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池田和泉の辞世 戦国百人一首55

この人物をあえてセンセーショナルに紹介すれば、
「鉄砲で自分を撃ち抜いて自害した日本で最初の人物」
である。
池田和泉(池田和泉守とも呼ばれる)(?-1580)は、残された城で主君の妻子たちを守りながら、ひたすら彼の戻りを待った。
だが、薄情な主人は逃亡後に城に戻ることはなく、城内に取り残された人質たちを見殺しにした。
見捨てられた池田和泉は、城内の状況に悲観し絶望のあまり自害したのだ。
彼を死に追いやった主人とは、有岡城(伊丹城)城主・荒木村重。

池田和泉 55

    露の身の消えても心残り行く 何とかならんみどり子の末

    私は露のように消えていくが、心残りは幼い子供たちのこと。
    なんとか助かってほしい

なぜ彼が自決したのか。

池田和泉は、織田信長に重用された有岡城主・荒木村重の重臣として、
石山合戦や紀州征伐などで武功をあげた人物である。

ところが、1578年に三木合戦で羽柴秀吉軍に参加していた村重が、信長に対して有岡城で急に謀反を起こした。
謀反の理由は諸説あり、ここではその点については省略する。
信長は重臣・村重の反逆に驚き、最初は翻意するよう説得。
しかし、村重はそれに耳を貸さずに有岡城に籠城して1年間徹底抗戦した。

やがて兵糧が尽き、毛利氏からの援軍も阻止され危機に陥ると、村重は妻子や家臣らを置き去りにして有岡城を脱出した。
嫡男・村次の居城である尼崎城へ逃げ込んだのである。

信長は、村重の尼崎城と花隈城を明け渡せば有岡城内の妻子を助けるという条件を、有岡城留守居役・荒木久左衛門らと取り交わす。
久左衛門と主な武将たちは尼崎城の村重を説得するため尼崎城へ出かけたが、村重は面会もせずにそれを拒否。
交渉できなかった久左衛門らは、信長の逆鱗に触れることを怖れ、なんと有岡城に人質として残された妻子たちを見捨てて逃亡してしまったのである。

主人が逃げ、重臣たちも逃げた。前代未聞の出来事である。

池田和泉は、有岡城に取り残された人々のうちの一人だった。
彼は人質となって残された妻子たちの警固役として城に留まっていたのだ。

待てど暮らせど交渉人も主君・荒木村重も城に戻らない。
妻子や城兵らの助命のために、尼崎と花隈の2城を明け渡す気配もない。
残された人々も徐々に自分たちの置かれた恐ろしいシチュエーションを理解し始めた。

彼らは戻る気などない。城内の人々を見捨てたのだ。

池田和泉は主君の考えが理解できず、混乱した。
妻子たちと共に見捨てられたことに気づいた時、冷たい主君に仕えていた自分の愚かさを恥じ、絶望した。

彼は辞世を詠み、鉄砲に弾薬を込めて自分自身の頭を撃ち抜いて自害してしまったのである。
鉄砲で自害した日本で最初の事例だと言われている。

信長は荒木村重らの卑怯な行動に激昂した。

有岡城の人質である妻子や城兵たちの境遇には同情したが、荒木村重への見せしめは実行せねばならず、全ての人質の処刑を決めたのである。
村重や武将たちの妻子・肉親たち122人は磔となった。
中級以下の武士の妻子や侍女たち、武将の妻たちに付けられていた若党の男性たちも含めて510人以上が家4軒に押し込められて焼き殺されたという。

どこまでも救われない話である。