限られてしまう。 そこにしか目が行かない時はあるし、 ある程度は無ければ始まらない! そんな主張も大いにわかる。 社会的に生きていくためには必要だと、 そう信じてきたし、 そういう仕組みだったから。 でもね、 その[物理的豊かさ]を得たい目的は?と、 自分

          目先の誘惑と本当の気持ち

          大きな悩み、小さな悩み

          日常のちょっとしたこと 人生を左右するかもしれないこと 自分の中には[悩みの度合い]がある。 けれど、他の誰かを思い描いて、 私の悩みを小さくしてはいないだろうか。 「きっと、みんなも抱えていることだから」 それって、自分を軽く見ているし、 他の誰かも軽く見ているよね。 私の悩みはわたしごと。 誰かの悩みは、私にはわからない。 聞いたところで、度合いはわからない。 わからないものを物差しにして、 私の悩みを小さくしないこと。 心の余白を埋めてしまうな

          大きな悩み、小さな悩み

          左脳優位者が、まず鎮めるもの②

          体に意識を向ける、呼吸に集中する。 これらは思考を鎮めることとして、よく言われています。 私も日々やっています。  けれど、意識を向けた途端に、ぐるぐるする思考が現れたりします。 左脳の抵抗。わかりやすいです。 ぐるぐるする思考に囚われて、体や呼吸に意識を向けきれない。 なら、右脳優位どころか、左脳強化してることになるわけです。 それはもう、続けてもしょうがないです。 「体や呼吸に意識を向ける方法」は一種類しか無い、わけじゃないです。 いろいろなやり方を調べてみる。 瞑想

          左脳優位者が、まず鎮めるもの②

          左脳優位者が、まず鎮めるもの①

          私達には右脳と左脳があります。 それぞれ管轄しているものは、 右脳ならば「思考、論理」とか。 左脳ならば「感覚、感情」とか。 正確な分類は専門家に任せておくとして…。 簡潔に表現すると「右脳は思考で左脳は感覚」で良いかなと思う。 この右脳と左脳に大切なもの。 それはバランスでしょうね。 右脳も左脳もどちらも必要で、どちらが良いわけでも、どちらが悪いわけでもない。 ただ、左脳優位な人が多くて、その大半が、日々の満足感が薄い。だから、左脳は邪魔者めいた位置づけになっちゃうことも

          左脳優位者が、まず鎮めるもの①

          食生活が身体と心に与える影響

          いくら自分軸で考えようとしても、自然体でいようとしても、食生活次第でブレる。食べてるもので考え方が変わってしまう。荒れた食生活を数日くらい続けても、そこまで変わることは無いかもしれない。けれど、数週間、数ヶ月、と、習慣化してしまえば、ブレる。 そして、ブレてることに気づけない。 これが1番ヤバイ。 自分の本音とか、根本とか、信念とか、奥底に根付いたものでさえ、簡単にブレる。身体が疲れて、頭も疲れて、心が疲れて。これまで焦点を絞れていたレベルまで絞れなくなる。 例え、言葉

          食生活が身体と心に与える影響

          ひとまず目を瞑ってみようか

          【ソードの13】 五感は五つもあるのだから、フルに使わないともったいない。一つ一つをガッツリ使えというよりは、最近使っていない感覚ありませんか?意識してない感覚ありませんか? どうしても視覚優位になりがちな私達。他の感覚に意識を向けて見るために、ひとまず目を閉じてみましょうか。

          ひとまず目を瞑ってみようか

          見極める先

          【7 戦車 逆位置】 どんどん進みたい気持ちはわかるけど、一歩ずつ進む時もあるし、なんなら一時停止する時もある。 じゃあ、どうやって見極めるかというと、そこはやっぱり心とか体とか、そういう見方になる。 精神論って話になるけど、そこらへんの下地が大切なことはよくわかっているはず。 軽視していたから、思い悩む今があるんじゃない?

          変化の時代だからこそ、「変化しなければならない」ではなく「変化しやすい」時期と捉える

          時代が移り変われば、考え方や価値観は変わる。 変化は大概、良くも悪くも刺激をともなうから、 歓迎する人もいれば、拒絶する人もいる。 いずれにせよ、 戸惑いや違和感は味わざるを得ないし、 そういった感情の揺らぎが、 後押しとなったり、 モチベーションとなったりするわけで。 社会といった大きな世界にて、 これまでの仕組みや枠組み、 ルールや流行は変わる。 個人といった小さな世界にて、 同様に、いろいろなことが変わっていく。 ある程度の年月を経たあとで振り返ると、 そうした【変

          変化の時代だからこそ、「変化しなければならない」ではなく「変化しやすい」時期と捉える

          いつだって私達は成長を求め、希望や願望によって生かされている

          コツコツと積み上げてきたもの。 繰り返し試してきたこと。 成功を目指して失敗し続けてきたこと。 度重なる軌道修正をしていること。 いわゆる試行錯誤は、 誰しもが、日常的に、行っています。 「今日も試行錯誤していこう!」 みたいな意気込みは無くとも、です。 意識的にやっているかは置いておきます。 今が平凡なら、満足な日々を。 今が退屈なら、より楽しく心震えることを求めて。 今が不幸なら、少しでも幸福に近づけるような。 今が絶望なら、掴めるワラや糸はどこかと。 現在位置と目

          いつだって私達は成長を求め、希望や願望によって生かされている

          適切な努力があるのだとしたら、自分自身の本音に沿っていること

          卵が孵化し、成長し、いつかは大空を舞う。 鳥になぞらえると、そんな過程を辿るわけで。 「一歩一歩、少しずつ」とも言えるし、 「一つずつ階段を越えて」とも言えます。 着実に、という単語の通りです。 それは私達にも当てはまるのでしょうか。 もちろんイエスでしょう。 積み重ねた努力は、いつか身を結ぶ… それは昔から言われていることですし、 時代が変わった今も、定着して存在します。 ただ、 努力すればなんでも良いのか、 努力さえすればなんでも叶うのか、 というと、そういうことでも

          適切な努力があるのだとしたら、自分自身の本音に沿っていること

          特別な何かを探索する旅ではなく、日常生活という日々にて、私を探索する

          私達は時折、何かを求めてさまよいます。 人によっては、 「時折」ではなく「常に」 という人もいるかもしれない。 当てもなくさまよう時もあれば、 特定の何かを求めてさまよう時もある。 名前も形もわからないけれど、 答え、あるいは、ヒントのような何かが、 きっとあると信じて進みます。 探索は入口から入り、さまよう。 ゴールは出口とは限らず、 道すがら遭遇する宝箱かもしれない。 さて、宝探しに来たのではなく、 答えを求めてのさまよいなので、 これはなかなかにネガティブ。 ト

          特別な何かを探索する旅ではなく、日常生活という日々にて、私を探索する

          調和への最短ルートは、現状の認識から始まる

          調和とは、どのような状態を指すのでしょうか。 【バランスが取れている】 それは確かに調和が取れていると言えます。 個々がどれだけ乱れていても、 煩雑であっても、アップダウンが激しくとも、 1つのグループとして見た時に、 「なんやかんやあるけれどバランスが取れている」 のであれば、 それは調和が取れている、調和状態にある、 と言えるのかもしれません。 これは、いささか極端な例であり、言い分ではありますが、言葉の意味だけを捉えるのであれば、さほど逸脱はしていないでしょう。

          調和への最短ルートは、現状の認識から始まる