見出し画像

朝倉義景の辞世 戦国百人一首㊸

自刃したあと、朝倉義景(1533-1573)の首は京で獄門に晒された。

織田信長がその義景の頭蓋骨を使った髑髏(どくろ)の杯を作り、金ピカに塗ってそれで酒を飲んだ、というエピソードがあるがそれはウソである。


43.朝倉義景

  七顛八倒(しちてんばっとう) 四十年中(しじゅうのうち)
  無他無自(たなくじなく) 四大本空(しだいもとよりくう)


苦しみもがいた40年の生涯であったが、結局、この世というものは自他の区別もなく空しいものなのだ

1574年正月1日、義景の髑髏は浅井久政・長政らのものと共に薄濃(はくだみ/漆で塗り固めてから金泥などで彩色する技法のこと)にされた状態で3つが膳に置かれ、織田信長の正月の酒宴を飾ったことが『信長公記』に記されている。
信長の残忍性を示す逸話のように言われるが、実際は敵将に敬意を表するという古代中国の風習に則ったものだという。

金ピカの髑髏杯の話は、この逸話から発展してしまったものらしい。

さて、朝倉義景はもともと「延景」という名前だったが、1552年に第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられて「義景」に改名した。
室町幕府とはかなり親密な関係だった。

1565年に永禄の変で将軍義輝が討たれると、弟の足利義昭は越前の朝倉氏を頼った。義景は義昭を歓迎するが、室町幕府の再興を目指して上洛戦を求める義昭に、義景が応えることはなかった。
勢力を拡大中の織田信長を用心する必要があった上、上洛して京を牛耳る三好氏らを相手に戦うのはリスクが高すぎたのだ。
実際、義昭に上洛を求められていた上杉謙信など他大名たちも、それぞれの事情で動けなかった。

結局、足利義昭を奉じて上洛したのは織田信長だった。
上洛後しばらくは信長も義昭の室町幕府再興をサポートしてやっていたが、やがて義昭とは権力の独占を巡って対立する。

義昭は各地の大名に呼びかけて信長討伐のための包囲網を形成していった。
義景は織田信長からの上洛命令を受けたが、織田への従属を避けるため、2度受けた命令をいずれも拒否。
これがその後の信長と義景の間に起きた、数多くの攻防のきっかけだった。

信長包囲網を形成する一員となっていた朝倉義景は、戦いの中で信長を窮地に陥れることもあった。
しかし、1570年の姉川の合戦を含む数々の戦いは朝倉家に大きな負担をもたらしていく。
朝倉義景の家臣たちからの信頼も徐々に失われていった。
やがて、武田信玄の行軍中の急死で信長包囲網が瓦解。
それを機に迫ってくる信長軍に対して、義景は彼の重臣たちに出陣を拒否されている。

朝倉義景の最後の戦いは1573年の「一乗谷城の戦い」だ。
義景は、手元に残された2万の軍勢で近江へ侵攻してくる信長軍に向けて出陣し、敗走した。
本拠地越前の一乗谷に戻るも、残り少ない家臣たちと家族とともに亥山城(いぬやまじょう)近くの賢松寺に逃れている。

織田勢による一乗谷襲撃は容赦なかった。
小京都・一乗谷の美しい町や庭園、神社仏閣は炎上した。
その上、義景のイトコと言われる朝倉景鏡の裏切りによって賢松寺を包囲された義景は自害に追い込まれたのである。

辞世に義景は「混乱の甚だしい40年だった」とあるが、40年全てが混乱だらけだったわけではない。
文化の香る一乗谷という美しい町で、朝倉氏の繁栄を実感した時間もあったはずだ。

だが彼の晩年は、確かに戦いに明け暮れ、混乱ばかりの日々となった。
のち、義景の血族・親族たちも殺害され、戦国大名としての朝倉氏は滅亡している。