三浦義同の辞世 戦国百人一首㊾
三浦義同(みうらよしあつ)(?-1516)は、のちに出家して三浦道寸(みうらどうすん)と呼ばれたが、ここでは義同で統一する。
戦国時代初期の東相模の大名であった。
相模守護上杉朝興に協力し、北条早雲の相模支配に最後まで抵抗した武将だ。
討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ くだけて後はもとの塊(つちくれ)
討つ者も討たれる者も、所詮はいずれ死んだらばらばらになって土に戻ってしまう焼き物のようなものだ
実は、こちらのバージョンの辞世もあるようだ。
討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ 朽ちて果てれば元の土くれ
どちらも意味するところは似ている。
どれほど栄華を極めた者でも、強い者でも、いずれは死んでしまって土に戻って行くという空しさ。
ぶっきらぼうな印象ながらも自分の死を目前にして死を達観し、人生の無常観を見事にシンプルに表現している。
三浦義同は、かつて源頼朝の鎌倉での挙兵に馳せ参じた名門、平安時代から続いた豪族・三浦一族最後の当主であった。
1512年、北条早雲が三浦義同の居城・岡崎城(現伊勢原市)に攻撃開始。
義同は猛攻によって落城する岡崎城から、弟・三浦道香の守る住吉城(現逗子市)へと退却し、抵抗を続けた。
しかし、住吉城も落城し道香は戦死。
さらに新井城へ退却した義同は、扇谷上杉家へ援軍を要請した。
だが、扇谷上杉家や太田道灌の息子・太田資康(義同の娘婿でもあった)の援軍も北条軍に退けられている。
義同と息子の義意(よしおき)は最後の手段として三浦半島の新井城(現三浦市)に籠城する。
三方を海に面する天然の要害にある城で、三浦父子はそこで北条早雲の攻撃を3年間に渡って抑え続けた。
新井城が3年の籠城に耐えることができた理由の一つは、三浦水軍の活躍である。
海から攻めようとする北条軍をその都度水軍が撃退した。
また、扇谷上杉家や安房の里見家との連絡、新井城への武器や兵糧の補給にも活躍した。
そして何より三浦義同父子には家臣たちからの人望があった。
籠城した家臣や兵の中に、脱落者や裏切り者は一人も出ていない。
しかし、さすがの三浦軍にも3年の籠城は長かった。
義同は、家臣たちから上総に逃れて再起することを進言されたが、拒否し城から討って出ることを決意した。
「落ちんと思う者あらば落ちよ。死せんと思う者は討死にして後世に名を留めよ」
と言い、その夜皆を集めて最後の酒宴を催したという。
迫り来る死を感じながらも、誰一人として城から逃げる者は出なかった。
そして三浦軍は城門を開き、敵陣に突入していったのである。
1516年7月11日、新井城の落城。
討死した三浦家家臣たちの血によって染まった湾一面の海は、まるで油を流したように見えたという。
その一帯が油壺という地名になった所以である。
三浦義同は腹を十字状に切って切腹したという。
息子・義意は父の切腹を見届けた後、敵中に突撃して21歳の若さで討死し(自害説もあり)、平安中期から続いた三浦氏はここに滅亡した。
さて、時代は変わる。
三浦氏を討った北条早雲の子孫である北条氏政は、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めによって敗戦した。
これにて戦国大名としての北条氏が滅んだのである。
その北条氏政の切腹が行われたのは、1590年の7月11日虎の刻だった。
1516年の三浦義同の切腹と同月同日同時刻だという。
『北条五代記』には、「道寸(義同)怨霊の祟り」 だと記されている。