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大嶋澄月の辞世 戦国百人一首㊵

大嶋澄月(おおしますみつき)(?-1566)は、兄・照屋(てるいえ)と共に嵯峨源氏の血を引く肥前平戸城主・松浦隆信に仕える家臣だった。
戦国時代の武将としては無名に近い人物だが、勇ましく戦い矜持あふれる辞世を残した。

40.大嶋澄月

   澄む月の 暫し雲には隠るとも 己が光は照らさゞらめや

澄んだ月がしばらく雲に隠れたとしても その光が何も照らさないでいるものだろうか(その輝きが失なわれることはない)

兄弟2人、大嶋澄月と照屋は同じ戦いで亡くなった。

兄弟が仕える平戸松浦家は、同族の相神浦松浦家と抗争を続けていた。
1563年に始まり、3年後の1566年まで続いたがその争いの最前線で戦ったのが大嶋兄弟だった。

2人は1566年の「半坂・中里の戦い」で殿(しんがり)部隊を務めた。
撤退戦で一番難しく、一番恐ろしいのが殿としての戦いだ。
味方を無事に逃がすために最後尾を護る部隊は、敵の攻撃を全て自分たちに引きつけながら退いていかなければならない。
勝つのではない。防ぎ、逃げきるための部隊だ。
例え殿軍が全滅しても。

最終的には平戸松浦家が勝ったが、激しい相神浦松浦家の追撃の中で2人は討死している。

先に怪我で倒れたのが弟の澄月だったと言われる。
覚悟を決めた澄月は、辞世を詠んで(出陣の際に既に用意してあったものかもしれない)自害した。

辞世には自分の名前「澄月」を詠み込んだ。
「月が雲に隠れる」つまり「雲隠れ」とは、「死ぬこと」を意味する。
例え自分は死んでも輝きは失われないのだ、と宣言している。

もう一つ気が付くのは、「照らさゞらめや」の部分。
澄月の兄の名前は「照屋」である。
辞世の中に共に戦う兄の名前も詠み込もうという意図だろうか?

戦国の時代には、親子や兄弟が敵対して争うことも珍しくはない。
そんな中にあって、兄弟が共に力を合わせて戦い、討死するときの辞世の歌に(意図したかどうかはともかく)2人の名前を見つけたことに彼らの絆を見る思いがするのである。

なお、澄月の辞世としては、もう一首ある。

    澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明

美しい彼の名前は、歌に詠み込まれるのに違和感がない。