見出し画像

今川義元の辞世 戦国百人一首㊱

今川義元(1519-1560)は、「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下取りに近いとされた駿河国・遠江国の戦国大名であった。
三河を勢力下に収め、さらに尾張を狙って2万5千人の大軍を率いて織田氏討伐に乗り出したが、1560年6月12日の桶狭間の戦いで敗死した。

36 今川義元

夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ 

夏山の茂みが風に揺れて月の明かりがこぼれ見えるが、風がやむとまた月が茂みで雲隠れしてしまう

これは、正確には辞世の歌ではない。
この歌を詠んだとき、今川義元は生涯最後の歌にするつもりはなかったはずだ。
たまたま桶狭間の戦いと同年に詠まれてあった歌が、辞世となってしまったのである。

緒戦の勝利により気が緩んだ今川義元は、戦力では圧倒的に有利だったとされながらも、田楽狭間で油断して休憩を取った。
そこを織田信長軍に奇襲攻撃(近年の研究によれば正面突破の説も有力)にやられてしまった。

この歌では、風が止まった一瞬にこぼれ差していた月光が茂みによって阻まれる様子を、「曇り」「雲隠れ」と詠んだ。
それは、まるで一瞬の隙を突いて討たれてしまった義元自身の死を見透かしたかのような歌だ。偶然だが暗示的ではある。

今川義元はこの戦いで「信長に討取られた愚将」のイメージが先行する不幸なことになってしまった。

・幼い頃から仏門に入っており、武芸を知らなかった
・騎馬できないので輿で移動した
・お歯黒や化粧をして公家気取りだった
などと揶揄されることも多い。

義元の軍師である太原雪斎が存命中は、義元が軍を率いることが多くなかったのは事実である。
ただ、桶狭間の戦いで討取られる寸前には自分を狙う敵将を抜刀して撃退するなどしており、義元に武芸の嗜みがなかったわけではない。

また、騎馬していた記録も残っている。
輿での移動は今川家が足利将軍家の分家であることから特別に許されていた「特権」のようなもの。今川家の正統性や織田氏のような家柄との家格の違いを示すためのデモンストレーションに利用したのだ。

京の公家文化を愛し、都を逃れた公家たちを保護した義元だったので、彼らのように化粧をした可能性はある。だが、化粧は後世の創作だったとする説、戦場にむかう武士の嗜みの一つだったとの説もある。

いずれにせよ、彼を「愚将」と決めつけるのはいささか気の毒な話だ。
とはいえ、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元は、織田家臣の毛利良勝に討取られ、その首は奪われた。

さて、織田信長が今川義元の首を手にしたと同時に、彼から戦利品として獲得したものがある。名刀・義元左文字だ。

義元秘蔵の一振りを手に入れた信長は狂喜した。
喜びのあまり
「永禄三年五月十九日義元討刻彼所持刀」「織田尾張守信長」
と刀に刻んでいる。

この刀は南北朝時代に作刀されたと見られる。
重要文化財に指定されており、建勲神社(京都市)の所蔵で、現在は京都国立博物館に寄託されている。

三好政長→武田信虎(信玄の父)→今川義元→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川歴代将軍家→建勲神社
という具合に戦国三英傑(信長、秀吉、家康)を含む華麗な持ち主たちの間で目まぐるしく主を変えながら現在に伝わった。

この名刀こそ、誰よりも何よりも義元の「雲隠れ」の瞬間をしっかりと見届けていたのではないだろうか。