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スペクタクル(2)

ネトウヨ活動一旦中止。大統領戦に向けてTwitterでのドンパチも激しくなって来た。何とか財団、どこかの国が背後に居るハッカー集団、不審死とあからさまな暗殺。もちろんただの陰謀論じゃない。世界は事実、陰謀に満ちている。僕たちが外から眺めていて本当のところなど分かるわけがないし、当事者ですら何が本当だと考えているか、知れたものじゃない。でもスペクタクルの理論ではどんな強大な権力であっても、彼らはやって来ては去る役者に過ぎない。本丸はスペクタクルそのもので、それはもうどこにでも、あなたの隣にもいる。Twitterでのドンパチでは相手を具体的に絞り込んだ方が効果的だろうから、どうしたって一般論になってしまう僕みたいのは今は邪魔だろう。それでも僕の戦いだって明らかに危険を伴う「現実の」ものなのだから、こっちで一般的な話をしていよう。

スペクタクルを操作するものは居るだろうが、真の権力の中心はスペクタクルそのものにあり、勝者がいかなる顔をしているのか、我々には分からない。例えばテレビは世論誘導をするという意味において支配側の装置だが、大衆にそっぽを向かれて視聴率が落ちてしまっては成り立たないので、大衆のためのものでもある。テレビ番組を製作する側も大衆もまたスポンサー企業などもスペクタクルに向かいスペクタクルを媒介として会話を交わしている。

だからそもそも論を考えたときにはスペクタクルの理論はかなり強力なものとなる。そもそもなぜ、元々は支配機構側の装置であるマスメディアが、元々は大衆側の理論である左派に偏向していくのか。そもそもなぜ、既存の社会システムの解体を謳うBLM運動に、既存のシステムのメインプレイヤーである大企業が次々と支持を表明するのか。もちろん屁理屈はいくらでも付けられる。前者であれば、中国との記者協定があるからそう見えるのであろうとか、全共闘世代が上層部にまだ多いからだとか。しかしそれだけで、視聴者やスポンサー収入を無視してまで自殺的なコロナの煽り報道に突っ走ったことの説明がつくだろうか? 後者であれば、不買運動が怖かったとか、進歩的なイメージを持たせたくて飛びついたがBLMが思ったより過激化して内心冷や汗かいてるとか、いくらでも言えるが、それならなぜ保守は不買運動をしないのか、あるいは大企業は保守は不買運動をしないと踏んだのかなど、いくらでも突っ込みどころが出てくる。

ちなみにほんの昨日あたりから左派が、BLMが社会システムの転覆を狙っているとか、警察を解体するとかいうのはネトウヨが流してるデマだ〜と急に騒ぎ出したが、黒人差別は構造的なものだからそうした社会システム自体を転覆するとBLMの指導者がはっきり言明しているし、左派が急にテニスファンになるきっかけを作った大坂なおみ選手の彼氏も「警察の予算削減」のTシャツを着てますけど? その他キリスト教保守系への攻撃などいくらでも動画もあるし、そうしたもの全てが作られたフェイクニュースだというのなら、すみません、そりゃ騙されます。この問題には落とし所がないので、左派が火消しに入っているだけだろう。抗議運動とその蹉跌によって黒人の被害者ポジションを維持しながらじわじわと自分たちの言説を浸透させる。つまりは従来型のスペクタクルの文法に従っているだけで、映画『ジョーカー』のような本物のカオスが来ては、デュープスたちは「痛快」かも知れないが、スペクタクルが支える権力構造にとっては不都合なのだ。

その種の構造自体が劣化したときにポスト・スペクタクルの時代が立ち現れるのだが、それがいかなるものかはまだ正確には分からない。未来はもちろん誰にとっても分からないが、それでも何かしらの予測可能性がなければ、そのヴィジョンは「賭ける」に値しない。思想とも呼べない。前回オールド・タイプの知性だと言って切り捨てたような、いわゆる「地頭」の良い人がうまく現実を切り分けて説明してくれると言ったようなタイプの評論では、もうどうしたって現実について行けないのではないか。僕の見方では、とりあえず現在の状況でも、ポスト・スペクタクルの時代はすでに来ている。これについては長くなるので別の機会に。

四月頃だったか、アイン・ランドを読もうなんて言ってた。見事にアメリカがアイン・ランドの示唆した混乱に襲われている。スペクタクルの側はずっと彼女を抑圧し、しかもずっと彼女を憶えていた。新自由主義が台頭した時なんかも、引っ張り出されてえらい言われようだったよね。新自由主義派の政治家がベッドに横たわる乳房を誇張されたアイン・ランドに「苛められたよう」と泣きつくような風刺画があったのをなんとなく思い出す。連中は人は皆子宮に帰りたいものなのだと考えていて、意に沿わない者たちを子供扱いして見下すことになっている。そして仲間と寄り合うことをひとつの到達点だと考える。もちろんランドだって最後はユートピアに集うことを夢想したよ。女性だし、映画人だからね。どこまでも孤独に向かったニーチェとは決別したのだと、わざわざ宣言して見せたのもそのためだろう。そんなこと責められるものかな?

人が集まるところには神話があり、神話を否定するような真の神話は孤独な信奉者を持つより他はない。カフカの、幻想的ではあるがとてもシンプルな物語を思い出す。その扉は元からあなただけのためのものだった。ランドを社会小説として読むのは自由だし、実際に現在でもそう読めてしまうところが凄いのだが、ランドは反・スペクタクルの旗手だ。だからスペクタクルはランドがどうにも我慢ならないのだ。


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