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石田三成の辞世 戦国百人一首㉕

若い頃より豊臣秀吉の小姓として仕え始め、側近になって活躍し、ついに五奉行の一人となった石田三成(1560-1600)。
いや、なにより関ヶ原の戦いで西軍の実質的大将だったのが彼だ。

石田三成

筑摩江(つくまえ)や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

筑摩江(琵琶湖東北端)よ。葦(芦)の間に垣間見えるかがり火が見えるが、明日の明け方には消えるあのかがり火と共に私の命もももうすぐ燃え尽きてしまうのだな。

「筑摩江」とは滋賀県の琵琶湖にある入江で、平安時代から歌に詠まれたその地がのちには歌枕となったものだ。
三成の故郷は、その筑摩江の近くの石田村である。
つまりこの歌で三成は「故郷のかがり火」に、彼の人生や豊臣家の命運を重ねて見ている。

自分の死を現実として受け入れようとする気持ちと、ちらちらと遠目にみえるかがり火に表現される心の揺れ、無念の思いが感じられるようだ。

1600年の関ヶ原の戦いは、東軍・徳川家康と西軍・石田三成の対決だった。西軍の総大将・毛利輝元は、豊臣秀吉の五大老の一人だったために東軍の徳川家康に匹敵する大名として西軍に担ぎ出されただけである。
彼は関ヶ原に出陣さえしていない。
もともと家康と正面から戦いに臨むつもりもなく、合戦の終結時まで、大坂城から出なかった。
実質の大将は三成だったのである。

結局関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。
再起を狙って敗走した三成は東軍の追捕部隊に捕まった。
既に東軍の攻撃を受けた三成の居城・佐和山城は落城しており、石田一族のほとんどは討死していた。
大津城に護送され、門前で生きさらしとなった三成。
家康と会見をした後は大坂に護送され、同様に捕まった小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回しの上、京都の六条河原にて斬首された。

「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。
されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」

「西軍だったお前が、東軍の徳川にも加担していたことを知らなかったことは、私が愚かであった。しかし、義を捨てて人をだまし裏切ったことは、武将の恥というもの。何代もに渡って語り継がれ、笑いものになればよい」

この言葉は、敗戦後に捕獲され生きさらしとなった際、三成を見物にやってきた小早川秀秋に放った言葉だという。
西軍の敗北の一番の原因は、小早川秀秋の寝返りだったと言われる。
それを辛辣に批判したのだ。

一方、三成に情けをかけた東軍武将もいた。
猛将として知られる水野勝成は徳川家康のいとこである。
彼は、三成が市中引き回に遭っている最中、編笠をさしかけてやった。
また、合戦前の調略や関ヶ原での戦闘で活躍をした黒田長政は自分の陣羽織を脱いで三成に着せてやったという。

斬首後の三成の首は三条河原に晒された。
生前の三成と親交のあった春屋宗園(しゅんおくそうえん)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)など臨済宗の僧らが首を引き取り、京都大徳寺の三玄院に葬った。